遥かなる彼方 地球の裏ロンドン・パリ
中村重太郎
目次
ま え が き
ロンドン旅行見学行程表
あこがれのロンドンヘ出発(7月21日)
銀行社宅について
飛行機時差
リーゼントパークについて
ロンドン市内並びに郊外名所旧跡探訪(7月22日~8月1日)
アンドリュース王子の結婚式
パリ名所旧跡探訪旅行(8月2日~8月5日)
再びロンドンにて(8月6日~8月13日)
さらばロンドン帰国の途に(8月13日)
ロンドン旅行雑感
パリ市雑感
あ と が き
お世話になった皆様へ(岡部多賀子)
岡部徹君のこと
編 集 後 記
ま え が き
この度のロンドン旅行、私共にはとても当にしていなかった大行事であった。私も年齢的に考えてはたまた、昨年の入院大手術のあとの事を考えると到底その気にはなれなかった。荊妻(よし江)は日頃から病弱の身、市内近郊の出歩きは兎も角、飛行機に乗るといった大旅行は誰が何と言っても一千万円を目の前に積んで呉れても絶対に行かぬと放言していた彼女である。
それがどうした風の吹き廻しか急に方向転換して来てそろそろ御輿が挙がりかけて来た。それは今年3月に娘(多賀子)が帰国して彼女が強引に勧めたからである。今年の夏が二度とない最適のチャンス(来年はこのロンドンに居ないかも知れぬ―そして避暑に最適)だから是非々々お出でと口酢っぱく奨めて呉れたこと、日頃かかりつけのお医者様がそれは絶好の機会だから是非行って来なさい、と健康保証をして奨めて下さったのが壮挙思い立ちの牛ッカケである。それと同時に国内の子供達、孫、親戚らが挙って渡航を応援して呉れたので今はもうあとへは引けぬ破目に陥ってしまった。
5年間有効のパスポートの請求に始まり、渡航諸準備が整うともう心はロンドンに馳せ飛んでいた。無事行けるだろうかと一抹の不安もあったが、またその反面に楽しい希望と夢を抱きながら娘の待つ何万キロメートル遠いロンドンヘと旅立つわけである。
ロンドン市(パリ4日間)滞在中の各所(名所、旧蹟)の見学、探訪を日を追って記述してみよう。
ロンドン旅行見学行程表
昭和61年(自7月21日至8月14日)25日間(その間パリ見物4日間)
7月21日(月) 伊丹空港(午前9:50)→↓成田空港(12:00)→ヒースロー空港(午後4:00)→」ロンドン市リージェントパーク住友銀行社宅着(午後6:30)→日没(午後10:00過ぎ)
7月22日(火) リージェントパーク散歩
7月23日(水) 昼ハロッズ(百貨店)、土産物購入に夜、市内繁華街(夜景)見物、市バス(二階建)地下鉄に試乗
7月24日(木) 大英博物館(ロゼッタストーン、ギリシャ神殿、ミイラ石棺等)、タクシー試乗
7月25日(金) 多賀子の知人の出産お見舞(ガーデン・ホスピタル…産院)、Kewガーデン(植物園)見学
7月26日(土) ロイヤル・トーナメントショー(騎馬、訓練犬、軍人のマスゲーム等)観覧
7月27日(日) セントポール寺院、住友銀行ロンドン支店、ロンドン城(入場せず)テームズ河タワー・ブリッジ、ペチコート・レーン(昼店、安物市)ハノバー・ハウス(日本商店)
7月28日(月) ウォーレス・コレクション見学
7月29日(火) ハロッズ(再度)、ウェリントン公爵遺品展見学
7月30日(水) バッギンガム宮殿前の儀杖兵、ウェストミンスター寺院、ジゼル(森下洋子バレー)観劇
7月31日(木) ウォーバン・アベイ(郊外)放し飼の動物園、チャーチル生誕地、オックスフォード大学(浩宮様ご在学)、楓林閣(中華料理)
8月1日(金) ビーバー・カッスル城
8月2日(土) 今日からパリヘ飛ぶ、パリ市ドゴール空港(午後1:00)、エッフェル塔、凱旋門、コンコルド広場(ギロチン)、人類博物館、フランス士官学校(入所せず)
8月3日(日) 凱旋門、シャンゼリーゼ大通り、ノートルダム寺院、路上喫茶、リドー(Lido)観覧(歓楽の巷)
8月4日(月) ルイヴィトン(皮革商)、アルフア(日本人経営商店)、衣川(日本食料理店)、印象画美術館(名画セザンヌ、ゴッホ、ドガ、モネ外)
8月5日(火) パリ・ドゴール空港よりロンドン・ヒースロー空港へ帰英→社宅へ
8月6日(水) 休養 リーゼントパーク散策
8月7日(木) 休養
8月8日(金) ハイド・パーク探訪、アルバート記念碑並びに記念館(ビクトリア女王婿)、ロンドン塔王冠並びにその他宝物
8月9日(土) 中華料亭「家酒園翠」
8月10日(日) ウィンザー城、マグナカルタ憲章遺跡、Oakley Court Hotel、テームス河上流、グリニッチ天文台、本初子午線(0度)を跨ぐ
8月11日(月) ハノーバーズ(再び買物に)
8月12日(火) リージェントパーク散歩、ロンドン市立動物園(中へは入らず)
8月13日(水) 帰国の途に着く、ヒースロー空港(午後2:45)→アンカレッジ空港(午後3:15)→成田空港(午後5:30)→伊丹空港(午後6:40)→中西夫妻の出迎えを受け帰宅(午後9:00)
遥かなる彼方地球の裏ロンドンヘ
~ロンドン旅行記~
あこがれのロンドンヘ出発(7月21日、月曜日)
朝4時半起床、雨は土砂降りに降っていた。いやな旅立ちだなあと情け無く思ったがこれも仕方が無い。徹(孫―岡部家の次男)も起床(前夜から投泊)近くに住む重徳夫妻も見送りに来て呉れた。その頃から幸せなことに雨は小止みになってこの調子ならまあまあと一寸安堵、心ははずんだ。出発準備(服、持ち物、其の他)万事整い5時半3人は重徳夫妻に見送られ一本松バス停に向った。雨はこの時スッカリあがって好都合だった。
