一九六五年(昭和四十年)十月、初めての海外勤務の辞令が下った。加州住友銀行ロサンゼルス支店外国係長としての赴任であった。当時は、海外赴任当初の半年間は家族帯同が認められない時代であった。前任者から引き継いで、米国人のお婆さんの家に下宿させてもらった。カリフォルニアの英語は訛りがひどく、電話の応対に一苦労したが、英語に慣れるのに米国人宅での下宿生活は有意義であった。
ロサンゼルス支店は、日本人街の理髪店の横の路地を入って行くような目立たない場所にあった。「こんなところに銀行が」と、誰もが驚くような狭い所で肩身が狭かったが、ほどなく鹿島建設が新築した立派なビルに移った。
ロサンゼルス支店はニューヨーク、ロンドンのような旗艦店ではなかったが、現地では東京銀行と並ぶそれなりの地位を得ていた。トヨタ自動車、日産自動車、ヤマハ発動機など日本のメーカーが次々に進出して対米輸出の物流拠点としていたので、輸出入取扱高という点ではニューヨーク支店をしのぐ勢いであった。
取引先は、日本のメーカーや商社に加え、日系二世経営の地場の中小輸出入企業、さらには米国資本の大手石油企業まで多種多様であった。
トラブルも多かった。日本の大手百貨店に融資した途端に撤退されてしまったり、大手証券会社の現地法人のケースでは、当方は融資のつもりであったのに、「借金ではなく出資のはずだ」と言い張られたりするなど、今では考えられないようなことも起きた。
住友銀行は、トヨタとの取引が国内外とも一切なかった。ロサンゼルスで何とか糸口を作れないかと思い、トヨタの現地法人に日参した。当時の現地法人社長は後に本社社長になる豊田達郎さんで、ゴルフをご一緒するなど親しくなった。こうした努力が実って、住友銀行とトヨタとの取引開始につなげることができた。それやこれやで、土日の休みもないほどの忙しさであった。ただ、後から考えると、ここでの実地体験が非常に勉強になり、その後の銀行業務に役立ったことは確かである。破綻先の融資処理など面倒な仕事も多かったが、支店内は明るく活発で、仕事は楽しかった。
ロサンゼルス赴任二カ月後の同年十二月四日に次男・徹が明子と同じ京都日赤病院で誕生している。首の据らない生まれたばかりの乳児は飛行機に乗せてくれなかったので、翌年三月に妻が四歳半を頭に三人の幼い子供たちを連れてロサンゼルスへやってくることになった。そこで、空港へ迎えに行ったところが、搭乗者全員が降りてきても家族四人はなかなか飛行機から出てこない。不審に思ったが、三人の幼子を抱えているのだから、遅くなるのも無理からぬことではあった。
ロサンゼルスでの生活は、当時の日本に比べるとそこそこ豊かであった。ドルで支給された給与は、日本国内の三倍ほどの額であった。当時、日本国内ではカラーテレビは高価で、一般家庭でお目に掛かることはまずなかったが、銀行でローンを組みカラーテレビを購入、さらに日本では所有していなかった自家用車も手に入れた。それも、高級車シボレーの新車を思い切って買って乗り回した。同世代の同僚は中古車で我慢していたので、「生意気な奴だ」と恨まれ、評判は芳しくはなかったようだ。
話は少し横道へ入る。円相場は一ドル=三百六十円が最安値だと思っている人が多いだろうが、当時の円札は一ドル=四百円前後の実勢両替レートでの取引が行なわれていた。
当時の日本は外貨の持ち出しが制限されていたが、金持ちのなかには、大量の円札を腹巻などにこっそり隠し持って米国に入って来る人も多かった。この円を一ドル=四百円で買い、日本へ帰国する商社マンに三百九十円で売って喜ばれた。また、ブラジルから日本へ帰る移民たちにロングビーチ港まで出張して両替に応じた。値幅が大きく、窓口担当クラークの給料分を賄えるほどの利益を上げることができた。現地法人銀行であったればこそ、堂々とできた業務であった。
ロサンゼルスの南郊にはディズニーランドがあり、公私とり混ぜた日本からのお客の接待や案内で在任中に三十回ほど訪れた。
赴任直後に、京大の林良平教授が図書館長の仕事で来られた際に、自ら車を運転してお連れしたのが、最初のお客であった。学究一途の林先生にはこんなところは初めてということで、大変喜んで頂いた。ところが、帰途に就く段になって、数千台を収容する広大な駐車場のどこに車を停めたのか、まったく思い出せず、途方に暮れた。ただ、このような来場客は多いものと見え、おおよその車の仕様などを告げるとスクーターで走り回ってすぐに探してくれ、さすがディズニーランドと感心した。
また、同じ京大の村松岐夫教授は行政学がご専攻で、当時暴動が頻発していたダウンタウンの南に拡がるワッツ(Watts)地区を見学したいとの申し出があり、それではとお連れした。殺人が多発している危険地帯ながら、意外にきれいな町並みであったのを憶えている。