京都大学の(満六三歳停年退職という)規定にしたがい、私は明年(昭和四四年、もっともこの明年というのは、この会報が皆さんの手もとに届くころのことを考えると、あるいはもう今年というように読みかえていただかなければならないかも知れない)三月末に停年退職する。そしてその日もだんだん近づいているが、当の本人の私自身にはまだこれといった感慨もあまりわいてこない。
じつは私たち大学の教師は、普通のサラリーマンや公務員の諸君などとちがい、停年退職後もたいていどこかの大学(とくに私学)にいって今までどおりに研究生活をつづけることができる。(私も龍谷大学経営学部にいくことになっている。)したがって、生活のうえにそう大した変化も生じない。そして少なくとも一つにはこうしたことから、停年退職といっても、別にそう神経を使うこともなく、またみずから感慨に耽けることなどしなくてもすましておられるのではないかと思う。またこうした点は非常に幸せなことだとも思う。
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しかし、もちろん私にも、私なりに感慨がないわけではない。ことに「住みなれた家」を去るとなれば、やぱりそれなりの思いも抱かされ、感懐もわいてくる。じつはこの会報の以前の号(昭和四一年三月発行のもの、第八号)に書いたことであるが、私は大学(京大経済学部)を卒業後ただちに研究生活には入ったのではない。卒業後五年間雑誌(東洋経済新報)記者として就職し、そしてそれからまた研究生活にかえってきた。しかしその後も多少ジグザグな道をたどり、私が京大経済学部に教師として職につぐようにたったのは戦後の昭和二二年一〇月からである。しかしそれからでも、もう二〇年余りになる。
この二〇年間というのは、皆さんもご承知のように戦後の混乱期・激動期を含む二〇年間であり、またそれだけにじつにいろんなことがあった。しかしまたこの間時を経るにしたがって、経済事情や政治・社会情勢は大きく変わってきた。大学のあり方などにも大き々変化がみられる。
ことに大学に関することについていえば、戦後にみられる顕著な事実の一つは、新しい学生運動の開花・発展である。わが国では大正の末年から昭和初年にかけ、当時の社会科学研究会活動を中心として一時学生運動が勃興したが、昭和三、四年以後、ことに戦時中はずっとファシズムの嵐のなかでその片影的なものさえ全く窒息せしめられてきた。それが戦後の解放された空気のなかで、一斉に新しい姿をもって登場してにきたのである。またこうしたこの学生運動の過程で何々事件とよぱれたものが相ついで起こった。
京大におけるもので、いまそのおもないくつかのものを拾ってみても、たとえば、看護婦事件(昭和二四年、これは京大病院がが付設の厚生女学部の看護婦卒業生を不採用としたことに端を発したものであり、またこの事件は京大への戦後初の警官導入という事態をひき起こしたものとして注目されるべきものである)、天皇事件(昭和二六年、これは同年)、これは同年十一月天皇が京大を訪問
されたさい、同学会が天皇に訴える「公開質問状」を用意し、また時計台前で参集していた学生が平和の歌などを歌ったというものであり、またこうしたことから当時同学会は一時解散を命ぜられるという事態に至った)、「学園復興会議」なるものにからまる全学的がストライキならびに荒神橋事件(昭和二八年、この学園復興会議というのは、当時の全学連が計画したものであるが、京大が会場の使用を拒否したことから事態紛糾し、またこの間に学生の処分が行なわれたことを契機として教養部をはじめとするほとんど全学にわたる約一週澗前後 (?)にも及ぶ京大未曾有のストライキが敢行された。また前記の荒神橋事件というのは、当時右の会場使用拒否にたいする学生側の抗議集会のあと、約一二○名の者が立命館大学に迎えられる「わだつみの像」の歓迎市中行進に参加するため荒神橋(京大近くの鴨川にかかっているもの)にさしかかかったさい、これを不法デモとする警官隊と橋上で衝突し、学生中一三名が柵上より転落せしめられ、その他多数の重傷者を出した事件である)、第二滝川事件(昭和三〇年、裁判沙汰にもされたもので、当時の滝川総長に学生二名が暴行を加えたといわれるもの、この時にも同学会は再び一時解散を命ぜられるに至った)、等々といったものがあげられる。
