私の大学受験は、京大一校だけ。受験に失敗したら浪人するつもりであった。高校の時は理系の学問を目指したこともあったが、前回に紹介した私塾の洛北会で英語と数学を学ぶうちに、理系の才能は仲間に劣るようなので、法学部を目指すようになった。
朝から晩までずっと座り続けて学問をしている父を見ていたので、幼い頃は「学者の生活だけはしたくない」という反発心みたいなものがあったが、大学生になってみると、将来の道として大学教授の道も視野に入れるようになった。ただ、先にも述べたように、京大法学部では毎年一人しか助手を採用しないことになっており、その第一候補は同期の高坂君に絞られていた。
商法ゼミの大隅健一郎教授からは京大大学院に進んだ後、私立大学の教授の道を選んではと示唆されもしたが、方向を切り替えることにした。大学三年になると公務員試験の勉強に懸命に取り組み、国家公務員試験法律職六級職に合格した。現在の国家公務員上級職に相当する。順位は三百五十二人中の二百六番で、人気の高い大蔵省や通産省に入るためには百番以内でないと駄目ということであった。
当時、自治庁は自治省になる直前で、大蔵・通産に次ぐセカンドベストという噂であったので、父が蜷川京都府知事に推薦状を頼んでくれた。自治庁に出向くと、大学の成績が良かった点も評価されて、簡単な面接だけで、採用内定即決となった。
自治庁へ就職するつもりになっていたのだが、一九五四年(昭和二十九年)十月に京大経済学部創設三十五周年記念の公開講演会で聞いた堀田庄三住友銀行頭取の講演のことを何かの折に思い出した。堀田氏の長女の育子さんとは中学で同級であり、住友銀行の名前を知っていたことも影響したのではなかろうか。その時の講演内容は、銀行業の話は一切なく、ルース・ベネディクトの『菊と刀』などの話を交えながらの東西文明比較論に終始した格調の高いものであった。
なぜか、就職活動時にこの内容が思い出され、視野の広い堀田頭取が率いる住友銀行への就職を意識するようになった。もう一つ、当時「老いらくの恋」で有名であった川田順が住友総本社の総理事を辞して歌人に専念したという話からも、余裕のある住友の企業文化に感銘を受けていたこともある。いずれにせよ、就職先選択の意識としては、官僚であれ銀行マンであれ、国家・社会のために働く場として大した違いはなかろうと、大雑把に考えていた。
加えて、自治庁の面接時には、周囲のほとんどが東大生で違和感というか、疎外感を感じていた。それに自治庁は、地方自治体での勤務が多いことがわかり、何となく田舎くさいと思うようになっていたこともあった。
結局、堀田頭取の一時間半の講演が私の人生を変えることになったのである。住友銀行の内定をもらって、蜷川知事に謝りに行ったところ、官僚より民間のほうが良かろうと賛同して頂いた。官庁を蹴って民間へ就職というケースも多かったので、それほどの抵抗感はなかったし、周囲も認めてくれた。
住友銀行の採用試験は筆記試験などはなく、一時間ほどの集団での役員面接のみであった。大学の成績順に十人ほどが数名の役員と向かい合って座らされ、波多野一雄人事部長の司会で主に堀田頭取からの質問に答えるだけの簡単なものであった。競争率は二倍ほどで、京大同期からは法学部五名、経済学部三名が採用されたが、学業成績はあまり考慮されなかったようである。面接を終えて帰宅すると、すぐに採用内定の電報が届いた。
あまり威張れることではないが、私自身主体性を持って生きてきたことは少ないように思う。住友銀行に入って後に国際部門に長く従事するようになるが、就職時には銀行に海外支店があることさえ知らなかった。
それどころか、銀行に入って最初に回された立売堀支店での業務は面白くなく、「いつ辞めてやろうか」と思い詰めたことも再々あった。同支店は大阪市西区の中心部から外れた中小企業の蝟集する地域に位置し、大学卒は二人しか配属されていなかった。銀行に入るまで、ソロバンを触ったことはなく、ソロバンと札束勘定に明け暮れる新人の仕事に嫌気がさしていた。
そんな状況から抜け出すための方便として取り組んだのが、英語の勉強であった。大学時代にはESSのサークルに入っていたことは既述したが、立売堀支店一年目に、行内の英語検定試験を受けてみた。ところが、最初のトライは失敗。一念発起して勉強に精を出し、翌年の試験では見事トップ合格の栄誉を勝ち得た。
外国や国際関係部門へ行きたいというような動機ではなく、支店業務への反発が受験の契機であったが、この合格が大きな転機になる。一九五九年(昭和三十四年)十月から半年間、東京の日米会話学院へ国内留学するよう命じられたのである。