話は少し前後する。半年間の日米会話学院への国内留学から戻ると、すぐに大阪市中央区の備後町支店への人事異動が待っていた。同支店での勤務は一年にも満たなかった。一九六一年(昭和三十六年)二月、本店外国部へ転勤する。最初に仕えた部長は瀧澤中さん。
当時の外国部は、外国業務では収益は上がらず、業績面では銀行全体の足を引っ張る陽の当たらない部署というイメージが強かった。銀行の収益部門は一に預金、二に貸付という状況で、外国為替は預金・貸金の百分の一の寄与もなかった。「海外へは行きたいが、外国為替はいや」というのが、行内の多くの声であった。
一年後に、ロンドンから帰国して外国部長になられた太田武比古さんに挨拶すると「君は本来なら調査部などに行くところだが、よくぞ外国部へ来てくれてありがとう」と、気遣って頂き、本店へ栄転したものと喜んでいた出鼻をくじかれる思いであった。
当初の一年間は、資金課に配属された。ここではコルレス銀行に開設した外貨建て勘定のリコンサイルを担当。リコンサイルは外国取引の管理上不可欠となる重要な仕事で、これを怠って不測の損失を蒙った事例がその後頻発している。ここで身に付けたリコンサイルの基本が、後日大いに役に立った。
一年後に、企画課に移り、外国為替業務推進の企画、外為取扱店への目標の設定や達成のための業務支援、取扱店増設の市場調査などを手掛けた。当初は担当者二名であったが、ほどなく四名に増員され、優秀な女子行員三名を付けてもらえた。
この外国為替推進の企画立案は、当時の外国業務の根幹であり、結果的にはやりがいのある部署であった。そうはいっても、銀行業務全体のなかではまだまだ重要視されていない部門なので、自分のやりたいようにやっても誰からも文句を言われなかった。
企画課に移ってすぐに手掛けた案件に住友銀行引受の貿易手形のニューヨーク連銀再割適格性(Eligibility)を取得する問題があった。当時、対米輸出に金融を付けるに当たって、邦銀が引受けた貿易手形をニューヨーク連銀が再割引してくれることが、有力銀行としてのステータスであるとともに、採算上もきわめて有利であったからである。一九六一年(昭和三十六年)秋には東京銀行が邦銀第一号としてこの資格を取得、日経紙のトップ記事となっていた。住友銀行も早急にこの資格を得るように努力していたが、一頓挫していたところにたまたまニューヨーク連銀の副頭取が来日、市場が住友銀行引受手形を受け容れることが重要との示唆を得、ほどなく連銀再割適格性を取得できた。この経験が後日、ロンドンで世界初の変動利付CDを開発した時の折衝にも大いに役立った。
外国部に移って、わずか七カ月後の九月に起こった妻・多賀子の大けがと長男出産という大事については前回に記した。十一月には大阪府高石市の銀行の家族用社宅・羽衣寮に転居。二年後の一九六三年(昭和三十八年)五月七日に、長女・明子が生まれ、家族は四人に膨らんだ。
後で知ったことだが、第二室戸台風は妻だけではなく、私の行く末にも大きな影響を与えていた。台風直後に、海外転勤の辞令が私に下る予定であった。ところが、妻の重傷、出産という事態のなかでの海外赴任は難しいとの配慮が働いたそうだ。そのせいで、四年間外国部でじっくりと勉強ができた。
外国部勤務時代には新入行員を対象にした入行時講習の講師を命じられた。住友銀行は入行したばかりの新人研修に特に力を入れており、講習期間は一カ月余りに及んだ。
一九六四年(昭和三十九年)には高卒女子を担当した。この時の評判が良かったのか、翌年は大卒男子の講師となった。講師には入行八年目の同期から三人と助手三人が選ばれた。
人事部が、私を講師に選んだ背景には、真偽の程はわからないが、もう一つ理由があったようだ。
人事部から、英語のできる学生を入行させたいので、私が所属していた京大ESSの学生に働き掛けるよう要請を受けた。特にESSのキャプテンを務めていたA君に照準を合わせて一本釣りでリクルートせよとのこと。そこで、ESSのOBとの会合に出席して住友銀行への入行をそれとなく勧めた結果、A君を採用できた。人事部はこの成果を高く評価してくれたが、A君は自分の意思で決めたのであって、私の勧誘に応じたわけではないと終生言い張っていた。
A君は私よりも八年下の一九六五年(昭和四十年)入行。入行後は私と同じ国際畑で活躍し、ニューヨーク支店長などを歴任、副頭取に就いたが、二〇一一年(平成二十三年)八月に六十八歳で亡くなった。
私が講師を務めた年次の人たちとは、ゴルフコンペなど現在でも付き合いが続いている。
外国部勤務になって間もなくの一九六一年(昭和三十六年)九月二十三日に誕生した長男・琢治の名前のことにも触れておこう。貝塚茂樹博士(東洋史学者)や湯川秀樹博士の父親で、地質学者の小川琢治の名前が気に入っていたので、最初の男の子に「琢治」の名を付けたいと思っていた。小川琢治も、もちろんのこと点のある「琢」の正当な漢字を使っているのだが、最近はパソコンの普及もあってか略字になってしまう。私の思いと異なり、残念でならない。