2個の大きく重いトランク(サムソナイトW3)は徹と重徳が手押しで楽々と歩を進めた。5時50分市バス205号(京都駅行)が来て3人は愈々車上の人となりロンドン旅行約1ヵ月間長途の旅の緒に着いた。重徳夫妻は80歳前後の老父母(父は昨年の入院大手術後)が無事にロンドン旅行が完遂出来るだろうかと一抹の不安を抱きながら「元気に無事に行っておいで」と励ましの言葉で見送って呉れた。
よし江は初めての飛行機搭乗、無事に行けるだろうか。6時10分京都ホテル前に到着、6時50分迄国際空港伊丹飛行場行きのバスを待った。バスは定刻に来て他の数人の客を乗せて発車、途中京都市内十数力所を巡廻、伊丹飛行場行きの客を拾い集めて満員、車は京都南インターチェンジから名神高速道路を一路直進伊丹飛行場に向った。9時50分伊丹飛行場に到着、ここから愈々海外渡航(旅行)が始まるのであった。
生まれて始めてパスポートが必要になって来た。梢々身の引き締る感じがした。勝手が一切解らないのですべては徹任せ、彼の指図に従って行動するより外なかった。彼はこれ迄数回海外(アメリカ、中国、ヨーロッパ諸国)へ渡航しているのでよく慣れたもの、豊富な経験を持っている。私共は全く大船に乗った気持ちですべてを任せ切り、安心して旅立つことが出来た。
それに加えて更に一層心強く気丈夫なことが湧いて来た。それは伊丹空港へ着くと日航の○○様(名前を聞いても言わない)がちゃんと待ち受けて私共の旅行企画(飛行機に関する一切)を整えて万全にお世話下さったことである。……(日航のご好意は別記)私共はこれらの方々の誘導によって東京成田行の飛行機に乗り込んだ。これでこの飛行機が墜落、或いはバイシャック等に襲われぬ限り間違いなくロンドンに向う筈である。
荊妻は飛行機に乗るのは初めての経験である。どんな恐ろしいものかと戦々恐々の彼女は意外にも音静かにスムーズに飛び立づのにスッカリ安心し切ってこれならばどこへでも何回でもと豪語していた。やがてスチュワーデスのシボリ手拭、飲物、読物等、続いて昼食迄サービスであった。食事は意外と不加減で食欲は湧かなかった。それはあとから聞いたら機内の食事は総て缶詰め料理(食中毒防止のためである)であるからである。
10時50分機は成田空港着、ここでロンドン行ジャンボジエット機○○号に乗り替え機内で約一時間待ち、この飛行機は正午成田空港を飛び立ち一路シベリア広野の上空(?)を高度1万3千メートル、時速780キロメートルで西へ西へと進んだ。
これまでロンドン行直行便は無かったが、今年5月からこの便(所要時間11時間-従来のアンカレッジ経由の飛行機は15~16時間)が出来たのである。勿論日本海の上を、そしてヨーロとハヘ行けばバルチック海の上も過ぎ、やがて憧れのロンドン、ヒースロー空港に午後4時30分安着。
ヒースロー空港では厳重な入国監査、人物査察(パスポートの写真と人相照らし合わせ等)そして所持品の点検等もあったが、何のやましい点も無いのだから無事通過出来た。
西半球のロンドンの地に初めて足を踏みおろした。5ヵ月振りに(3月帰国)次女多賀子の出迎えを受けた。彼女は東半球から西半球へ朝の5時から午後5時迄、長途の旅程を無事にこなして「良く来たね、良く未だね。……」の連発であった。地球の半分十何万里の長途の旅をよくこなして、何の疲れも無く元気で彼女と対面出来た時の喜び、嬉しさは何物にも代え難かった。空港へは陽二様(支店長)特別のご配慮で銀行差廻しの自動車(メルセデス・ベンツ)がちゃんと待っていて呉れた。
ヒースロー空港はロンドン市から相当離れた郊外(約10キロメートル)にあるので約1時間以上もかかって銀行社宅リージェントパーク傍のNW-20に到着、多年の宿願ロンドン旅行がこれで叶えられ、明日からは多賀子のスケジュールに基づいてロンドン各所の名所旧跡を探訪するわけである。
今晩はダッスリ休ませていただいてまた明日からの活動に期待しよう。
一つ書き落したことがあるから附記する。
伊丹、成田、ヒースロー空港などどこでも日航の次長級の方が必ず出迎えて下さって、飛行機の出口に待ちかまえて居て下さった。機内より降りる前にはとこでも必ず「中村様、中村様……」と連呼アナウンスがあるのに驚いた。この数多い乗客の中に、中村様とは誰のことであろうと耳を疑ったが、正しくそれは日航の方で岡部陽二ロンドン支店長様のご厚意による差し廻しの方であった。陽二様は日航に素晴しく顔が良く利き「老夫婦が初めての海外渡航だから戸惑わぬ様に鄭重に受け入れてやってほしい。」とのたっての指示、依頼の手廻しがあったからである。どこの空港でも着港する次の搭乗迄その待時間(約半時間~1時間半)は高貴の待合室に誘導されコーヒー、茶菓のもてなしを受けた。私共には勿体ない位のご歓待で寧ろ気が引けた位であった。
銀行社宅について
社宅のある界隈はロンドン最高級の地域であり、リージェント公園界隈と言えば一流人の住む所である。往古この辺一帯の地をショージ三世が占有して居られて、今はそれを○○に貸与して居られる土地柄である。何百米もある長い垣根の根元柱や街灯にはジョージ三世の王冠マークが刻まれているのがその証拠である。ロンドンの家は殆ど表に表札が無く(商店は別)只○○界隈何番(岡部様宅は20番)だけが印である。よくこんなことで郵便物(其の他配達物、新聞、書籍等)が或いは訪問客が間違え無いものかと一応不思議に思った。扨て社宅建築は五階建(2百メートル程の長屋)―表から見ると四階建、裏一階は地下室とガレージ、地下室は女中部屋にしつらえてある。
