四年ほどのロンドン勤務を終え、一九八〇年(昭和五十五年)十二月に帰国、国際投融資部長のポストに就いた。国際投融資部は、前年七月の総本部制移行に伴い、国際総本部内に新設された部で、私は小野徳行さんに次ぐ二代目の部長であった。総本部長は樋口廣太郎さん(後の副頭取、アサヒビール社長)であった。
かつて次長として在籍していた国際金融部は、わずか一年半で国際業務部に統合され短命に終わったが、総本部制導入と共に国際投融資部という形でよみがえったものであり、この異動は古巣へ戻ったようなものであった。
国際投融資部の業務内容は、①シンジケートローン、②プロジェクトファイナンス、③証券関連とデリバティブ取引やM&A(合併・買収)などの新規業務開発が三本柱。特にプロジェクトファイナンスには力を入れた。
この部の使命は業務の企画をして支店に目標を課すといった一般の本店機能に加えて、自らプロフィットセンターとして取引を推進することにあった。
そのため、案件を追いかけて一年のうち半分をオーストラリアへ通っていた時期もある。同国には鉄鋼や石炭、ウランなどの資源が豊富で、それらに関するプロジェクトファイナンスも多かった。最初に採り上げたプロジェクトファイナンス案件は同国・ノーザンテリトリーにあった世界最大のウラン鉱山開発案件で、ダーウィンの西方二百五十キロメートルにあるレインジャー鉱山の採掘現場での調印式に参加した。
ロンドンからの帰国時には自宅ではなく銀行の石神井寮に入居した。これは、次男を筑波大学付属高校へ入学させるためであった。帰国子女を受け入れる条件として、「都内二十三区内に住んでいること」という項目があり、仕方なくいったん銀行寮に入ることにしたのである。寮での生活はわずか五カ月間で、すぐに花小金井の自宅に移るというあわただしさであった。
振り返ってみると、花小金井の自宅は二十年近く所有していたが、このうち私が住んだのは五年間に過ぎない。自宅として建てたものの、人に貸していた期間がほとんどであった。後に専務となってロンドン赴任から帰国した後も、下北沢の役員社宅に入ったため、自宅はそのままにしていた。その後、吉祥寺に新たに家を購入し、花小金井の家を処分した。
仕事の話に戻ろう。一九八二年(昭和五十七年)七月には、先にも触れた本邦初の金利スワップ外債の発行を実現した。第一号は住友銀行の一〇〇%子会社の香港法人に住友銀行の保証を付けて発行、第二号は一九八三年(昭和五十八年)五月に住友銀行本体が総額一億ドルの金利スワップ外債を発行した。金利スワップは、固定金利と変動金利の支払債務を交換(スワップ)することで、調達側にとっては長短ミスマッチの金利リスクを低減する仕組みである。この金利スワップが為替スワップ、さらにはクレジットスワップなどへ急速に拡大し、デリバティブ取引という金融の新分野が出現した。
初の金利スワップ外債実行の前月、一九八二年(昭和五十七年)六月に取締役に任命された。四十七歳での取締役就任は、当時でも若いほうであったようで、雑誌社などが主催する若手役員座談会に引っ張り出されたり、ニュービジネスリーダーとして週刊誌に顔写真付きで紹介されたりした。
ただ、取締役になったからといって、特に私の意識が変わったわけではなく、仕事のうえでも大きな変化はなかったというのが実情である。
その翌年四月には、スイスのゴッタルド銀行売却の話が私のもとに持ち込まれた。最初の打診は、シュローダー銀行東京駐在のスティーブン・ブリスビー氏からであった。当時のゴッタルド銀行はスイス国内で十二位のプライベートバンキングに特化したイタリア語圏の優良銀行で、株式はチューリッヒ市場に上場されていた。ところが、イタリアの親銀行アンブロシアーノにまつわるスキャンダルの結果、株式の過半がルクセンブルク政府の所有となり、それが入札にかけられることとなったものである。話を聞くや、直感的に「ゴッタルド銀行は実態よりも低く評価されている。何としても買収すべき好機」と判断、樋口総本部長の了解を得て、シュローダー銀行をアドバイザーとしてリテインした。すぐに樋口さんとともにスイスへ出張、ゴッタルド銀行を訪ねて丸一日同行のガルツォーニ会長と膝を付き合わせて話し合った結果、経営基盤のしっかりした良い銀行であるとの確信を高めた。
もっとも、行内にはスキャンダルにまみれたイタリア系の銀行を買収するのは「火中の栗を拾うようなもの」と反対の声も多かった。紆余曲折を経たものの、一年後の一九八四年(昭和五十九年)二月には公開入札の末に、バンコ・アンブロシアーノ・ホールディングス(BAH)が所有していたゴッタルド銀行の株式六七%を約三百五十億円で買収することに成功した。この入札には十行以上が参加したが、住友はシュローダー銀行の提案を受けて、入札額の最高額に百万ドルを上乗せするスライディングビット方式を思い切って取り入れ、最高限度額も引き上げたことが、買収成功のキーポイントとなった。
BAHとの正式調印は、私がロンドン支店長として赴任した二カ月後の同年三月に行なわれた。以来八年間、私はゴッタルド銀行の社外取締役を務め、毎月ロンドン─ルガノ間を百回以上行き来することになった。ルガノはチューリッヒとミラノの中間でスイスアルプスの南側に位置し、風光明媚なルガノ湖に面したこぢんまりとした町であった。
同行の運営で印象的であったのは、十名で構成されていた取締役会は会長一人を除いて全員が社外取締役で、執行責任者の頭取も取締役ではないという徹底した方策決定・執行分離のガバナンス体制であった。その会長が過去のスキャンダル絡みでイタリアの警察から訴追された際には、当事者である会長を外して、社外取締役だけで審議をして善後策についての結論を速やかに出したのには驚いた。
同行とは業務面での連携も深まり、株価も三倍ほどに上昇したが、残念ながら住友銀行本体のバブル処理に伴う自己資本充実策の一環として、一九九九年(平成十一年)に売却せざるを得なくなってしまった。