一九八四年(昭和五十九年)一月、取締役ロンドン支店長として、三年二カ月ぶりに再びロンドンのヒースロー空港に降り立った。住まいは、ロンドン中央の北部に広がる王立公園として有名なリージェントパークに面したチェスターテラス。
このテラスハウスはバッキンガム宮殿なども建築した名建築家のジョン・ナッシュが設計して一八二五年に建てられた由緒のある豪邸であった。四十二軒が外壁の色を統一した一連の長屋として二百八十メートルにわたって連なり、全て地上四階・地下一階で各戸内にエレベーターが付いていた。環境は抜群で、朝はかつかつと蹄の音を響かせてリージェントパークを駆け巡る乗馬のギャロップの音で目が覚めるという田園的な雰囲気に包まれていた。ただ、こんな大きな家に執事も女中もなしで生活するのは結構不便であった。
先に書いたようにゴッタルド銀行の社外取締役を兼務していたうえ、パリに本拠を置くソシエテ・フィナンシェール・ユーロピエンヌの取締役も兼ねていたため、毎月二回はスイスとフランスへ出掛けねばならなかった。加えて業務上の海外出張も毎月何回か入ったので、ロンドン在住といっても、その後八年間を通して年に最低百二十日から多い年には百五十日を英国外で過ごすこととなった。
ゴッタルド銀行の取締役会は先にも触れたように、取締役十名のうち、社内取締役は会長一名だけで、他の九名は日本人二名を含め全て非常勤の社外取締役であった。頭取は業務執行の最高責任者ではあるが、取締役には選任されていなかった。株主が取締役を選任し、その取締役が経営者を選ぶのが筋で、取締役会の主な使命は経営者の業務執行状況の監視にあるという考えに基づいている。
昨今の日本のコーポレートガバナンス(企業統治)改革の先を行く慣行であった。スイスの会社法は日本の商法と驚くほど似通っているにもかかわらず、大きな違いがあったのは、法運用のあり方に由来しているものと実感した。
二度目のロンドン赴任から二年後の一九八六年(昭和六十一年)四月以降は、常務取締役欧州駐在(常務昇進は一九八五年十月)となった。この結果、担当地域の範囲が大きく広がり、中東やアフリカ大陸も担当地区に加わった。
それ以来、クリスマスは中東へ出掛けることにした。というのも、ヨーロッパはクリスマス休暇中、どこもかしこも休みとなり、電車もバスもストップしてしまう。ところが、イスラム教の中東では休みなく働いているうえ、休暇中の欧州から仕事で訪問する人もほとんどいないため、要人に容易に会うことができたからである。このことを知ってからは、中東でクリスマスを過ごすのが「恒例」になってしまった。
一九八八年(昭和六十三年)四月には欧州駐在専務取締役、一九九一年(平成三年)九月からは米州駐在も兼務するようになった。欧州と米州駐在担当の兼務は、後にも先にも私だけである。それまでの米州駐在は私の入社同期の土田宏造専務が務めていたが、急病で帰国せざるを得なくなったためである。
本店機能の一部をニューヨークとロンドンに移し、与信や事務管理などを現地で行なうよう
になっていたため、本店各部の駐在員を監督したり、支店からの申請を決裁するために駐在役員が必要で、米州駐在を空席にはできなかった。そこで、私にお鉢が回ってきたのである。米国本土だけでなくハワイやブラジルなども加わり、地球の三分の二が私の担当地域という信じられない事態となった。可能なものは電話やファックスで処理するようにしたが、月に一度はコンコルドで米国に出張、三、四日かけて事務を処理、ブラジルへも足を延ばした。ロンドンとニューヨーク間には時差が五時間あるが、コンコルドは時速二千キロメートルで飛行するため四時間ほどで着いてしまうので、日帰りも可能。まさにコンコルド・コミューターであった。
それにしても、二度目のロンドン時代は、出張ばかりしていた思いが強い。訪れた国の数も百カ国を超えた。これでは「航空会社のために仕事をしているのではないか」とさえ思ったこともあった。航空会社も上得意に報いるべく、ブリティッシュ・エアウエイズ(BA・英国航空)は同社の季刊機内誌『ビジネスライフ』(一九八九年七月号)で「欧州で最も影響力のある日本人十人」と題する特集記事を組んで、銀行マンでは私一人を選んでくれた。これはBAを頻繁に利用する常連客百人を抽出して新聞記者による投票で十人に絞ったものである。
出張先は欧州と中東が中心であったが、こんなこともあった。一九八九年(平成元年)六月のことである。東京の国際総本部長が急病に罹られたため、私が急きょ北京で開かれたアジア開発銀行総会に出席することになった。これが、奇しくも天安門事件の一週間前のことであった。
同じ年の十一月には、ベルリンの壁が崩壊し、統一ドイツとの取引に関心を示す経営者が増えた。このため、一九九一年(平成三年)三月に住友銀行主催の「統一ドイツセミナー」が大阪で開かれ、講師として一時帰国。その後も欧州統合や新通貨ユーロ導入の動きが加速したため、日本での講演などの機会も増えた。
当時、北アイルランドはIRA(北アイルランド共和国軍)のテロのイメージが先行し、訪れる人は極めて少なかった。ただ、テロは北アイルランドに限られたことではなく、むしろロンドンのほうが危険であった。政府が重点的に北アイルランドへのインフラ投資を行なってきたので、「北アイルランドは安全。日本企業の投資先として有望」と判断し、一九九一年(平成三年)八月には関西地区の中小企業二十五社による欧州投資環境調査団の訪問地に北アイルランドを組み入れた。
一九九一年(平成三年)十月に北アイルランドのベルファストで行なわれた全日本対ジンバウエのラグビーを応援したのも忘れがたい思い出となった。早稲田大学ラグビー部で鳴らした宿澤広朗君が率いる全日本チームが勝った唯一の試合。宿澤君とは、最初のロンドン在勤の時期が一緒で、彼の結婚式にも出席した。五十五歳の若さで亡くなったのは、残念でならない。