洛北高校に進んだ私は、高校では運動らしきものを特にやった記憶はない。理系に興味があったので、化学部に所属した。
三年生の夏に『蒸留水』という研究誌を私が編集して発行した。同誌に「思うままに~化学雑感~」と題して次のように書き出している。
──この一年間、化学を学んで来たのであるが、もし「化学とはどういうものなのか」とまた「何故に化学を学ぶのであるか」と聞かれると、ちょっといや大いにまごつかねばならない──
今読み返すと、結構難しいことを書いており、「よくこんなこと書いたなぁ」と、気恥ずかしい気持ちもしないわけではないが、化学が好きだったことは確かだ。
化学部を指導して頂いたのは、京大卒業直後に赴任してこられた新進気鋭の高橋玲爾先生。実験や課外授業などの勉強だけでなく、麻雀を教えてもらったり、山歩きの手ほどきを受けたりもした。先生には、京大に入学してからも十人ほどのグループでテントを担いで立山や白馬などの登山にもよく連れて行ってもらった。
洛北高校の同期生で忘れてならないのが、高坂正堯君である。彼は高校生時代から目立つ存在であった。同期で洛北高校から京大法学部に現役で合格したのは、高坂君と私の二人だけであった。
彼とは中学時代からの友人で、勉学のうえでは好敵手の存在であった。大学入試の模擬試験では常に現役のトップを彼と競い合った。彼は、後年、京大法学部教授に就き、国際政治学者としても名を馳せた。
後日談になるが、私も学者の道を目指した時期がある。しかし、京大法学部助手の道は狭く、候補は高坂君一人に絞られていた。結局、私は研究者への道は諦め、まずは司法官、次いで公務員に目標を移した。
大学卒業後も、高坂君とは親しく交際した。彼が英国の国際戦略研究所を訪れるたびに、ロンドンに勤務していた我が家にも再三、来てくれた。彼の奥さんと私の家内も親しく、家族ぐるみの付き合いであったが、彼が奥さんと離婚したことから、互いに気まずくなったことは残念としか言いようがない。
高坂君との思い出のついでに洛北会のことにも言及しておきたい。新制の洛北中学には英才教育を目指す特別学級が設けられていた。この特別学級の閉鎖後、父兄が相談、京大で数学科の助手をしておられた桑垣煥先生にお願いして私塾「洛北会」が発足した。十五人の受講生で、百万遍の修道院を借りて毎週土曜日に勉強をしていた。
私は中学一年の時は大阪にいたので無縁であったが、京都に移ると小学校時代の友人が何人かこの塾にいた。父兄のつてで私も入れてもらえ、この塾で高坂君とも一緒になった。進学塾などなかった当時としては珍しい存在で、数学の授業は高校のレベルを超える高度なものであったので、追いついていくのが大変であった思いが強い。
大学へ入ると、直ちにヨット部に入部した。入部の動機は不純なものであった。第一に、他のスポーツは高校までに力をつけてきている者が多く、実力に差がついているが、ヨットなら経験者が少ないうえ、コースの取り方など知的ゲームの面が大きいので、大学からでも十分対応できると思った。この点は、思惑通り正解であった。
もう一つの理由が、船酔いである。子供の頃から三半規管が敏感なのか、鉄棒の上をまっすぐ歩けるという特技を持つ半面、電車がちょっと揺れるだけで気持ちが悪くなった。この船酔いを克服するために選んだのである。しかし、風のある昼間は大丈夫でも、夜床に就くと一晩中浮遊感が続いて困った。この船酔い癖には、後に毎年百二十日以上飛行機で出張するようになっても悩まされたが、齢を重ねるにつれて和らいできた。
それでも毎月一週間かけて行なう琵琶湖の柳が崎での合宿には積極的に参加、部員の数が少ないので、対外試合にも頻繁に出場した。二年生の夏には、一週間をかけて琵琶湖を一周する琵琶湖周航にも参加、これは忘れがたい青春の思い出として残っている。
体質改善を目的にしたヨット部入部であったが、二年生を終えた時にドクターストップがかかってしまった。肋膜炎に罹り、一カ月ほどの静養で治ったものの、退部を余儀なくさせられた。ヨット部をそのまま続けていたら、ひょっとしたらのめり込み過ぎて、私のその後の人生は大きく変わっていたかもしれない。
英会話サークルのESSにも入った。これも不純な動機であった。娯楽らしい娯楽もない時代のなかで、ESSは資金集めのためにダンスパーティーを開いていた。当時の学生の楽しみといえば、アイススケート、クラシック、社交ダンスくらいであった。近隣の女子大に行って人集めをするなど、結構楽しかった。ノーベル賞を受賞された江崎玲於奈氏のお母さんが社交ダンスのレッスン道場を開き、若者を集めてパーティーを開いておられたので、その会にも頻繁に参加した。
ESSでは「パーティー屋」であったので、真面目にやっていたというわけではないが、四年間在籍した。外国人と話す機会はほとんどなく、変な癖がついたせいか、「お前の英語は関西弁だ」と言われていた。
それでも、一九五四年(昭和二十九年)秋に伝統ある日米学生会議が初めて大阪で開催された際に、アメリカ文化センターから日本側数人の代表選考に応募するようESSに要請があり、京大からも数人が申し込んだところ、選考試験をパスして、大阪市立大の会場で米国人学生とのディベートに参加した。
この選抜試験の倍率は結構高かったが、筆記テストのテーマが「Juvenile Delinquency(少年非行)について論ぜよ」というもので、出題の意味もわからない学生が多かったことが幸いして運よく受かったのである。
不純な動機で入ったヨット部とESSの仲間たちとは、今でも交遊が続いている。
肝心の学業については、大隅健一郎先生の商法ゼミに入れてもらえた。このゼミは人気が高く、応募者数が定員の二十人を超えるので、選抜試験が課せられた。これも運よくパス。「法人の権利能力について」という卒業論文を提出したことを覚えている。
先生のゼミのOB会はまだなかったので、数人で手分けして卒業生を訪ね、「大隅会」を発足させて名簿を発行し、数年間は幹事を仰せつかっていた。