SFIの創設時の社名は、一九七三年(昭和四十八年)五月にホワイト・ウェルド社と折半出資で設立した住友ホワイト・ウェルド。三年後の一九七六年(昭和五十一年)十一月、住友銀行側の出資比率を六〇%に引き上げ、社名も住友ファイナンス・インターナショナル(SFI)に変更した。折半出資は当局の指導による条件であったが、実際問題としてそれではスムーズな運営ができないことがわかった結果である。
この社名変更は私の社長就任とほぼ同時のことであった。初代の清水照久社長はホワイト・ウェルド社との折衝に苦労され、私も当初半年はマックミラン氏という英国人と共同社長であったのでやりにくい面もあったが、マーチャント・バンカーの仕事の進め方を学ぶよい機会にもなった。
変動利付きCD(FRCD)のその後についても簡単に触れておこう。新商品のユーロ市場での評判はすこぶる良く、邦銀各行とも相次いで発行に踏み切った。発行額が大きく増加したのはもちろんだが、ユーロ市場だけでなく米国内でも大量に発行されるようになった。
FRCDの券面も住友銀行発行第一号の一万ドルから二十五万ドル、百万ドルと大型化していった。さらに、邦銀だけでなく、フランス、スイス、スペイン、ブラジル、ベネズエラなどの外国銀行も発行を手掛けるようになった。
FRCDの急拡大は、使い勝手の良さを示すものであり、イングランド銀行に「市場はある」と、私たちが断言した通りの展開になった。
このFRCDの成功は、私が社長を務めていたSFIの存在を英国金融市場・シティに大きく印象付けた。
さらに付言すると、帰国後の一九八二年(昭和五十七年)七月には、住友銀行が邦銀として初の「金利スワップ外債」をユーロ市場で発行した。これは、固定金利建ての外債を発行すると同時に別途スワップ契約を締結して、金利のみ変動金利建てに換えるというもので、先のFRCDのニーズを別の方式で満たすことができたさらなるイノベーションであった。
一方、SFIの最大の使命であった日本企業が発行するユーロ債の引受主幹事業務については、銀行と証券を分離する大きな法制と行政の障壁に阻まれて、難渋した。
日本では戦後まもなく米国のグラス・スティーガル法に倣って銀行と証券の分離体制を採ることとなった。SFIはこの銀証分離が適用されない欧州で証券業務を行なうために設立された証券専業の子会社であった。
普通社債の引受幹事については証券会社との競業が比較的スムーズに進んだが、一九七〇年代に入って急増し始めたユーロ市場での日本企業の外貨建て転換社債起債については、証券会社が国内の「証券取引法六十五条」を盾に主幹事を銀行系証券現法には譲れないと強硬に主張し、大蔵省に直訴した。将来的に国内での株式増資につながる株式としての性格が強い転換社債の引受は国の内外ともに証券会社の縄張りに属するという論理であった。
一方、銀証分離のお手本となった米国の銀行が欧州に設立した証券現法は、米国ではできない引受主幹事はもとより全ての証券業務を自由に展開していた。これに倣えば、SFIのような邦銀の欧州証券現法も日本法が及ばないロンドンでの証券引受活動まで制約されるいわれはまったくない。
それにもかかわらず、大蔵省が邦銀証券現法の設立を認めた二年後の一九七四年(昭和四十九年)には、同省の銀行、証券、国際金融の三局が「邦銀系証券現法は経験に乏しく能力が劣る」との表面的な理由を挙げて「日本企業発行の外債の引受の主幹事会社は、証券会社の現地法人に限る」とのいわゆる「三局合意」を打ち出した。行政指導の形で、銀行系証券現法の手足を縛るという暴挙に出たのである。
この規制は、たとえて言えば「銀行系は副社長まではなれるが、能力があっても社長になってはいけない」という差別的なもので、法律には盛り込めないので、行政指導で行なうと決めた筋の通らないものであった。
私はこの「三局合意」がいかに不当であるかを縷々論じた「邦銀現法の主幹事遂行能力に遜色なし~自己責任に基づく自由な競争と参入の実現を~」と題した論文を『金融財政事情』誌一九七九年(昭和五十四年)九月号に投稿、野村證券から論駁が出たりして注目はされたものの、事態は一向に改善されなかった。
