岡部イサ・『南風』誌への投句抄(平成3年8月~平成10年11月)
平成三年八月
ゆっくりと団扇を使い人憶ふ
老いてなほゆくあてや天の川
短夜を咳に明かしてしまひけり
平成三年九月
沙羅の花落つすばやさや人の死す
大小の杉の木密に梅雨の闇
どくだみの花一面や庭昏し
平成三年十月
夏深し実生の桐のかく延びて
熱帯夜子の病む夢にさめにけり
おとろへて自負失せにけり夕蛍
平成三年十一月
杉山の空蒼蒼と今朝の秋
竹の春思腑がままにもの言はな
草の花子の気配りのすみやかに
平成三年十二月
名月をよぎりし雲のかがやけり
吾がために小菊買ひけリ誕生日
平成四年一月
撫子やいつも近くに吾子の声
人気なき墓地の大樹の紅葉せり
露けしや雨に信号灯濡るる
平成四年三月(亡き夫を偲びて)
運び出す人に柩に北しぐれ
墓の花をちこち美しき年の明
霜月の主なき書斎真暗がり
雪しまき生きざま顕てり骨納め
冷さまじやきびしく生きて地に埋まる
平成四年四月
つつが身の残されし生の大旦
よせ鍋に亡き夫在らぬまどひかな
亡き夫の孤影ゆらぎぬ冬の月
平成四年五月
遺稿集燃え尽くはさ寒の暮
身ほとりの雑然として冬籠
足馴らす径そこにあり草芽ふく
平成四年六月
走り根の啓蟄の土掴みゐし
節分の豆を八十路の手くぼかな
鼻も香も吹きとぶ風の梅林
平成四年七月
雪柳煽りて風の募り石
残されておぼつかなしや春の闇
茶畑の覆ひらかれ春の雲
平成四年八月
夫在らば書斎にひそと鳥雲に
しみじみとひとりの昼餉花吹雪
叱る子のやさしさおもふ花菜漬
平成四年九月
噴水に風のいたづら濡れにけり
竹の皮脱ぐ寂けさにたか女の墓
荒草のいきほひ得たり男梅雨
平成四年十月
青苔に生まれ志ごとく沙羅落下
われに翳ありやなしやと走馬灯
枝失せし雷禍の大樹夏の雲
平成四年十一月
人間に忘れる知恵の敗戦日
夫の発つ闇を明るく大文字
魂ゆくや送り火しばし消えのこる
平成四年十二月
かにかくに老いは疾きもの十三夜
しづけさに人声ありて良夜かな
看らるる余生となりぬ法師蝉
平成五年一月
友の訃にしんと香のたつ金木犀
柩出づ急坂道の秋日和
しづけさのなほ深まりてちちろの夜
平成五年二月
雑木山風吹きぬけて秋深む
露の夜の行方にまどふ齢かな
間をおきてちちろかすかに鳴きにけり
平成五年三月
こんじきの没日たちまち山眠る
杉の実や世の変り見て老いにけり
時雨くる気配の風や山の寺
平成五年四月
大空の闇に凍てつく三日月
忌の膳のとりどりの彩山眠る
朝の冷え山茶花の白ひしめきて
平成五年五月
古家のあちこちきしむ余寒かな
積雪や煮炊のにほふ家の中
あけ暮に杉見るたつき春を待つ
平成五年六月
つき合ひの減りゆく老の春寒し
福寿草の群の明るく夕日さす
雪解けの地面現はに息づけり
平成五年七月
いのち想ふまなざし深く鳥雲に
疾風に宙翔ぶさくらとなりにけり
風薫る銀色の月緊りをり
平成五年八月
うちふるふ草うつくしき青嵐
囀りのせはしくなりて雨上がる
ゆるやかに車窓みどりの移りゆく
平成五年九月
夕茜かすかに照りて梅雨の憂さ
梅雨晴や山なみにそひ雲光る
平成五年十月
夏衣わが身にそはぬつかれかな
梅雨寒や遺句集開きゐたりけり
蝸牛動くともなく位置変へる
平成五年十一月