表一階に入ると第一応接間(天井の高さは日本建築の約一倍半、イギリス人は背が高いからであろう!‐伸び伸びゆったりしている。短時間の応接客と会談の時はこの部屋で約二十畳、広さ十数人は着席出来る)、二階は貴賓並びに長時間の来客の応接間、勿論会議も出来る。ゆったりとここも十数人は占められる椅子席、豪華豪華(写真参照‐―口には言い表せない)、三階は岡部家族専用の居間、娯楽室も隣接している。四階は宿泊来客専用の部屋で私共は二十四日間この部屋に泊めてもらった。勿論各階には洗面所、化粧室が完備されており、浴室は地階、三階、四階に夫々あった。食堂は一階、これまた設備のよく整った衛生はこの上も無く配慮されていた。
社宅は五階建だから階段の外にエレベータ(彼地ではリフトと言っている)があるからとても便利である。階段並びに全床には分厚い絨毯が敷かれてあるから大変感触が良い。各階には夫々にふさわしい絵画、彫刻、置物等がよく調和されて配されていた。
飛行機時差について
成田空港を正午飛び立って一路西ロンドンに向った。滞空時間直行便11時と言うからロンドン着は午後11時頃の筈なのに、ロンドン・ヒースロー空港着は何と午後4時30分であった。
これはとりもなおさず時差の加減で飛行機が西へ西へと進めば、これに同調して太陽が西へ西へと追いかけているから真夜中にならず、午後4時半まだ明かるいうちにロンドン着というわけである。帰りも同じ事が言える時差の関係である。
リージェント・パークについて(7月22日、火曜日)
それはロンドンでもその園域の広いこと、整備の良く整っていること、其の他あらゆる条件がロンドン市民の幸福(健康、防災、其の他――)につながる特徴をもっている指折りの公園である。市の観光施設にも繰り入れられ、沢山の観光バスがここへ来る。
公園の広さはI寸想像がつき兼ねるが、恐らく京都御所の全域に匹敵するか乃至はそれよりももっと広いかも知れない。
遠くかすんで向うは見えない位である。園内は緑の森(何百年を経たであろう老樹が鬱蒼と茂り)は目が醒めるばかり緑鮮やかな芝生、それに憩いの場として恰好のベンチ、椅子が所狭しと沢山設けられて、老人、病弱者には打ってつけの好場所である。たくさんの老夫婦が日光浴に来ているが若人、少年少女達も沢出来ている。少年少女達には適当な運動競技場、競技用具も備え付けられ、その利用度は頗る高いものかおる。
ロンドンは、冬季霧が多くて殆ど日光に浴する機会が少ないから、せめてこの夏を十分に活かして日光浴を楽しみ、健康をはかることに心掛けているのであろう。ロンドン市民はまた、人間の福祉は勿論のこと、広く鳥獣にまで愛護の精神が強いから動物達も人間を恐れる(警戒心なし)ことなく、極めて人間の近く迄寄って来て人なつこく戯れ餌を求める姿は、到底日本では見受けられない光景である。また森には多くの鳥獣(リス、小猿、いたち等)が住み馴れ、人なっこく寄りそって来る。
また、公園の一隅には有名なロンドン市立動物園もあって(かつて日本の天皇陛下もご渡英の際この動物園を観られたという記録が残っている)多くの入園者で日々賑わっている。私共3人は(多賀子の案内で)終了迄この公園を隈なく散策し、保養と安らぎの楽しい一日を過ごすことが出来た。
ロンドン市内並びに郊外名所旧跡探訪
(7月23日、水曜日~8月1日、金曜日)
アンドリュース王子の結婚式(7月23日、水曜日)、かねてから、この日にはイギリス王室の御慶事で街は上を下への大賑わいと聞いていたが、岡部夫妻の話ではとても街へ出て拝観することは84歳の老人には無理(人ごみ)…怪我をしたら大変だから家でテレビを見ていることにしようと話がまとまってそうすることに決まった。千載一遇の好機だからと意気込んでいたが、そう言われるとそれもそう(怪我をしたら百日説法…)と潔くあきらめることに決した。
前記のような始末で路上拝観を思い止まることにした。
多賀子のスケジュールで(徹の運転)初めての市内見物に出掛けた。それはハロッズ(百貨店)、エリザベス女王様が始終出入りして買物をなさる超一流の最高級百貨店である。陳列してある品は皆高級品、店員もどことなく上品な人のように見受けられた。よし江はここで土産物(ネクタイ、財布、スカート、ネックレス、生地等)を購入し、関税引きのむづかしい手続きも多賀子の英会話で万事スムーズにやって呉れて良かったと思った。
帰りは地下鉄(古い汚い車輛であった)バスに試乗した。ロンドンのバスは総て二階建(赤色)で見ただけで危なっかしく思えたが、これで一度も転覆したことは無いというから確かな実証済みなのであろう。しかしよし江には揺れが激しいので危く、二度と乗るものではないとあきらめた。ロンドンのタクシーにも試乗したが、色は黒色ばかり、形は非流線型、まるで犯人護送用車の感がした。それにロンドンはバス、タクシー、エレベーター等の運転手は大方高年齢の男性で、口ひげを生やしている人が多い。日本のように容姿端麗、美声の運転手(車掌)は殆んど見受けないのは、就労率の低いことが原因しているのではあるまいか?
