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28 明光証券会長就任──米国証券会社を視察


 明光証券は住友銀行系列の証券会社で、私が会長に就く数年前に上場していた。本社は大阪にあったため、社長は東京に常駐し、私が大阪駐在で、大阪証券取引所や大阪証券業協会関係を担うという役割分担であった。

 当時の大阪証券取引所は労働組合の力が強く、そのせいもあって東京証券取引所に比べてコスト高が経営的に問題視されていた。大証改革に精力的に取り組んでいた巽悟朗さんに協力してリストラを進める一方で、江戸時代から米の先物取引で実績のある大阪の特性を生かした先物市場実現にも努力した。

 会長に就任して二年半後に巡ってきたのが、「十三会(と さん かい)米国証券調査団」の団長であった。十三会は旧山一証券の系列や友好証券で構成されていた。調査の主な目的は、株式手数料を自由化し、かつインターネットでの証券取引が急速に進み始めていた米国証券業界の視察であった。

 一九九六年(平成八年)十一月十九日に出発してニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの三都市で証券会社八社、証券取引所二カ所を訪問。九日間で合計十七回の会合、視察をこなした。

「日本版ビッグバン」に直面していた中小証券会社の経営者にとっては、意味のある視察であった。米国証券各社の首脳たちとも親しく懇談、貴重な情報や資料も提供してもらった。

 当時の米国は経済も株式市場も絶頂期にあり、証券取引所からは「立会時間を近いうちに五時間延長する」との計画を披歴された。さらには、「市場は直接参加者だけでのものではなく、国民共有の運用・調達の場であり、国外からの利用者にも開放すべし」という米国証券業界の意識の高さに感銘を受けた。

 各地を見て回った後、有志でカリファルニア州のペブルビーチでのゴルフを楽しむなど有意義な視察旅行であった。しかし、後から振り返ると、ちょうど一年後に、中核であった山一証券が自主廃業に追い込まれ、後味の悪い調査団となってしまった。ただ、この調査団の一切を取り仕切ってくれた当時企画室長であった石井茂さんは山一証券の廃業届を自ら提出した後、ソニー銀行に転じて社長として活躍している。


180816154-940301明光証券入社時の記念写真IMG.jpg

 ロンドンから帰国して間もなくのことであった。京大法学部同窓会の世話人会合で、一九八五年(昭和六十年)から一九九〇年(平成二年)まで最高裁判所長官を務められた先輩の矢口洪一さんと同席した。たまたま民事調停の話になり「暇になったら調停委員でもやろうかと思っています」と口を滑らしたところ、ぜひやり給えと強く勧められ、推薦して頂いた。「瓢箪から駒」のような話だが、明光証券に移って二カ月後の一九九三年(平成五年)五月に東京地方裁判所の民事調停委員に任命された。

 調停委員というと、通例は家庭裁判所や簡易裁判所での仕事が多いが、東京地裁の民事調停は裁判では決着がつかずに調停で仕切り直すように回されてくる事案だけで構成されていた。月に二、三回は東京地裁へ出掛けて、一つの案件が終結するまでには平均半年、長いものは二年もかかることがあった。

 裁判所では時間の観念がずれているのに驚いた。「本件は急ぐので」と言われるので、翌週にまたやるのかと思えば、一カ月後に持ち越されるのは日常茶飯であった。要するに裁判所の時間は世間一般の三倍ほど遅いスピードでゆっくりと動いているのに戸惑った次第である。

 それでも、当初は合意に達して調停が成立するとは到底考えられないような大きな主張の隔たりが、いつの間にか縮まって九割方まとまるのは不思議であった。

 調停委員の仕事は、これまで国際金融業務を中心にロンドン勤務が長かった私にとっては、大きな社会勉強になった。ただ、被告と原告の弁護士の力量の差が鮮明なことも多く、弁護士の終身免許制には疑問を抱くに至った。この思いは、後に大学教授になった時に感じた大学教員の質の格差と同じものであった。

 明光証券の会長を二期四年で退任後、住銀インターナショナル・ビジネス・サービス(SIBUSと略称)の代表取締役会長に就任、一九九九年(平成十一年)十月より相談役、二〇〇五年(平成十七年)まで特別顧問として遇して頂いた。

 SIBUSは住友銀行一〇〇%出資の子会社で、同行が発行していた円建てトラベラーズ・チェック(T/C)や外国通貨紙幣の卸売りを担当していた。円建てT/Cは海外から日本を訪れる旅行客のために発行していたものであったが、販売額は一向に伸びなかった。

 そこで、円建てT/Cの業務からは撤収して、外国通貨の卸売業に専念する方向転換を決めた。当時、邦銀は外国通貨紙幣の供給源をリパブリック・ナショナル銀行など外銀に依存していたが、偽造紙幣の処理などの面でサービスの質が悪く、不評であった。このサービス改善を売りにすれば、伸びるのではないかという読みは当たり、この転換は大成功であった。

 ちょうど、この転換の肝心な時期に社長が六カ月間不在であったので、主要顧客である全国の地方銀行を北海道から沖縄までくまなく廻った。これは、海外しか知らなかった私にとっては、得がたい経験となった。


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