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29 大学教授就任──瓢箪から駒のような経緯


 いよいよサラリーマン人生の最晩年の域に達した感があった住銀インターナショナルビジネスサービス会長就任から一年後、思いもかけない大学教授という道が待っていた。これも、やはり「瓢箪から駒」のような経緯であった。この機会に詳らかにしておきたい。

 私が商社を担当していた大阪勤務時代からの長い付き合いであった伊藤忠商事の石田護さんが「どこか大学教授の口がないだろうか」と相談してきたことから、事は始まった。私が明光証券会長を辞める直前のことであった。

 石田さんは私よりも一歳上で、伊藤忠商事では財務部長を務め、当時は伊藤忠ファイナンスの会長の職にあった。広島大学卒業で勉強熱心な学究肌の人でもある。

 そこで、父の教え子であった河合信雄・京都経済短期大学学長を紹介したところ、阪南大学教授公募への応募を勧められ、これに受かって同大学教授に就任されることが決まった。ところが、石田さんは出身の広島大学の原田康夫学長にも頼んでいたため、直後に東広島に新設される広島国際大学教授にぜひという話が舞い込んできた。

 すでに阪南大学に決まっていた石田さんは、原田学長に断りを入れる一方、私には何の相談もなく教授候補として私を推薦したのであった。

 広島国際大学は、大阪工大摂南大学を母体として一九九八年(平成十年)に設立された。新設なので、教授選考は原田康夫広島大学学長に一任されていた。石田さんは西ドイツのシュミット元首相招聘の仕事を手伝うなど原田先生と親しくしていたので、むげにはできなかったようだ。

 私としては、国際金融や資本市場の講義であれば、「非常勤講師くらいは引き受けても面白いかな」程度の気持ちは持っていた。だが、話をよく聞いてみると、医療経営専門の新しい学科を立ち上げるので、フルタイムの教授でという条件であった。

 それまで病院経営や医療経済には関心も経験もなかった。それどころか、病院といえば、人間ドック以外には縁のない私に務まるはずがないと思い、広島の原田先生のところまで断りに出掛けた。

 ところが、原田先生は挨拶もそこそこに「良いところに来てくれました。日本の病院には経営は存在しません。あなたは銀行を経営していたのだから病院経営もこなせるはず」と押し切られた。医療とは別社会での経験を重視され、広島国際大学を広島大学の植民地扱いにはしないために人材を全国に求めるといった教授採用方針に感服し、それなら挑戦してみようかなと、その場で応諾してしまった。


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 新設大学の教授就任資格は文部科学省が直接審査、単行本や論文をどれだけ書いたかなどの業績で評価され、三人に一人くらいは不合格になる。

 前述したが、銀行員時代に私の名前で『為替リスク回避とは? やさしい外為講座』(自由経済社)という本を出版したが、私の手元にはなかった。幸い昔の同僚の実家に保存されていたので取り寄せてもらうなど、申請書作成の準備にてんやわんやであった。文科省には履歴書だけでなく、教育研究業績書や研究等実績報告書、学業成績証明書などの書類を提出した。報告書には、明光証券時代に書いた論説・エッセーや以前に書いた金利スワップやユーロ通貨などの論文、米国市場調査団報告書などを網羅した。通常は文科省から何度も問い合わせがあるようだが、私の場合は質問も書類訂正の求めも一度もなくパスした。

 教授に選考された段階でカリキュラムはすでに決まっており、「国際経営論」などを担当することとなっていた。ところが、日本の医療には国際経営など存在しないので、何を教えてよいのかわからない。

「内容は自分で決めてくれ」と言われ、考え付いたのが外国の医療システムや制度を教えることであった。長く住んでいた英国の病院は国営で医療界だけの特殊な用語が多く、よく理解できなかった。民間病院主体の米国のほうがわかりやすく日本の参考となる面が多いと判断したが、教科書に使えるような書物が見つからなかった。

 そんな折、米国に長く住んでいる銀行時代の同僚の神谷秀樹さんが、ハーバード大学経営大学院のレジナ・ヘルツリンガー教授が著した『Market Driven Health Care』という本を贈ってくれた。

 この本のテーマは、米国最大のサービス産業である医療分野で、「誰が勝者となり敗者となるか」を豊富なケーススタディーに基づいて分析した病院経営論。これを教科書に使うことを決め、『医療サービス市場の勝者』(シュプリンガー・フェアラーク東京)と名付けた。その後『消費者が動かす医療サービス市場』(同、二〇〇三年)『米国医療崩壊の構図』(一灯舎、二〇〇八年)と続き、計三冊の本を監訳出版した。

「医療サービス市場」という用語は、私の造語ではないが、この言葉をインターネットで検索すると、今でも私の本が最初に出てくる。日本では、医療はサービス業ではないとの見方が多い証左ではないだろうか。

 この本の出版にも大変苦労をした。東洋経済新報社などの大手に持ち込んだところ、先進的過ぎて日本では売れない、一定部数を著者が買い取るという自費出版に近い形でなら引き受けるという回答であった。

 逡巡していたところ、旧友の平野晧正さんがたまたま京大ESS・OBの会誌に投稿した「まさかの時の友こそ真の友(A Friend in need is a friend indeed)」というエッセーを目にした。都合がよいことに、彼は世銀やアーサーアンダーセンを経て、外資系出版社のシュプリンガー・フェアラーク東京の社長をしていた。彼のところに飛び込んで、竹田悦子さんという優秀な翻訳者を紹介して頂いたうえ、出版を引き受けてもらった。幸い『医療サービス市場の勝者』は好評を得て版を重ね、このような専門書としては珍しく一万部を売り切った。


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 著者のレジナ・ヘルツリンガー教授はハーバード大学MBAでも名講義で鳴らした魅力的な先生で、同大学の日本での同窓会に招かれて来日された際に、本書関連の講演会を催した。日本の印象として「日本の医師はキング、米国の医師は病院経営者にこき使われるスレイブ」という先生の評価にはなるほどと納得できた。


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 二〇〇〇年(平成十二年)から毎年日本医療経営コンサルタント協会や日米文化センターなどが主催する医療経営の視察団に参加して、米国の大病院やJCAHOといった医療評価機構、行政組織などを訪問した。不思議なことに、もちろん歴史的な経緯はあるものの、メイヨー・クリニック、MDアンダーソンがんセンターといった巨大な有名病院は、人口密集地域ではなく、医療関連以外にはこれといった産業のないところに超然として存在していた。

 メイヨー・クリニックはシカゴから飛行機で一時間ほどのロチェスターという町にあるが、空港はこの病院が運営している。また、テキサスの広野に立地するMDアンダーソン病院の屋上にはヘリポートがあり、二機のヘリコプターがひっきりなしに患者を運んでくる。質の高い医療を求めて全米はもとより中東など世界中から大勢の患者が集まってくるのである。

 これらの実態を見るにつけ、米国の医療技術と病院経営の質は日本と比べても各段に高く、したがって医療費も嵩む事情がよくわかった。これが、貧富の差を反映した医療格差にも繋がっているのは明らかである。この格差を是正しようとしたオバマ大統領の医療制度改革は高く評価できると考え、このオバマケア改革の経緯をつぶさに分析したレポートを刊行した。

 二〇一〇年(平成二十二年)五月には、このレポートを読んだ米国医療機器・IVD工業会の米国人幹部から、彼らの母国である米国で進んでいるオバマケア改革についての講演を依頼されたのには、我ながら戸惑った。


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