またこの間あるいはその後――全国的にもみられたことであるが――京大でも何々闘争といったものが相ついで行なわれた。レッド・パージ反対闘争(昭和二五年)、破防法反対闘争(昭和二七年)、勤務評定反対闘争(昭和三三年)、警職法改悪反対闘争(昭和三三年)、安保反対闘争(昭和三五年)、破防法反対闘争(昭和三六年)、大学管理法(大管法)反対闘争(昭和三七年)、とくにこの時は一二月、年末をひかえて同学会がこの反対闘争のために全学封鎖を計画し、一時事態はきわめて憂慮されたが、けっきょくこの全学封鎖は、投票の結果支持者をうることが少なかったために実現されるには至らなかった。また、大管法については、翌三八年一月政府が国会上程を見合わせることになり、それにともなって右の反対闘争も一応終息した、等々のごときである。(なお、京大における以上の各事件の内容ならびに反対闘争としてあげたものは、主として「京都大学七十年史」によるもである。もっとも、どうしたわけか、前記「学園復興会議」のさいに行われたストライキについては、この「七十年史」にはなんらふれられていない。)
そして、いま以上のような何々事件とか何々反対闘争とよばれてきたものをこのようにあげてみると、私にとってもであるが、それぞれの時期に在学していた諸君にも、ああ、あのときは、というように、いろんなことが折り重さなって思い出されるのではないかと思う。
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ところで、私か経済学部の教官として演習を担当するようになったのは昭和二四年度からであるので、この演習のほうは今年度でちょうど二〇回目になる。この会報の名簿をくってみるとこの間、私のこの演習で学んでくれた諸君は三〇〇名余りにも上っている。演習は教師の私にとってとくに重要な仕事であるばかりでなく、ことに学生諸君と直接接触しうるもっとも恰好の場である。それだけにこの演習については思い出も多いが、いまは二、三のことだけを書かせてもらっておこうと思う。
私は、演習は学生諸君とあるいは学生諸君同士の共同研究の場であるという、こうした趣旨をできるだけ生かしたいと願ってきたが、さて教師としてその職責を十分に果してこられたか、じつのところ、みずからかえりみざるをえないとでころである。しかもこうした私のいわぱ内省はいまここではじめて筆にすることではなない。(演習をみずから期するように効果的にやることのむづかしさを含めて)毎年のように私の脳中を去来してきたことである。
私は毎年演習をはじめるにあたり、またその途中でも、同じようにつぎのような趣旨のことを くりかえしていってきた。
「大学生活において何よりも肝腎なことは、まず自分でものを考える力を養うことだ。あるいはこういう慣習を身につけることだ。それにはまた物事をつねに批判的にみることがぜひ必要である。ひとのいうこと(あるいは書物――ことに会計学の書物――に書かれていることなど)をそのままうのみにしてはいけない。(そして私は、右に述べたようなことを含めてしばしば思考の訓練といってきた。)そして演習をこうした思考の訓練の場としてほしい。そしてまた社会に出てから、ひとがどのようにいおうと、自分はこう考えるんだといえるような、自分なりのものがもてる入間になれるように各自みずから努めてほしい。・・・・」
そして私はこのように説いてきながら、それぞれまた私なりにやってきたつもりではあるけれども、しかし反面、私自身としていま上にふれたようにもいわざるをえないところであり、そしてこのあとのような点と思い合わせると、今日まで私のやってきた演習について、諸君にはおそらく諸君としてのいろんな不平・不満もあったことと思う。しかしいずれにしても教師としての私の責任に帰することはさらに私自身の問題とさせてもらうことにして、いまここでは、いまやっている演習が、京大における私の最後の演習になるという、こうしたこの機会に、このように私が年々説いてきたことを、いま一度重ねてここにごらんのようにしるさせてもらっておこうと思う。
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演習室から離れた、演習の思い出につらなることにもいろん々ことが思い浮かべられるが、まずそのおもなものの一つとしては、例のゼミ旅行があげられる
だろう。このゼミ旅行は、戦後世間の事情もようやく落着いてきたころからはじめられたもので、私の記憶に誤りがなけれぱ、昭和三三年度(三四年三月)の卒業生諸君の計画したものがその最初のものであった。しかしこのときのは、たしか三月の卒業も迫ったころ急にきめられたというようなこともあって(行先きはたしか南紀?)、私はついに都合がつかず残念ながら行けなかった。しかしこの時の企てがきっかけとなって、以後の毎年学生諸君の計画により、ずっとゼミ旅行がつづけられてきた。そしてそのつど私も行を共にしてきた。(ただ昭和三八年の学部長当時にはやはりどうしても都合がつかず行けなかつたと思う。)し