夜は陽二様に案内していただき街の繁華街を見に行った。昼来たハロッズ百貨店、夜の外観(電飾)も見事であった。記念撮影をした。
7月24日、木曜、多賀子の案内、徹の運転で市内大英博物館を見学に行った。重厚、壮大な建物であった。中では一切撮影禁止だから外、表人口で記念撮影した。中は大勢の人で可成り蒸し暑かったが、初めての事でもあり丁寧に見学した。そのうち三つの由緒深い歴史的遺産を見た。先ずその第一は世界に二つと無いロゼットーストーン=往古三世にまたがる大中小の文字が刻まれている名石であるが、到底私共には読み取れないエジプト文字であろう。第二はギリシヤ神殿(現地にある実神殿の二分の一か十分の一縮小のもの)、第三はミイラ石棺、何千年、何万年昔のミイラ実物である。よし江はこれを見ると急に歴史的懐旧の情が湧いたのか、喰入る様に見入ってとてもその場を動こうともしない。数十分経って暑いから外へ出ようと促しても、仲々聞き入れず余程このミイラに魅力を感じたものらしかった。
7月25日、金曜日、午前中多賀子の知人のお見舞にガーデン・ホスピタルヘ。
午後は昼食ににぎり飯を携帯しKewGarden(植物園)を見に行く。市立の植物園だけあって殊に往時の名士の旧跡らしく、よく手人れも行届いて清楚な感じのする名園であった。ここでも鳩が人なつっこく私共にまとい来てしきりに餌をねだる。その様はロンドンならではの風景であった。
7月26日、土曜日、多賀子特別の計らいでロンドン市立体育館(規模広大)で催されたロイヤル・トーナメント、ショウを見に行った。観覧時間約3時間、木製の椅子だったのでお尻が痛かったが、最後迄飽きずに面白く楽しく観た。種目は騎馬、訓練犬、軍人のマスゲーム、何れもイギリスらしく美しく着飾った演技者の巧妙な手法には感服させられた。
7月27、日曜日、陽二様(日曜休日)のご案内でセントポール寺院(教会)、住友銀行ロンドン支店、ロンドン城(昔の王城、現在はその一部政治犯監獄)の側を通り抜けて拝観せず。
住友銀行は内地の銀行とは趣が多少違い、一般の市民の預貯金取り扱い業務は、極めて少部分に限定され、大部分は官庁なみの国際的金融業界の取り引き交渉事務を取り扱って居られるのである。行員は約2百人余り、内日本人は約70~80名、外は外人である。そのトップに立って、部下を掌握し、複雑な国際的経済業務を処理して居られる陽二様の辛労が察せられた。
彼の卓越した頭脳と事に当って微動だにしない信念(度胸)が無ければ到底こなせない困難な(責任の重い)仕事であると思った。
テームズ河畔の国会議事堂(横に高く聳ゆる時計台)を横に見ながらテームズ河に懸るタワーブリッジを渡った。ロンドンの有名な橋である。橋は二階建て、一階は普通の車馬往来、二階は(エレベーターで昇降、有料)人のみ通る見晴らしのよく利く高い橋である。そして一階はテームズ河を大船が航行する時、開閉出来る構造になっている。この構造は世界で一番最初に造られたものである。
そこから少し歩を進めると、ロンドン特有のぺチコート・レーン昼店市場、沢山の二流、三流の安品物が山の様に積まれて売捌かれている日本の所謂出店のようで京都東寺の弘法様、北野天満宮様の縁日の類である。
午後は多賀子に誘われて、ハノーバー・ハウスヘ土産物を買いに行った。ここは日本人が経営している最大の商品店で従業員の大部分が日本人だから(日本語会話可能)久々に日本人に懐かしみを感じた。よし江も多賀子もここでの土産品を仕人れた。品物も可成り豊富、値段も安く有利な買物が出来たようであった。ここは多賀子が岡部支店長の顔で相当な値引きをして呉れるらしく、よし江はホクホク顔であった。
7月28日、月曜日、今日は久々に曇り少々雨。
朝食後ウェストミンスター寺院を見学に行ったが、長蛇の列をなしていたので思い止どまりWallace Collectionとウェリントン公爵邸あとを見学した。何れも有名な邸だけあって立派な遺品、宝物類が沢山陳列してあった。
驚異の眼を見張った。
7月29日、火曜日、ハロッズヘ再び土産物を買いに行った。
ロンドンでは週に二、三回朝6時~7時頃リージェント公園の周囲(約10キロメートル)をエリザベス女王様お出迎えの儀仗隊兵の馬の調教が行われる。一騎手が二頭の馬を御し25騎手が(50頭)馬の蹄の音高らかに整然と調教行進する、その光景は実に見事であった。多賀子は耳がさといから、私共を呼び起して見る様にと勧めて呉れるが、社宅の窓(4階)から眺めて、写真を撮ろうとしてもピントを合わしている間に、行列は遠く通り過ぎるから、とうとう撮れず仕舞で残念であった。
リージェント・パーク側の大通りで、白昼とても無惨な交通事故死を目撃した。バイクに乗った男が、直進して来た女子運転の車にはねられて転んだのである。鮮血が夥しく道路に流出し、身の戦く感じがした。
7月30日、水曜日、バッキンガム宮殿の前庭を見る。
日本の宮城と異なり市街の中に在るので荘厳さ、威容さは感じ取れなかった。でも、矢張り厳重な柵を廻らし、端正な服装の衛兵が、護衛しているのには間違いなかった。今日は何の行事があるのか解らなかったが、赤服、黒服、またそれに奇麗な服装の騎馬隊が目の前を整然と行進して行く光景は、よく日本では絵葉書、雑誌等で見受けるが、目のあたりに見るのは実に立派なもので感激した。ウェストミンスター寺院(28日思い止まり)を拝観、豪荘建築と往時の名士の墓に哀悼の情湧く。
