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別子開坑の謎

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 昨年11月13日、念願の別子登山を敢行した。元禄4年の開坑から明治期を通じて住友の事業の中核であった愛媛県別子銅山の大露頭をはじめ坑道、製錬所、運搬施設などの遺跡巡礼を果たした。寒風が吹きすさんで、企業戦士のつわもの共が夢の跡を偲ぶに相応しい厳しい天候下、約5粁の道のりをお二人の先達、伊藤玉男さんと藤本鐵雄さんの案内で要所を押えた実地見聞が出来た。伊藤さんは住友金属鉱山別子鉱業所を退職後に独力で「銅山峰ヒュッテ」を開設され、別子の自然環境保全の傍ら郷土史家として銅山事業の歴史を研究され、「あかがねの峰」などの著作を次々に発表されている。藤本さんは学究肌の住友銀行の大先輩で、父君が大学教授になられる前にやはり別子に勤務されていた縁もあって、「明治期の別子、そして住友」という労作を先年上梓された。 

 別子銅山は昭和48年の閉山まで283年間にわたって約70万トンの粗銅を産出した世界でも有数の銅山であった。銅山開坑の発端について昭和16年に住友本社刊行の「別子開坑二百五十年史話」では、元禄3年(1690年)に阿波生まれの長兵衛という坑夫が、昼なお暗く野獣の棲みかう原始林の中で偶然に発見した大露頭の存在を海を隔てた備中(岡山県)で吉岡銅山を経営していた住友家に通報し、これを受けた大番頭の田向重右衛門が直ちに実地検分の上、翌4年開坑したとされている。この大露頭は現在でも当時のままの姿が見られる。 

 伊藤さんはこの大露頭の周辺を山守りとして観察しているうち奇妙なことに気づいた。舟窪とよばれるこの辺りはツガザクラなどの潅木が地面にへばりつくように生えているだけの不毛の砂礫地であり、その状況は40年前の光景と全く変わっていないのである。別子の山林は銅製錬用の燃料として乱伐され、洪水などの被害をもたらしたが、今から100年前に住友本社二代目総理事、伊庭貞剛の英断で植林を開始し、現在では青々とした山林が復元している。それにも拘らず、100年経った今でもこの砂礫地には全く木が育っていない。そこで、この辺りは300年前も同様に不毛の地であったのではないかとの疑問を抱いた伊藤さんは古文書の調査に取り掛かったところ、住友の家史「垂裕明鑑」がこの辺りの情景を「赭山(赤土の禿山)ニシテ草木生セズ」と記しているのを見付けた。「野獣の棲みかう原始林」とする「史話」は発見の困難さを殊更印象づけるため、「垂裕明鑑」から逸脱した感は否めない。 

 さらに住友家の古文書を読み進める内に、別子開坑4年前の1687年に既に三嶋村祇太夫という男が試掘を行い、開発の出願もしていることが確認出来た。この点は住友家の史書を解説した「泉屋叢考」でも明らかで、近年の研究者によっても指摘されているが、住友家への通報者としての長兵衛の存在を強調するあまり、他の史実を軽視した「史話」の罪は大きい。 

 伊藤氏の考察通り、江戸幕府がとった銅山開発振興政策の大きなうねりの中で住友がその信用と実績を評価されて別子開発に着手したもので、そもそも長兵衛なる「一個人」が登場する状況にはなかったのであろう。事実、幕府は1668年に産出量が激減した銀の海外持出を禁止、代わって銅の輸出を奨励していた。偶々この時期に清国での貨幣用の銅需要が増加し、我が国の割安な精銅に人気が集まっていた。銅精錬業で成功を収めたのち、鉱山業にも進出した住友家からの別子開坑出願が歓迎されたのは想像に難くない。別子開坑により17世紀終わり頃には銅が我が国輸出の7割に達し、産銅量では世界一の座を占めた。 

 幸いにして、平成3年に別子開坑300周年を記念して住友金属鉱山の手で刊行された「住友別子鉱山史」には、伊藤氏の研究成果も採り入れられている。長兵衛通報の話は一伝聞として片付けられ、大露頭発見のくだりは全面削除されて、別子の歴史は1687年に三嶋村祇太夫が行った試掘から始まっている。今まで邦光史郎著の「住友王国」をはじめ戦後に書かれた別子に関する多くの歴史物はもっぱら「史話」を底本とし、さらに著者の創作も加わって、史実から益々遠ざかっている。今回の「住友別子鉱山史」刊行によって歴史が正しく伝えられるようになったことを喜びたい。 

歴史や地理はもとより、経済事象についても事実の誤認や歪曲が誤った判断に結びつく事例は極めて多いので、研究論文をとり纏めるに当たっては念には念を入れて、基礎事実や数字の根拠を確認しなければならない。書き直された別子開坑の経緯から得られる貴重な教訓であろう。

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(1997年4月1日資本市場フォーラム発行、「CMR」第19号所収)

 

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