しかしこのゼミ旅行は、二泊三日といういわば小旅行をたて前としてきたのでそう遠くには出かけられなかった。行ったところをいま思い出すままにあげてみると、北陸、山陰(二回)、志賀高原方面、箱根・伊豆、四国、南紀、伊豆・大島・(二回、ここのこの二回目というのがさる十一月に行ったもので、またこれは私たち演習のゼミ旅行の最後となったものである)といったところである。
元来私ば出無精な人間で、どうしても必要な用事でもなければ容易に他所に出かけようとばしないが、この学生諸君とのゼミ旅行に行ったことで、おかげでいろんなところをみることができた。こうした機会でもなければ、私には志賀高原とか伊豆・大島に出かけるようなことはおそらくまずなかったであろう。四国旅行(四一年)のさい、高知の桂浜に行ったときのことなども、ついきのうのことのように思い出される。(このとき、この桂浜で拾って帰った小石のキレイなのがいまでも家にあって、時おり装飾の用の一端をなしている。)またこのゼミ旅行は、出かけて行った諸君にもそれぞれいい思い出になっていることだろうと思う。
なお、近年毎年十一月に開かれる通称インター・ゼミ(正式名、日本学生経済ゼミナール、これは全国の大学の経済学部・商学部・経営学部次どの学生が毎年当番校に会し、各専門分野にわたり研究発表を行なう全国的な大会である)の準備のため、演習生諸君はそれぞれ一定のテーマにしたがって共同研究を行なってきたが、この三年ばかりは、この共同研究の一部を、夏休み中少し遠方に出かけ、(いわゆる民宿を利用して)何日間か合宿しながらやってきた。合宿の場所は一昨年は信州の白馬、昨年は四国の徳島、今年はやはり信州の角間温泉というところでやった。このうち私は一昨年、今年のいずれも目程のあとのほうでで
あるが参加し、畳のうえにあぐらをかき、演習生諸君が各自用意してきたレボートを前にしながら、演習同然にやってききた。そしてこれも、参加した諸君にとってもそうでであろうが、私にとってもやはりいい思い出の一つである。
昨年の四国の徳島の場合は、学生諸君は阿波踊りの見学をかねてということであったが、事実上いずれが主となったか、これはご本人たちが知るところであり、私はここではプライバシー(?)を尊重して、単に右のような点にだけふれるにとどめておきたいと思う。
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演習につらなることで、いま一つとここでとくにふれておきたいと思うのはこの会報のことである。じつはこの会報を最初につくってくれたのは昭和三三年度(三四年三月卒業)の島津義高君(現在住友銀行本店勤務)であった。しかしこの最初のときのは、何しろ初めもの企てでもあったので、内容はまだ名簿だけであり、印刷もガリ版刷りといったものであった。しかし名簿だけというが、それまでのゼミ卒業生全部の名簿をまとめて整理することは結構大変な仕事であったはずである。今この最初のときのものをみると、島津君は編集後記で次のように書いている。
「岡部ゼミも自分たちの卒業で丁度十回目の卒業期を迎えることになりました。そこで先輩諸兄相互の御連絡のために、また先輩・後輩相互の消息を通じ合うために、必要と思い、他方先輩のご要望もありましたので、ここに不完全ながら卒業生と在席生の名簿を作りました。お役に立てば幸いです。」
この翌年には坂本寿一君(現在住友化学本社勤務)が編集を引き受けてくれたが、この年から卒業生諸君に寄稿してもらってこれを同時にのせることになり、また以後毎年一回ずつの発行がつづけられ、そして印刷のほうも途中から現在のようなタイプ印刷に変わって現在に至っているというわけである。
この会報は、卒業生諸君にとても、毎年手にするたびに、おそらくいろんな思い出をもって読んでもらえ、またお互いの消息を知るうえに何かと役だててきてもらえたと思う。私にとっても、他に代えがたい演習につらなる思い出の記録である。
しかし、この間、編集は卒業期の四回生の者が順送りに引き受けてきてくれたが、出すのは毎年学年末というしきたりにしてきたので、原稿の督促、名簿の整理(これは毎年かなり住所の変更などがあるのでその訂正がおもなものである)、印刷所との交渉、それにつづく校正など、こういった仕事がちょうど毎年学年末試験のころと重なることになり、そのため編集担当者諸君には、いろいろと面倒を煩わししたほか、何かと迷惑もかけてきた。しかしみんな労苦を惜しまず、快よくやってきてくれた。私はいまここに一伺に代わり、このようにしてやってきてくれた各年度の編集担当者諸君に心からお礼申し上げたいと思う。