夜ジセル観劇(バレリーナ・森下洋子主演、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。第一場は洋子主演の或る牧場に於ける恋の物語、第二場は洋子を中心とした大勢(50~60名)のバレリーナの総合大舞踊であった。演劇のあとのアンコール数回、これに約一時間程も費し日本では余り例を見ない場面であった。如何にこの演技が、好評を博したものであるかが察知される。帰りはこれがために時間が遅くなった。
7月31日、木曜日、陽二様は私共のために態々休暇をとってご案内下さった。
本日はロンドン郊外(約数十キロ、恐らく京都~神戸又は明石間位であろうか?)の
①ウォーバン・アベイ(放し飼い動物園、獅子、虎などの猛獣が私共の自動車の側まで寄って来るが、極めておとなしく、危害など加えることは皆無、小猿が数百匹、私共の車の上に乗って進行中、戯れているのはとても可愛らしい)。
② ブレナム・パレス(チャーチル元首相の生誕地、とても広大な地域にある住宅)
③ モートン・カレッジ(オックスフォード大学―浩宮様がかつてご在学)
オックスフォードは一市街がその名を占め、街全体が大学の校舎である。とても古めかしい由緒深い地域(大学)である。
ロンドン市内へ戻って、中華料亭「楓林閣」でご馳走になったが、よし江が帰途長途のドライブ(スピード・アップ)のため車酔いをした加減で、余り食欲が進まなかったらしい。勿体ない感じがした。
8月1日、金曜日、陽二様のご案内でこの日も遠乗り。Heaver Castle(城)見学。
この王城は、建物は余り大きくないが、庭園がよく整備され、小じんまりした気持の良い所で、緩っくり落付いて見学出来た。
パリ名所旧跡探訪旅行(8月2日、土曜日~8月5日、火曜日)
8月2日、土曜日、陽二様は7月31日から銀行の休暇を取り、私共のために態々ご案内の労をとって下さった。恐縮々々、有難いことである。
この日は陽二様(私共予期せざる)がフランス行きを企画して下さった。午前10時30分、ヒースロー空港を発ち、約1時間の航空、ドーバー海峡を越え、大陸フランスのパリ市ドゴール空港に着陸した。
午後エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリーゼ大通り、コンコルド広場(ギロチン)人類博物館、フランス士官学校の側を通ってパリ市の概観を掴んだ。
夜はセーヌ河畔(清流)に高く聳える(33階建)日航ホテルの22階に投泊した。パリもロンドンも何れもヨーロッパの旧都大文化都市であることには違いないが、そこにはまた両国の歴史的、民族的の顕著な相違のあることは否めない。即ちロンドン市は、古い伝統的、紳士的気質に満ちた国柄で、街の各所に重厚、且つ慎重性な気風が窺われているのに反し、パリもまた歴史的、保守的、文化的遺産の豊富な所は勿論であるが、他のヨーロッパの諸外国(ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、フィンランド、イスパニヤ、ポルトガル等)との連繋もあって非常に進歩的、開発的、すべてが明るい感じのする街であった。
8月3日、日曜日、朝から郊外のヴェルサイユ宮殿を見学に出掛けた。
日曜日の加減もあってか、入場者は長蛇の列をなしていて而も、熱い夏日が照りつける。私ら年寄りには少々苦しい日であった。でも辛抱して漸く入場出来た。流石に世界に誇る名宮殿(第一次世界大戦の講和会議が開かれた-連合国側の勝利)である。側壁、天井等全会場、全室に満ち溢れた絵画彫刻、実に豪華絢爛そのもの、とても筆舌には尽くし難い……。
しばし歩を止めて、見とれるより外無かった。其の他、随所に配置されている器物、什器等すべて芸術の粋を蒐めた逸品は加り、只々目を見張るのであった。
また、外ヘ一歩出ると広大な庭園、森、花壇、噴水、像等よく調和の取れた配置、これも又世界的名園の名に恥じない只々、驚嘆するばかりであった。
午後、ルーブル博物館を見た。彼の世界的大作と言われるモナリザの絵画、ミロのビーナス彫刻には沢山の人々が集って、念入りに鑑賞していた。私も吸い込まれて見入った。
次に凱旋門、エッフェル塔にもエレベーターで登って、その感触を味わった。凱旋門の上から遠く眺めたシャンゼリゼーの大通りの立派さ、またエッフェル塔(高さ270メートル)の頂上から眺めたパリ市街の展望、実に見事であった。
またノートルダム寺院も見たが、沢山見飽きて只、ステンド・グラスのみ印象に残った。
夜の食事はパリ独特の路上喫茶であった。時折、流しや物乞いがやって来て、金品をねだる風景は少しいや気がさした。また、料理も余りおいしくなかった。
夜、日航ホテルに投宿、33階中の22階の室で、食事は食堂でセルフサービス。外に希望注文が叶えられる。
夜(10時~12時)、パリのリドー観賞(劇)に招かれた。全く文字通り歓楽の巷である。場内は目も眩む虹色の光線(イルミネーション)が縦横に飛び交い、目も眩まんばかり、裸婦が入れ替り、立ち代り色々のポーズをなして、引っ切りなしに出て来る。空に舞い、地に伏し万様の姿でいろいろ表現し、観客を魅惑させた。よし江が見兼ねて、居眠るかと思いきや、さに非ずとても魅せられて喰い入るように興味深く鑑賞して呉れたのは招待者(岡部夫妻)にとって満足だと喜んでいた。
8月4日、月曜日、朝食後ルイ・ヴィトン(パリー流の最高級皮革店)へ行く。
主に多賀子の買物。次にアルファ―日本人経営の土産品店である。ここでも土産品(関税引)を沢山買う。多賀子の特約店で望外の値引き、其の他便宜を図って呉れた。帰国したら態々お礼状迄来ていた。
昼食はフランスパリで専門の日本料理「衣川」で。
