不撓(ふとう)の精神ということ
岡部 利良
私は、五歳のとき父を失い、そのためもあって、貧しい生活のなかで育ってきた。学校も小学校から上のところへはやってもらえなかった。子供ごころにも貧乏というものを恨んだ。どうにか東京に出て、昼働き、夜、夜学に通って勉強しながら検定試験をうけ、それから旧制高校、大学へといった。旧制高校、大学を通じて学資の主な一部を支えてくれたのは県からの奨学金であった。
親はなくても子は育つといわれる。親がいつまでも生きていてくれればそれに越したことはないが、親を早く失っても、本人にやる気さえあれば、人並みのことはできるだろうと思う。要はこのやる気である。そのある無しで、人の生き方は大きく分かれてくることにさえなるだろうと思う。
このやる気というのは、積極的な意志・意欲といってもよいものであるが、それをたえず支え、また実際に発揮させるうえにとくに重要なものとして、私はさらに不撓の精神というものをあげうるだろうと思う。この不撓の精神といっているものでいう不撓というのは、岩波の「広辞苑」によると、「・・・・・心がかたく困難に屈せぬこと」というように書かれている。そしてこれはこういうごく簡単な説明であるが、内容的に意味していることは非常に重要なことで、お互いに十分含味すべきこととしてみなければならないだろうと思う。
大体私は、楽観論者といってよいようである。私のいままでのけっこう長い人生のあいだには、生活がおびやかされたり、何かと苦労もいったいろんなことがあったが、私はたいていの場合、悲観したり、くよくよすることなどしないで、将来に希望を託し、そのときどきを少しでも元気な気持で、というように心掛けながらやってきた。そしてこのような私の生き方あるいは生活態度というのも、やはり上に述べた不撓の精神というものに多分に支えられてきたものといってよいだろうと思う。
(昭和53年10月22日発行、育英出版社刊「青少年の座右銘・現代兵庫の百人」31~33頁所収)