加州住友銀行ロサンゼルス支店での勤務は、およそ三年にわたった。次に受けた辞令は、シカゴ勤務。支店開設のための市場調査と米大企業との取引開拓の役目を担っていた。
ただ、ロサンゼルスからシカゴへ即異動というのはきついということで、一カ月間の休暇が認められ、家族ともども帰国した。シカゴ勤務は一年ほどの予定であったため、単身での赴任を選択した。勤務場所は、シカゴ市内のコンチネンタル・イリノイ銀行本店の一室。現地で銀行業務を行なうには、大蔵省からの駐在員事務所開設の許可を必要とした。だが、当時の大蔵省の規制は厳しいものがあり、簡単には認められない。そこで、苦肉の策として、とりあえずコンチネンタル・イリノイ銀行へのトレーニーという形での異動となった。
当時のコンチネンタル・イリノイ銀行は資金量で全米七位。イリノイ州内では支店開設が認められていなかったので、シカゴの中心部に巨大な本店ビルを擁し、一店舗としては世界最大の規模を誇っていた。
この銀行はその後積極拡大路線に転じたが、それが挫折し、一九八二年(昭和五十七年)に経営破綻して連邦政府に救済された。同行の救済は「大き過ぎて潰せない(Too big to fail)の典型例とされ、その後さまざまな批判に晒されてきた。お世話になったこの銀行の破綻には、感慨深いものがある。
トレーニーという肩書であったが、実際には将来支店を開くための市場調査だけでなく、米国企業との取引開拓などの実務にも精を出した。シカゴからデトロイトに出掛け、自動車メーカーのフォード社にも乗り込んだ。
米国の大手企業とコンタクトをとるなかで、一番びっくりしたのは、若造の私にトップクラスのCFO(最高財務担当役員)が気軽に会ってくれたことであった。
こちらが手紙やファックスで、「こういう取引がしたい」と具体的な用件を明示して申し込むと、時間はかかるが気軽に会ってくれた。これが日本の大企業の場合だと、課長代理クラスでは大企業のCFOどころか、財務部長でさえも会ってもらうことは難しかった。
米国企業だけではなく、日本の商社にも頻繁に顔を出した。こうした私の活発な行動が目立ち過ぎたのであろう。シカゴには、東京銀行や第一勧業銀行がすでに進出していた。これら銀行から私の動きが「トレーニーではなく潜り駐在だ」と大蔵省の耳に入り、一年の駐在予定を短縮してわずか四カ月で帰国せざるを得ない羽目となってしまった。
ただ、この間の調査に基づくシカゴ支店早期開設の具申が容れられて、一九七四年(昭和四十九年)には、他行に先駆けてシカゴ支店を開設することができた。
国内に残った家族のことに話を移したい。ロサンゼルスから家族全員が日本へ帰った時のことだ。次男の徹が、「足が痛くて歩けない」と言い出した。まだ三歳になるかならないかの時期であった。住友病院で診てもらうと、骨肉腫の疑いがあるとの診断。大腿骨の一部が空洞になっているため、別のところの骨を移植して埋めるしかないと言われ、手術に踏み切った。手術の際、輸血に必要なAB型の血液を銀行の仲間からも提供して頂いたご恩は忘れられない。
この時、私はすでにシカゴに赴任しており、遠く離れた異国の地で手術の成功を祈るしかなかった。まことにつらい時期でもあった。幸いなことに悪性ではなく、手術も成功して、その後は何の後遺症もない。
徹の入院は二カ月に及んだ。私は、シカゴからブロック玩具のレゴを送った。足を動かせない徹にとっては、恰好のおもちゃであった。この遊びが、手先の器用な子供に育った源泉になったのではないかと思っている。徹は生まれて間もなくは左利きだったが、妻が右利きに矯正した。このことも両手使いの器用さにつながった。
徹は後年、京大工学部冶金学科大学院からMIT(マサチューセッツ工科大学)、東北大学を経て、東京大学生産技術研究所教授となり、レアメタルの研究では日本を代表する学者となった。実験や研究ではこの両手使いの器用さが大いに役立ったようである。
父・利良、私、徹と三代にわたっての京大卒は珍しい存在だと思ったが、『京大九十年史』によると、他にもいるという。そこで、私は六人の孫に「四代目を目指して京大に入ったら賞金二百万円出す」と宣言した。その効があってか、徹の息子の穣が京大工学部工業化学科に合格したのだが、三カ月通っただけで、「自分には化学は合わない」と退学して、一年後に東北大学医学部に入学し直した。ただ、「四代にわたって京大に入学」という記録だけは樹立できた。
徹の京大入学の経緯にも触れておこう。長男と長女が私立大学に通ったので、学費が高くついた。このため、徹には「何とか国立に入ってくれ」と申し渡したところ、彼が全国から選んだのが、競争率が低く入りやすそうな京大工学部冶金科であった。
しかし、結果的には大学院の修士・博士課程へと進み、九年間も京都で学生生活を送ることになった。徹の京大生活の期間は、私たち夫婦のロンドン在住時期とほぼ重なったため、徹が京都の祖父母の面倒をいくらか見てくれたことは、誠にありがたいことであった。親不孝の私も安心してロンドンでの仕事に励むことができた。