午後は印象派美術館を陽二様と二人で観る(よし江、多賀子は場外休憩)名匠(ゴッホ、セザンヌ、モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャン等)の名画が陳列されていて、目を見張った。
一旦帰室して休憩、午睡、再び出掛けた。
夕日の沈む頃から、セーヌ河の遊覧に出掛けた。ロンドン・テームズ河と異なって水量も豊か、且つ清流、河岸には緑樹繁り、それにパリの明るい、爽やかな建築美が河面に映じて、よく調和のとれた風景であった。その河を涼風に吹かれながらの遊覧、とても気持ち良かった。
夕食は船上Shogun(ショーグン)で豪華版の中華料理(目の前で調理)をご馳走になった。帰りはフランス・パリの地下鉄にも試乗した。ロンドンと較べて美しく快適に走行した。
8月5日、火曜日、フランスから帰英の途につく。ドゴール空港→ヒースロー空港へ
再びロンドンにて(8月6日、水曜日~8月13日、水曜日)
8月6日、水曜日、本日は休養、入浴、午睡、散歩(リージェント・パーク花壇)
8月7日、木曜日、旅行紀文整理
夜、八重子の学友荒川様から電話があった。「中村様おいでになりますか。」と言う、電話がかかって来た。このロンドンで誰が、中村を知って居られるのか。そしてどこからかけて居られるのかと、しばし訝りましたが、段々会話を重ねているうちに、八重子の友人荒川様(京都市右京区龍安寺近くにお住い)と判り懐しさ一ぱいでした。渡英以来日本人と余り接触しないので、日本語に飢えている矢先であった。是非々々ご来宅下さるようにと促しましたが、荒川様はツアー旅行であり、また夜分でもあるので時間的余裕が無いから、折角のご厚意、貴意に副い兼ねて残念ですがと、断られました。上記の理由で、折角の機会乍ら諦めるより仕方が無かった。帰国後のご面接を期待して、お別れするより外なかった。
8月8日、金曜日、ハイド・パークを観賞と記念撮影
アルバート記念碑(ビクトリア女王の婿)と記念館(現在は音楽堂に使用されている)を見、午後ロンドン塔(十二世紀の建築)へ、ヨーロッパ風の石造り(煉瓦も混る)の古式豊かな王城である。入場には可成り手間取った(約四百米もの柵に区切られて整理される)。世界最大のダイヤモンドの王冠、其の他各時代の王が使われた刀剣、什器、衣裳等の陳列があり目を見張る。これ等の品々をゆっくり入念に見たかったが、警備員の督促(停滞しない様に)が厳しいので不満ながら、歩を進めて外に出た。
8月9日、土曜日、岡部様のご厚意で中国料理最高級店「家酒園翠」へご案内いただいた。
流石に名の通った名店だけあって入店者多く、永く待だされて辛うじて入店出来た。
8月10日、日曜日、郊外ウィンザー城見学(十六世紀ヘンリー八世が築城したもの)。
かつては歴代王朝の一時逗留(別荘)された城地であるが、現在はエリザベス女王がここで逗留されると、その期間中は城頭高く、イギリス国旗が掲揚されることになっている。
帰途、マグナ・カルタ憲章調印の場を過ぎ、Oakley Court Hotelで昼食(コーヒーと茶菓のみ)このホテルは、頗る見識の高いホテルでノーネクタイ者は入室不許可、己むを得ず屋外で事を済ませた。ここはロンドン・テームズ河の上流と聞いたが、流石にロンドン市内のテームズ河の濁流とは雲泥の差、水清く河岸の森林はよく繁り、あたり極めて静寂、誠にすがすがしい気持の落ち着いた地域であった。この清流に上り下りする遊覧船も多く、私らも記念撮影して楽しんだ。
帰途、ロンドン市内を遠く東に廻って、グリニッチ天文台を見に行く。小高い丘の上に在り、よし江と多賀子は麓の公園芝生で、休憩待機すると言った。私は折角東洋から来だのだから心残りのないようにと陽二様と二人元気を出して登った。約一キロ程登って、漸く天文台に到着、東経、西経0度の起点本初子午線を跨いで立ち、感慨無量であった。ここで記念撮影、遠く東経135度(日本明石市の子午線)に思い馳せながら、又館内の記念物、参考品等を心をこめて観賞した。
8月11日、月曜日、ハノバーズ(日本人経営の土産商品店)へ再び買物に。
8月12日、火曜日、リージェント・パーク散歩(ロンドン動物園の裏迄行く)。
小鳥らと親しみ、沢山の記念撮影をする。
8月13日、水曜日、
7月21日から24日間、ほんとうに永い間、涼しいロンドンに避暑滞在、而も生れて始めての外国ロンドン、パリ市の街を隅なく(名所、旧跡-遠くは郊外まで)見学、拝観させていただき誠に有難うございました。これで80余年の長い一生をいつ閉じても何の心残り無い尊い経験でした。この行事を遂行するに就いては岡部ご夫妻の温いご厚情は申すに及ばず係り医師の確かな保証、それに親戚各位の熱烈なご後援等、あらゆる力が一丸となって遂行にご協力下さったお蔭で、無事大業を果すことが出来ました。ほんとうに嬉しく有難く感謝々々の気持で一杯です。
ロンドンは東洋では樺太半ば以北(北緯52度)に位置する都市だから、北海道よりまだ北、夏涼しいのは当然のことである。その代り、冬樺太のように寒いかと言えばさに非ず。それはメキシコ暖流が近海を流れて、気候を緩和するから樺太の比ではない。しかしロンドンは冬季霧が多くて、鬱陶しい陰気な日が続くそうである。夏季の日光浴を渇望するのはその所以である。
さらばロンドン 帰国の途に(8月13日、水曜日)
愈々懐しのロンドン、そしてリージェント・パーク傍の銀行社宅をあとに、この地を去って行く私共、只「良かった」「有難かった」の言葉を残して、又暑い暑い日本へ帰って行きます。さようなら!
