2008年3月にスコットランドを慶祝する4枚の記念切手シートが発行された(上掲)。
左上;Lion of Scotland、スコットランドの王旗、スコットランド王マルカム3世(1058~1093)の時代から王家の紋章として使われてきた。
右上;St.Andrewsの肖像、キリスト12使徒の一人で、スコットランドの守護神。
左下;Edingburgh城の夜景、キャッスル・ロックという岩山の上に建つ古代からの要塞で、エディンバラのシンボルとなっている。
左下;Saltire、スコットランドの国旗、聖アンデレ十字、セント・アンドリュー・クロスとも訳されている。
大ブリテン島には、紀元前2千年ごろからケルト人と呼ばれる原住民が住んでいたが、紀元前55年にはローマ軍が侵攻して来て、イングランド全土を占領した。6世紀にローマが撤退した後には、欧州大陸からアングロ人とサクソン人が大挙して移住してきたため、ケルト人はイングランドを追われて北方のスコットランドと西端のウェールズに押し込められた。
ローマ占領下の300年以上にわたって、イングランドは比較的平穏な植民地となっていたわけであるが、これはローマ人が要塞を築いてケルト人の反攻を防いだためであった。西暦121年ごろには、ローマ皇帝ハドリアヌスの命によってタイン川から西のソルウェイ湾まで東西の海岸を結ぶ117キロにわたる土塁の長城が築かれた。今に至るまでローマ人の足跡を強烈に記した記念物となっているこのハドリアヌスの長城がおおむねスコットランドとイングランドの国境線となっている(下掲図)。
1066年に大陸から侵攻して来たノルマン人がイングランドに打ち立てた新しい王朝はアングロ・サクソン民族であり、この侵攻は同一民族の内部抗争であった。一方、スコットランドのケルト人はイングランドとの戦争を繰り返しながらも征服されることはなく、独立国であり続けた。
ところが、イングランドのエリザベス1世が継嗣のないまま亡くなり、女王の縁戚に当たるスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王を兼ねることとなったため、両王国は1603年に共通の王を戴く同君連合を結成した。両国は同じ国王を戴くというだけで、別々の国として約100年間併存したのち、1707年にスコットランドが議会を廃止することによって合邦し、連合王国として統一された。
1707年に誕生した連合王国は、統一した制度を持つ国民国家でもなく、両国が平等な構成メンバーとなる連邦制の国家でもなく、緩やかな「一国2制度」に近いものであった。
議会が合邦に賛成したのは、スコットランドが独立を捨てることにより、海外植民地市場への自由なアクセスを得ることができるという経済重視の成長戦略であった。この戦略は奏功し西岸の都市、グラスゴーは新大陸のタバコ貿易などで栄えて、ロンドンに次ぐ英国第二の都市へ発展し、さらには産業革命にも当初から全面的に参画できたなど、合邦の経済的な恩恵には大きなものがあった。しかしながら、当時の住民の9割は合邦に反対であった。
スコットランド(人口;530万人)には以前から、独自色の濃い医療や教育システム、通貨発行権などかなりの自治権が与えられてきたが、ブレア政権は発足からわずか2年で議会設置の是非を問う住民投票を行ない、2004年にはスコットランド議会が新設された。これを記念した切手シートも発行された(下掲)。切手左右端の図柄は、スコットランドの国花であるあざみの花。
この議会の本会議場には英語とゲール語の同時通訳システムが備え付けられている。ゲール語を話す人口は9万人に過ぎないものの、これはケルト人独自の言語であり、ゲール語もスコットランドの公用語と定められたからである。
自治政府はすでにEU本部のあるブリュッセルに事務所を開設し、欧州との直接的な繋がりを強めようとしている。
スコットランドは1707年の統一後も独自の司法、教育制度、国教会を維持する権利などを保持し、2004年に議会が300年ぶりに再会されてからは一段と独自色を強めている。
たとえば、英国で500年以上前に開設された6つの大学のうち、イングランドにあるのはケンブリッジとオクスフォードの2校のみに対し、スコットランドにはセントアンドリュース、グラスゴー、アバディーン、エディンバラの4校が存在する。これらの大学からは発明家のジャームズ・ワット、探検家のリビング・ストーン、経済学の元祖アダム・スミスなど歴史上の偉人も多く輩出している。
英国の大学はすべて政府からの補助金主体で運営されており実質国営であるが、スコットランドではスコットランド民族党政権が大学授業料の全面無償化を実現した。一方、イングランドでは2012年から授業の年間上限額が、3,340ポンドから一挙に9,000ポンドに引き上げられて、真逆の方向に進んでいる。
2014年の9月には、スコットランドの連合王国からの離脱・独立を問う住民投票が行われ、反対55%で独立は否決されたが、この騒動は連合王国という国家の枠組みの矛盾を露呈し、否決後に独立運動は一段と燃え盛っている。
スコットランド民族党は決して極左政党ではなく、独立のメリットを経済政策や税制、社会福祉などの面で住民自らの選択ができるという点を重視する生活に密着した経済的利益を強調し、エリザベス女王を元首とする王国制や通貨ポンドの使用は変えないとしている。問題はEU残留を主張している点で、本年6月のEU離脱国民投票でも圧倒的に残留派が多数を占めたことである。
2009年1月には、スコットランドの熱血詩人ロバート・バーンズ(1759~1796)生誕250周年記念の切手シートが発行されている(上掲)。
バーンズはスコットランド人の生活の中に溶け込んでいる吟遊詩人で、バーズの誕生日である1月15日には世界中に散らばったスコットランド人がハギス(羊の腸詰の一種)を食べ、Auld Lang Syneを歌う。この日はスコットランドの建国記念日に準じる日となっている。
彼は農民詩人として弱い立場にある者への愛情、社会の不正義への風刺を英語だけではなくスコットランドの方言を採り入れた詩を発表し、ロマン主義運動の先駆者とされた。また、彼が収集し自ら改作した数々のスコットランド民謡の中には「蛍の光」や「故郷の空」など日本でも親しまれている詩も多く含まれている。
37歳で夭折したが、女性遍歴も盛んで、恋の歌も多く作り、妻との間に5人の子供、私生児9人を残した。
切手シート左側に掲げられている詩「A man's a Man for a' that、それでも人は人」はスコットランド議会の開会式で歌われた。
第一節の大意はは次のとおり。
Is there for honest Poverty |
真正直な貧しさに |
That hings his head, an' a' that; |
うなだれる必要などあるだろうか |
The coward slave-we pass him by, |
びくびくしている奴隷は置き捨てていこう |
We dare be poor for a' that! |
むしろあえて貧しさを選ぶのだ |
For a' that, an' a' that. |
たとえこの苦労を誰にも認めてもらえずとも |
Our toils obscure an' a' that, |
それがどうした |
The rank is but the guinea's stamp, |
身分など遥か異国の切手も同然 |
The Man's the gowd for a' that. |
人が立派かどうかはそんなものには関わりない |