「Sumitomo pioneer floating CD」
一九七七年(昭和五十二年)四月二十五日、英国の有力紙「タイムズ」の紙面を飾った見出しである。
住友銀行の欧州証券子会社、住友ファインナス・インターナショナル(SFI)が世界に先駆けて、ユーロ市場での変動利付きCD(譲渡性預金=Floating Rate CD、FRCD)を開発し、英国当局の承認を得て、第一号を発行したことを報じるものだ。
前年八月の赴任時から、私が温めてきた構想が実現した時であった。国際金融部で推進してきたシンジケートローンは期間数年の長期ながら、金利は通常六カ月ごとにその時のLIBORと称される短期の市場金利が適用されていた。金利は六カ月ごとに変動したのであった。ところが、この変動金利型貸金を賄うための変動金利での長期資金の調達の方途はなく、銀行は長短ミスマッチのリスクを抱えていた。このリスクを低減するには、何としても変動金利型での長期資金調達手段の開発が必要であった。
変動利付きCDは、金利が変動する定期預金のことである。CDは元来、指名債権で自由に譲渡できなかったが、米国やユーロ市場では証券化して市場で流通する商品に進化していた。ただ、金利は固定のみで変動金利型は存在しなかった。
それだけに、金融当局などとの折衝は大変であった。「スレッドニードル街の老婦人」とも言われる誉れ高きイングランド銀行には、何度通ったことか。SFI社長といってもシティではまったく無名であったが、足繁く通ううちにイングランド銀行も次第に耳を傾けてくれるようになった。
英国の弁護士とも契約し、イングランド銀行や英国法務院に働き掛けてもらった。当時の丸磐根・日銀ロンドン事務所長にもバックアップをお願いした。そうしたさまざまな働き掛けの結果、イングランド銀行から「需要があり、市場が認めれば、発行してもよい」との言質を得ることができたのである。
私は即座に、「市場は私たちが作ってみせる」と答えた。この時の私は「住友銀行のためだけでなく、全ての市中銀行のためにやるのだ」という、使命感のようなものに燃えていた。
変動利付きCDの開発に至るまでの私の思いについては、当時の日本経済新聞社ロンドン支局特派員だった田尻嗣夫記者が、一九八〇年(昭和五十五年)九月二十二日付の日経ビジネス誌に端的に紹介してくれている。
「一九七七年と言えば、国際金融界はカントリーリスクに懸念を強め、短期借り・長期貸しの資金操作を安定化するため、長期安定資金の確保が大きな焦点になっていた。長期のユーロ預金か、社債発行かだが、邦銀系マーチャントバンクとしてのSFIにとっては、日本国内での長信銀との垣根問題から社債は不可侵の聖域、それならば、変動利付社債にかわる変動利付きCDを、と岡部氏は考えた。
しかし、相談をもちかけた英金融界の面々は興味を示さず、金融専門の弁護士は『法的には可能だが、有価証券としての市場性がどこまであるのか?』と灰色の判断を示した。『市場は自分で掘り起こすものだ』。住友マンの根性が、岡部氏らSFIスタッフをFRCD実現に駆りたてていった」
もう少し、当時の状況をわかりやすく説明しておこう。
実は、長期のCDを発行しなくてもFRN(フローティング・レート・ノート)という変動金利型の債券はすでに存在していた。ただ、FRNは発行コストが高いうえ、当時の金融行政では都市銀行には債券の発行が許されていなかった。債券発行が可能な銀行は長期信用銀行などに限られ、住友などの都市銀行には認められていなかったのである。
変動利付きCDを申請した当初、イングランド銀行もそこまで日本の都市銀行の手足が縛られているとの認識はなく、すげない反応であった。
長い交渉の結果、私たちの主張が受け入れられたわけだが、この時、私は「主張に合理性があれば、前例や国籍、時には格式の違いなども乗り超えられる」との思いを強くした。
この思いは、二十代半ばの加州住友銀行やシカゴ駐在時の経験に通ずるものであった。先にも触れたが、フォード・モーターなどの名だたる企業のCFO(最高財務責任者)に、一介の平行員が面会でき、しかも相手が納得できる理屈を提示できさえすれば、役職など関係なくビジネスが成立した。今後、日本企業の海外進出が一段と進むだろうが、忘れてはならないのが「自分の主張に合理性があるのか」という観点であろう。
このような常識がいまだになかなか通用しない日本の閉鎖社会で仕事を強いられている若者は不幸である。