ヒースロー空港迄多賀子、徹は見送って呉れた。徹は9月10日頃帰国の予定。多賀子はこの次いつ帰国するやら、それ迄健康に気をつけて(残暑と接客の疲れ無きよう)しっかり御健闘下さい。
ヒースロー空港午後2時45分発、帰途はアラスカ、アンカレッジ経由で所要時間ロンドン、成田間8+7=15時間、成田‐伊丹間1時間、計16時間で飛行機は北極海上、冷たい氷の海を飛び越えて、一路母国に向うのである。途中アラスカに近づくと白雲聳えるマッキンレー山脈の勇姿を機上から眺めながら、予定通りアンカレッジ空港に到着、ここで約1時間休憩した(給油並びに乗務員交替のため)。
8月14日、木曜日、そして午後6時40分、無事伊丹空港に着いた(ここでも時差あり)。伊丹空港でも野田様(日航次長級)が懇切にお出迎え下され関門通過。荷物の受取り等とても手間のかかる面倒な仕事であった。野田様はすべての事務を、手際よくさばいて下さったので大助かり(ここでは徹が居ないので不案内)。
この飛行機は搭乗者多数(数百名)のため荷物(トランク)の受取りが大変手間取り(約一時間以上も)午後8時過ぎでないと場外へ出られなかった。かねてから連絡しておいた中西夫妻も出迎えに来て呉れていた。余りに外へ出るのが遅いので、彼らは愛想づかし(或いは飛行機搭乗間違い)、須磨へ帰ってしまっているのではないかと一応懸念したが幸なことによく辛抱強く待っていて呉れたので大助かりした。若しここで喜久子夫妻が居て呉れなくて私共で国際航空便、京都行バスを探していたら、どれ程時間がかかり、またくたびれたことであろう。そしてこの日の伊丹空港の暑さは、ロンドンの涼しさに比較して雲泥の差、汗だくだく。
そして中西夫妻は、京都迄送り届けると言って呉れたので、とても嬉しかった。大助かりである。午後9時過ぎ重徳宅へ着き、荷物を解き、あらましの土産話をして長の旅の無事を喜んだ。
25日間の留守中、斐子様は高木町の家屋の管理(盆栽の冠水外)、不在中の受信物保管、来客等の報告を克明にノート及び新聞切り取りして処理して置いて下さった。またいつもの事ながら、冷蔵庫には沢山のご馳走を用意して置いて下さった。その心尽くしを有難く有難く思った。
1 日没(夏季)の非常に遅いこと(午後10時過ぎてもまだ明るい)。
2 冬は濃霧が多いが、夏季は気温摂氏20度以下、空気が乾燥しとても爽やか、快適な生活が出来る(緯度は樺太の半ば以北)。
3 市内数多い公園が何れも広大、而もよく整備されて利用度の高いこと。
4 世界の名河テームズ河は汚濁甚しく予想を裏切った。
5 路上駐車(街の両側)多く折角の街の美観を害っている。街の大通りには中央安全地帯が設置され、一息には横断不能。
6 市の水道水は直接飲めない(沈澱物含有)。有料ミネラルウォーター飲用。
7 洗面所、炊事場、便器等尺度(高さ)、日本より約10センチ以上高い。
8 郊外へ出ると山がどこにも見当らない。一面広漠たる牧場と麦畑の連続。日本の車窓から眺める稲田はどこにも無い。又緑滴る山河、渓谷等の美しい景色等は望むべくも無い。
9 エレベーター、バス、タクシー等のサービス従業員、多くは老齢の男子。いかめしく無愛想である。中には黒人、又は髪を生やし、日本の様な妙齢の女美人は殆ど無い。
10 バスと言えば全部が二階建、危っかしく思ったが、今迄に事故は無いと言う。運転は慎重なのか。タクシーは全部黒色で、形も非文化的、一見刑務所の犯人護送用車の感じがする。座席もクッション堅く、乗り心地不快。パリでは料金不定、乗車の際に交渉必要―時間の浪費甚だし。
11 社宅だけかも知れないが、浴室にかかり湯場が無く、シャワー使用(浴槽は長桶)
12 外国旅行の当然の事乍ら、通貨がとても煩わしい(ロンドン・ポンド、パリ・フラン)
パリ市雑感
1 天下の名河セーヌ河、水量豊かにして流れ清し。建築の美と公園、街路の樹木の緑に映えて、とても風景絶佳
2 ヴェルサイユ宮殿、宮殿の内装(天井、壁画、調度、其の他、)周りの庭園、花壇、筆舌に尽くし難い豪華絢爛、只驚異々々。
3 凱旋門、それに続くシャンゼリゼーの大通り、高さ300メートルの鉄塔エッフェル塔、何れも世界的壮大建造物。
4 ロンドン市に較べて、市内は日本人観先客が非常に多い。
あ と が き
この旅行紀行文を、最初書き始めた動機は、旅を終えて帰国後、子供らや親戚、知友の方々に、いちいち旅行の土産話をするのが煩わしいから、これを読んで写真、絵画とを照合して下さいとの積りで筆を起しました。それを娘八重子が、折角の思い出の紀行文だから、改めて印刷製本したらとの奨めがあって、とうとうこの様な始末になってしまった。
