父・利良が亡くなったのは、私がロンドンから帰国する一年ほど前の一九九一年(平成三年)十一月二十七日のことであった。齢八十六。明治、大正、昭和、平成の四代を生き抜いた。
ロンドンから一時帰国して葬儀に臨んだが、ロンドンに戻ってからも五百ページに及ぶ父の遺作『旧中国の紡績労働研究』(九州大学出版会)の校正に忙殺された。
本書の執筆は、父が東洋経済新報社を辞め、三十歳にして再び学問の世界へ戻っての初仕事であった。それだけに、父が打ち込んだ情熱とエネルギーには相当なものがあったと想像される。
父自身も数年を費やして原稿を書き直しており、亡くなる前年の十月に入院してからも、退院後に今一度目を通して出版するつもりで、病状が容易ではないことを悟ってからは、最期まで本書の出版を気にかけていた。
それだけに、本書を出版することが故人への何よりの供養と思い、没後直ちに父のゼミ生で、中国会計にご造詣の深い九州大学の西村明先生に出版の可否をお伺いしたところ、十分に歴史的価値のある研究につき九州大学出版会で出版を引き受けたい、との好意的な回答を頂いた。ただ、本書の校正は相続人である私の責務ということで、大量の原稿がロンドンの私のところに送られてきたのであった。
先にも書いたが、父の死後に兵庫県・諸寄にあった墓を京都洛北の名刹・圓光寺に移した。また父は信条として叙勲を拒否してきたが、父の教え子の方たちからそれでは弟子たちが困るので死後叙勲を受けてほしいと懇請され、旭日中綬章の受章手続きに奔走して頂いた。
一九九二年(平成四年)九月に、八年半にわたるロンドン勤務を終えて帰国、当初は、下北沢の役員社宅に入居したが、社宅には長くは留まれないので、家探しを始めた。下北沢を散歩していて、たまたま気に入りそうな住まいを見つけた。ただ、前の道路も細く、周囲がゴミゴミしている印象であった。この家を売りに出していた創業早々の「マイベストホーム」相沢宏紀社長にロンドンで住んでいたような公園に近い開放的な雰囲気で、都心に近く便利かつ閑静な場所の住宅がないものか相談した。
相談したものの、「そんな物件を見つけるのは難しいだろう」と、諦めかけていたところ、井の頭公園から徒歩一分の場所に建築中の家があるという。京王井の頭線の井の頭公園駅と三鷹台駅にも近く、家の前には神田川が流れる閑静なところであった。大いに気に入ったが、問題はすでに売買契約寸前の買手がいるということであった。ところが、その人は、バブル崩壊を受けて不動産価格が下落傾向にあったため、しきりに値下げを求めていた。私が「引き下げは求めない。現在の提示価格で買おう」と提示した結果、この希望にかなった家を取得することができた。もっとも、バブル崩壊後ではあったものの、地価はその後も下がり続け、二十年を経ても購入時の地価には戻っていない。
帰国して半年後の一九九三年(平成五年)三月末に住友銀行専務取締役を辞任し、明光証券(現・SMBC日興証券)代表取締役会長に就任した。
住友銀行に入行して三十六年間、ロンドンを中心に国際金融分野での勤務が長く、この間、いろいろな方々にお世話になった。住友銀行の諸先輩から頂いた教訓は誠にありがたいものであり、私の人生にも大きな影響を与えた。
思い出に残る、そのいくつかをここに紹介しておきたい。
高橋忠介氏(元副頭取)
「四方に使いして君命を辱めることなかれ」(論語・子路十三の二十 「四方に使いして君命を辱めざるは、士と謂うべし」から。主君の命令で使いに行って、主君の名誉を傷つけることなく、立派にこなせれば士と言えよう)
小倉義信氏(元専務取締役)
「礼は往来を尊ぶ」(礼記・「礼は往来を尊ぶ 往いて来らざるは礼にあらず、来たりて行かざるもまた礼にあらず」から。肝胆相照らすには、互いに往来することが大切)
太田武比古氏(元外国部長・常任監査役)
「残躯天所赦 不楽是如何(残駆天の許すところ、楽しまずして、是をいかにせん)」(伊達政宗「遣興吟」から。太平の世となった今では、私もずいぶん白髪の目立つ齢になったものだ。残されたこの老躯、天が私に許し与えたものであろう。ならば、余生を楽しく送らないでどうするか)
樋口廣太郎氏(元副頭取・アサヒビール社長)
「前例がない、だからやる」
最後に私が作って拳拳服膺してきた教訓も記しておこう。