しかし、演習の在学生諸君の手によってこの会報がつくってもらえるのも、じつはこれが最後の号である。また、私自身、この会報には毎号拙文を寄せ、そして最近ではそれにいつも「時計台通信」~一九××年というように副題をつけてきたが、この「時計台通信」もこれが最後である。しかしこう思うと、一抹の(あるいはむしろそれ以上の)寂りょうにも似た気持にもならせられ、感慨なきをえない。
それからいまひとつ――じつは私は三年前還歴を迎えたときに卒業生諸君から御懇篤な御配慮にあづかった。おかげで先般、立派々還歴記念論文集もつくっくいただいた。世話人の諸兄をはじめ皆さんに、この誌上をかり、重ねてあつく感謝申し上げておきたい。
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はじめに書いたように、私は明年三月京大をやめたあとは龍谷大学経営学部にいくことになっているが(ここには現在文学部、法学部、経済学部、経営学部がある)、場所は伏見区深草(正確にいうと京阪電鉄深草駅から西南へ徒歩で約七、八分の地点)で伺じ京都市内なので、この点私にはじつは好都合といってよい。通うには、京大の場合より多少時間がかかるが、これぐらいのことはがまんしなけれぱならないであろう。
私は、昭和一四年京大に入学以来、途中八年ばかりを除き、ズットこの京都で過してきた。またここは、じつは私にとっていままでの間では一番長く生活してきたところでもある。京都といえば夏の暑さや冬の底冷えなど気候的にはいい
ところとはいわれていないが、しかしそれでも住むにはじつにいいところである。私の家は東山につらなる山麓にある関係から、大学への行き帰りなど、年中眼前に東山をながめながら過しているが、その一帯をつつむ春先きごろからの新緑などじつに美しい。心の底まで洗い去られるような思いさえする。私の家の近くも近年急に変わり、間近かなところに大きな道路ができ車の往来がはげしくなるにつれて、いままで家のわりにたくさんきていた名も知らぬ野鳥の群れもだんだんへってきたように思われるが、それでも、その声は、今日でもまだ
あたりの遠近にしきりに聞かれる。春を迎えるころともなれば、毎年のように鶯がその訪れを告げてもくれる。その他いろんなことを思うと、私にはこれからもこうしたこの京都の地を離れるつもりはない。
このような私にとって、京大をやめても同じ京都の大学に通いながら研究生活がつづけられるということは単に幸運であるというぱかりでなく、それ以上にやはり幸せなことといっていいだろうと思う。(もっとも、もう教師などはやめて、自分の好きなことだけをやってられるなら、もっといいのかも知れない。)
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私はここ二、三年来(いつ停年かという)こうした停年の年のことを時おり聞かれてきた。また必要があって私の方から話すこともあった。ところが、そうした場合、何人かの人から多少けげんな顔をされ、まだそんなではないと思っていたというようなことをいわれてきた。(そしてこれは世間的にいえば、私が年よりいくらか若くみられているということといってよいのだろう)しかしこのことは、じつはさらに反面からいえば、停年というこの年になっても、私はそれに相応するような一人前の人間に成長するに至っていないことを物語っているようにも思われる。しかし私からいえば、それならそれでまたはなはだ結構で、
いま上にいうようなことをもう一度裏返えしにしていうと、私にはまだ多少とも成長の余地が残されているともいってよいのではないかと思う。だいいち、こう考えたほうが、これからだんだん下り坂になるなどと考えるより、はるかに精神衛生的にいい。(役にもたたないことをクヨクヨ考えるなどということはもともと百害あって一利なしである。)そこで私は、自分でこんなふうに考えることにしているわけである。
しかし強がかばかりいっていても、それに実が伴わなけれぱどうにもしかたがない。私が京大を去っても、皆さんが私の演習に学んでくれたとという事実には変わりないはずである。どうかこれからも(あるいはむしろこれからこそ)いままでより以上に、文句を吹っかけ、鞭撻していただきたいと思う。
そして、同時に皆さんもますます元気でやっていただきたい。とくに皆さんの場合、これからこそ人生である。いろいろと困難はあるにせよ、できるだけ明るい展望をもって自分の道を切り開いて行って下さることを切に願ってやまない。(ちなみに古人いう。「汝の道を歩め。」と)そしていま私としては、こうした願いをもって、この(停年退職を前にした)私の最後の「時計台通信」を終わることにさせてもらおうと思う。
(六八年一二月四日)
(1969年3月発行、京都大学経済学部「岡部ゼミナール同窓会報」~岡部先生御退官記念号、p1~7所収)