内容は甚だ纏まりのない岡部様、多賀子から見たら間違いだらけの紀行文であるかも知れないが、ボケ老人一歩手前の手記として、寛大にお見逃しお許し願いたい。
重ねて私共には、この大壮挙、こんな楽しい有意義な思い出多い旅行が実現出来たことは、神仏のご加護、岡部様のご厚意、其の他皆々様各位の絶ゆまぬご支援の賜と深く感謝して筆を掴きます。
拝々
中 村 重 太 郎
お世話になった皆様へ
青々と繁った木々の葉も、こがね色に変り、枯葉を燃やす香がどこからともなく漂い、ロンドンの秋の深みを感じる昨今です。
この夏、両親の渡英に際し、あのように喜んでくれたことは、親戚はじめ主人と、20歳にしてはとても思いやりのある次男(徹)の協力がなければ成功しなかったと、つくづくありかたく思っています。
殊にご承知のように大変忙しい主人が、休みをとってバリ、オックスフォードなど遠出してくれた事は、私一人ではとてもとても出来なかったと思います。主人と息子のやさしさに、本当に感謝しています。手術後、僅か九ヵ月、あの老齢の父が果てしない好奇心と研究心に溢れ、私共が計画したスケジュールを、全く疲れも見せず、遂行出来ましたことを本当に嬉しく思っています。
結婚後、流産、失明、子供の手術。病気、また初回の渡英に際し、中三の長男(琢治)の養育などで、大変心配をかけましたが、その恩返しが出来てとても救われた気持でいます。
自分のものは何一つ求めず、人に与えることばかり考えている両親――ことに母が毎夜お土産を並べ、喜んでいる姿が目に浮びます。お恥かしいことに何処へ行っても疲れる私が、父に「疲れたでしょう」と聞くのですが、一言も「疲れた」という言葉をはかない我慢強さ、忍耐強さを肌で感じて我ながら反省させられました。
父に教わった私の好きな句(これは私かこのロンドンヘ出発する時の別れの句として私の手帳に書いてくれたものです)を最後にお別れと致します。
いささかの 善きことなして一杯の
酒心地よき この夕べかも
最後に日航、交通公社の方々の万事行き届いたご高配にも、深く御礼を申し上げたい気持で一ぱいです。
1986年10月4日
ロンドンにて
岡 部 多 賀 子
岡部 徹(20歳)
岡部陽二第3子、私の孫11人中の第5番目
現在京都大学工学部3回生
彼は今回の訪英旅行に対し終始、献身的に努力して呉れました。
1 パスポート取得に対して。
2 飛行機搭乗のための保険加入手続。
3 伊丹飛行場からロンドン、ヒースロー空港迄の搭乗手続がスムーズに渉った。
4 ロンドン市内での名所旧蹟の探訪には彼が殆ど自ら車を運転して案内して呉れました。
5 ロンドンの市内地図作成について。
6 昨年、私か40日間の入院中、殆ど毎日と言ってよい程病床を訪ねて呉れて看病並びに使い歩きなど、こまめによく尽くして呉れました。
以上のように、彼はほんとうに心やさしく誠心誠意の人柄で、恐らく誰れにも好かれる児で、ほんとうに私共にとって幸せなことと喜んでいる。
編 集 後 記
京都では100枚余にのぼる、すばらしい訪問見学先の写真の補足説明を、時間を忘れて楽しく聞かせて呉れました。
帰途の車中で、そのレポート用紙を読みましたが、昨秋あの大手術をした84歳の父と、平素高血圧などに悩み、病弱な79歳の母が、地球の反対側迄遠征し、一日の無駄もなく快適で、而も充実した日々を過して来たことを知り感嘆致しました。あちらでは岡部夫妻が、万一にそなえて日本人のドクターにお願いをしておいたそうですが、全く医者いらずの25日間を過して、無事帰国してくれた事を本当にうれしく思います。
このことは二人の健康もさることながら、岡部夫妻と徹君のご尽力の賜であり、長女として厚く御礼を申し上げます。
私の長女夫婦と二女はロンドンの岡部様宅にお邪魔もしておりますが、北大に行っている長男は、全く外国を知らないので、祖父の旅行記をコピーして、送ってあげようと思いましたところ、皆様から「これだけのものならば小冊子にすれば……」とのお奨めをうけました。
「この世にもう思い残すことがない…」と父母に言わしめた程の親孝行をした妹夫婦には及びませんが、私も自分に出来る範囲で、ご恩返しのつもりでこの小冊子を作ってみようと思い立ったのです。
父の直筆はわざわざ活字にしなくてもよい位立派なむのですが、ささやかな冊子が生涯の記念となれば幸甚です。
上田 八重子
昭和61年11月1日
遥かなる彼方
地球の裏ロンドン
昭和61年11月20日 発行
執 筆 中村 重太郎
京都市左京区下鴨西高木町12
編集者 上田 八重子
日立市東金沢町2-21-11
印刷所 HEC印刷株式会社
茨城県日立市大みか町5丁目1-26