果てるまで寡黙の夫の盆供養
濡土にころがる蝉のむくろかな
仏壇の中を明るく盆供養
平成五年十二月
鈴懸の大樹秋暑の日を鎮む
肢体ままならぬ日々なり鉦叩
青空に声あげてゐる紫苑かな
平成六年一月
残されし時のはやさの望の月
実のあとの柚子の木高く寂しかり
散策に口の渇きて秋桜
平成六年二月
行き止る径に落葉の音たつる
白粥の食べたきあした秋深む
立冬や家を囲める杉木立
平成六年三月
放埓に生ふ杉林冷え深む
ばら色の夕日のしばし冬至くる
シクラメン冬ざれの部屋灯すやに
平成六年四月
明け初めて熱き白味噌雑煮かな
吉兆笹かかげ帰りし父ありき
亡き夫との組椀のこる雑煮かな
平成六年五月
煮ふくめる高野どうふや春の雪
身を縮めゐる間に去りし二月かな
一人居の窓外の雪降り止まず
平成六年六月
春愁の今日一日の過ぎにけり
黒々と土あらはれて芽立ちをり
夫在りて競ひ聴きゐし初音かな
平成六年七月
名園の石のしっとり暮春かな
沢水のくだけて光る春の昼
ドライブに花爛漫の堤かな
平成六年八月
かたちよき指もつ嬰やつばくらめ
雨晴れし朝の日射の若葉山
干されたるシャツのにほへる薄暑かな
平成六年九月
闘病の果てに逝きしや梅雨の冷
明るさや雨粒のこる額紫陽花
新築の甍に映ゆる大西日
平成六年十月
聞きづらき言葉に耐ゆる団扇かな
訃報抱き眠れぬ夜の明易し
鯵おろす手元すばやくはづむかな
平成六年十一月
大輪のひまはりの黄の日に遊ぶ
平成六年十二月
人々の雑多なくらし軒すだれ
ミニチュアのガラス細工や夜の秋
平成七年四月
明るさや冬木の上を雲流る
淡雪の消えてあけゆく大旦
杉林の中に住み古り去年今年
平成七年五月
木を敲く小鳥見上ぐる冬帽子
被災地より封書届きぬ葱の花
墓道の高きより降る紅椿
つつぬけの空より朝日シクラメン
平成七年六月
老梅のちぢれまばらに春寒し
つくづくと古き免状鳥雲に
窓にせまる大木伐りて春日差
平成七年七月
遠眺む花の堤や小雨降る
すみれ色の暮春の空や二日月
平成七年八月
雪やなぎ揺れてさは立つ眞昼かな
葉桜や織工房をわたる風
義太夫節娯しみし父黙阿弥忌
平成七年九月
六月や笑顔の父の忌日来る
万緑へ開け放ちたる大廊下
久々の身内の会や杜若
平成七年十月
外出も臥せもせぬ日日水中花
長らへてうす汚れゆく晩夏かな
舗装路に水流れ出すあばれ梅雨
平成七年十一月
ぬか漬や吾子の手料理たのみ生く
晩夏光つんぼ桟敷に置かれゐて
雨あとの草木の息吹夜の秋
平成七年十二月
木をゆらす風こころ良し今朝の秋
紙を切る一途なる子や蝉しぐれ
煮ころがし酒しほ利ける秋思かな
平成八年一月
秋空や雲のはざまに夫の顔
コスモスのゆれつづきゐる一日かな
栗をむく手力こめて孤独なる
平成八年二月
久々の雨の洗ひし紅葉かな
吾子と居て話すことなき夜長かな
流れゆく雲に想ひを日向ぼこ
平成八年三月
すみやかにことば紡げぬ枯木道
大根焚せかせか山に日の入りぬ
看病のなやみ聞きゐる冬ざくら
平成八年四月
雪しまく中に日輪見えかくれ
積る雪美しと見ゐしに吾子ころぶ
草も木も雪の重さにひれふしぬ
平成八年五月
追憶はよきことばかり暖炉燃ゆ
長らへしこと夢に似て芽吹山
齢重ね生きざま想ふ涅槃西風
平成八年六月
籠る身の独りに馴れて春の昼