もう一つの難題は、SFIの主要な顧客基盤は日本企業であったので、その営業拠点をどうするかという問題であった。当時の金融行政指導では、銀証分離の建前から、SFIの業務を住友銀行の国内支店が仲介したり代行することはまかりならぬ、SFIのスタッフが直接接触すべし、という厳しいものであった。それでは、東京と大阪にSFIの駐在事務所を開設したいと申し出ると、外銀の事務所は届出制となっていたにもかかわらず、それは認められないと言う。届出を受理しないという行政措置があることを初めて知った。
それでも、ロンドンからの短期出張ベースでカバーするには無理があったので、長期出張という形で、SFI・東京とSFI・大阪という実質的な営業拠点を十年以上にわたって保持し続けた。
国際化が進むと国内外で別のルールを適用するには無理が目立つようになり、米国も銀証分離廃止に向かったため、この証取法六十五条は一九九三年(平成五年)に至って改正された。SFIの社長は一九八〇年(昭和五十五年)までであったが、その後も一九九二年(平成四年)に銀行を退職するまで二十年間にわたって一貫して国際部門でこの問題を担当し続けた。私の銀行での使命は、まさに証取法六十五条を巡る垣根論争であり、理不尽な「三局合意」撤廃に向けての戦いであった。私の国際金融マンとしての人生は文字通り業際問題に根差した規制との闘いに明け暮れたといっても過言ではない。
一九九八年(平成十年)に成立した金融システム改革法により、金融持株会社形態での銀行・証券の相互参入が一般化した今日から振り返ると、銀証の垣根問題はまことに不毛な争いを繰り返してきたわけである。もっとも、この経験を通じて銀行業務と証券業務の風土や考え方の違いを理解することができ、視野が広がったのは、個人的には大きな収穫であった。
SFIは一九七九年(昭和五十四年)九月にはスイスでの銀行業務ライセンスを取得、スイス・フラン債の引受業務を開始した。スイスの会社はそれまでペーパーカンパニーであったが、これを機に社債引受についても顧客からのニーズに応えられる体制が整った。
さらに、販売力と流通市場でのディーリング力がついてこそ、引受幹事獲得の競争にも強くなることができ、顧客に適切なアドバイスもできると確信し、証券ディーリング業務にも力を入れた。独自のコンピューターシステムによるリスク管理も徹底し、幹事業務だけでは難しい収益基盤の安定化も図った。
こうした一連の動きを評して、先にも引用した日経の田尻記者には「創立以来七年間に『○○で初めて』という記録が多いのは、住友マンの活力が、フローの世界に飛び込んでより顕著に発揮された結果といえそうだ」と高評価を頂いている。
田尻記者の取材に、私は「いずれは日本も本格的な資本輸出国の時代に入る。その時に備えて今から勉強をしなければ......」と答えている。四十年近くが過ぎた今、読み返してみると、この予測は正しかったものと胸をなで下ろしている。
家族のことにも触れたい。ロンドンへの赴任となると、子供たちの学校のことがやはり気掛かりだった。長男の琢治は京都の祖父母に預けて下鴨中学と洛北高校にしばらく通学させた。そんな折、立教英国学院の高等部が日本の文部省から在外教育機関に指定されることを知って、英国への転校を決断した。同校はロンドンから車で一時間半ほど南のリジウィックに広大な敷地を有した全寮制の日本人学校である。校長の臼杵昌洋先生の献身的なご努力で、立派な教育をして頂いた。
中学一年生の長女・明子と小学五年生の次男・徹は、ロンドン日本人学校に入学した。先進国での日本人学校設立は遅く、ロンドンでの正式開校は、赴任した年の十月一日だった。開校早々であったこともあり、生徒間の連帯意識は強かった。そのせいか、明子、徹ともに日本人学校時代のクラスメートを伴侶に迎えるという奇遇を得た。
ロンドンでは、仕事上の出張も多かったが、休みの日もドライブや海外旅行に出掛けた。旅行といっても、車で移動するだけで毎日泊まる国が変わる忙しい日程は、娘からは「面白くない」と甚だ不評であった。
当時は「何でも見てやろう」という意識が強く、二回目のロンドン勤務時と併せて、欧州と中東の国々は一カ国も余すことなく全ての国に足を踏み入れた。
ヨーロッパでそれを自慢すると、「自分も欧州の国は全部訪ねている」という御仁に時々出くわす。そこで、「それではアルバニア(Albania)は? アンドラ(Andorra)は?」と聞くと大抵行っていない。「ヨーロッパの国をアルファベット順に並べると、最初に上がってくるのがこの二カ国ですよ!」と言って相手を煙に巻いて楽しんだものである。