「わが道、わが人生」といっても、残念ながら語るに足る経験は殆ど持ち合わせていない。痛恨の極みであるが、自らの積極的な意志で進路を選んだり、切り拓いたりしてきたという経験は皆無に近いからである。大学卒業後の進路からして、第一志望の大学に残って法律学者になる夢は優秀な同期生が多くて果たせず、内定していた自治省も地方勤務が多いと聞いて逡巡していたところ、偶々面接当日に採用決定した住友銀行へ鞍替えした次第である。今や還暦を過ぎて、仕事一途と子育ての第一の人生を卒業し、第二の人生へ足を踏み入れているが、これまでやりたくても出来なかったことを初めて自分の意志で思う存分に楽しめるという点では、これからの第二の人生こそが夢多き本当の人生ではなかろうか。
振り返ってみると、銀行勤め36年うち、国際部門の仕事に30年、そのうち17年を海外で過ごして、何時の間にか国際派のレッテルを貼られてしまったのは、我ながら予想外であった。国際業務に携わるようになった最初の転機は、昭和35年に英語の行内試験に偶然受かり日米会話学院へ派遣された時であり、その後本店外国部、加州住友銀行勤務と続いた。英会話の傍ら夜間コースで習った英文タイプの技能が、40年を経て今や不可欠のワープロやインターネットに役立つようになろうとは、当時は夢想だにしなかった。
次の転機は帰国後、本店営業部で取引先担当をしていた昭和45年に、創業75周年記念の行内懸賞論文の募集があり、1970年代を展望した国際業務戦略を論じたところ、幸運にも特賞を頂戴した時に訪れた。当時の賞金30万円は結構使い出があり、これを飲み代にして毎晩仲間と侃侃諤諤の議論をしたのは、昨日のことのようで懐かしい。
この論文の要旨は概ね次のようであった。当時、既に国際化の可成り進んでいた大手米銀の進出動機を考察すると、州際業務の禁止で国内営業地域が狭く、しかもグラス・スティーガル法に阻まれて証券業務にも参入出来ないので、成長するには市場を海外に求めるしかなかった。邦銀大手行を取り巻く環境もこれに近く、ユニバーサル・バンキングで自由に国内業務の多角化を進められるドイツの銀行などに比べると、極めて厳しい状況下に置かれていることに気付いた。従って、進むべき方向としては米銀同様、世界的規模で資金を集めて広く世界中の企業へ融資し、資本市場へも積極進出すべきと提言した。
結果的にはこの提言を自ら実現する羽目に陥り、私自身オイル・マネーを求めて中東の砂漠を駆け巡ったり、プロジェクト・ファイナンスを探しにオーストラリアの荒野へ飛んだりといった飛行機暮らしの日々が20年余に亙り延々と続くことになった。ロンドン支店長と欧州駐在役員を勤めた最後の8年間は、英国のビッグバン、欧州統合、ベルリンの壁崩壊などに象徴される目まぐるしい時代の変化への対応に昼夜を問わず没頭した。
4年前に帰国して暫く日本に定住していると、歴史にしろ芸術・文化にしろ、限りなく多様で奥行きの深いヨーロッパが無性に懐かしい。「ロンドンに飽きたる者は人生に飽きたる者なり」と云われるロンドンの風物を、仕事を離れて人生の夢をエンジョイしながら、改めて見直してみたいと思っている。
(明光証券㈱会長 岡部陽二)
(1996年8月26日付け発行、金融経済新聞「ペンリレー」欄所収)