啓蟄や雪の下にて動くもの
手ひねりの茶碗の重く春の雪
平成八年七月
竹落葉墓のまはりを埋めたり
精進揚げ衣のうすき花の冷
薮つばき土の温みにころがりぬ
平成八年八月
切株に腰すゑてをり春の風
家の廻りどっと花咲く五月かな
下校の子言葉はきはき花菜風
平成八年九月
籠る身の消炭に似て梅雨の冷
泣きわめく子に母つよし葱坊主
倒木の荒地あをあを梅雨入かな
平成八年十月
さゑづりや明るくなりし空の色
初生を珠玉のやうに茄子きゅうり
ハンカチは白ときめゐる齢かな
平成八年十一月
ひぐらしの声消え去りて訃報かな
幾人の面影よぎる盆の入り
杉林伐りたるあとの茂りかな
平成八年十二月
折りをりは笛吹くように小鳥啼く
賀茂なすの味噌香ばしき斎の膳
遺されしひとのくり言秋ざくら
平成九年一月
やうやくに屋根師に及ぶ秋日かな
としよりの心に聡し秋の風
秋麗の日を呼び込めるガラス窓
平成九年二月
明るさや忌明け帰りの十三夜
柚子の実の黄色くっきり遠眺め
雨あがり枯かまきりの色変る
平成九年三月
糠雨に洗はれ紅葉艶めきぬ
冬木立生気ひそめて風にたつ
音もなく一夜に積る雪の朝
平成九年四月
椎茸の春を呼ぶごと榾に生ふ
山茶花の花のさかりに散るを見る
霜解や陽ざしにひかるガラス細工
平成九年五月
春の雪さはがしく降り土に消ゆ
梅だより母の忌日のおぼつかなし
草も木もほとほと芽立ちはじめたる
平成九年六月
晩年の不覚子に倚るおぼろかな
切り株の裂目大きく日脚伸ぶ
榾たせばすぐ焔舞ふ春炉かな
平成九年七月
籠る身の独り天下の桜かな
のどごしの嵯峨の豆腐や花の冷
裏山の風ごうごうと桜かな
平成九年八月
美しき鮨の出前や桃の花
水底にザリガニさがす夏はじめ
三色すみれ咲きて静かな雨となる
平成九年九月
鞍馬路の杉の苗木の直くと伸ぶ
喫茶店のコーヒー熱し走り梅雨
梅雨入りして一本杉の伐られたり
平成九年十月
青芒つがひの鳩の水をあぶ
初蝉をふと聴きとめし雨のあと
重たさのふりこめられし花あぢさゐ
平成九年十一月
亡き夫の齢に近づく大暑かな
盆ちゃうちんともして部屋の暗さかな
夕闇やかなかなの声遠のきて
平成九年十二月
余生ながし昼餉のあとの葛桜
新涼や瓶にあふるる庭の花
足萎えの椅子にしばしを虫の秋
平成十年一月
子の声のしじまに消ゆる秋の暮
ギヤマンに若き日の彩秋日さす
名月を子にささへられ仰ぎみる
平成十年二月
暮れ迅し雲の片側かがやきて
風邪の僧読経短かくをさめらる
日おもてに空を透かせて冬もみぢ
平成十年三月
もう会へぬ人かも知れぬ返り花
没ちてゆく冬日のふつと空燃やす
鳥の声よく透るなり冬もみぢ
平成十年四月
玻璃ごしに鳥の翔びかふ冬ごもり
屈託を見せぬ賀状のここちよき
次々と雲の流るる大枯木
平成十年五月
青空の裸木の秀の力かな
晴天のをちこち芽吹く雑木山
春の雪牡蠣のシチューのふっくらと
平成十年六月
母の忌の梅の白きを賞でゐたり
やはらかく舌になじみぬ雛の菓子
さっぱりと切ってうなじに春の風
平成十年七月
谷川の水ほとばしる芽吹きかな
うぐひすや四方より山の晴れて来て
わらび山雲ゆっくりと動くなり
平成十年八月
コーヒーに舌焼く窓辺夏の雨
思ひ出は通り過ぐもの櫻餅
ブルースカイ雲ひとすぢや百千鳥
平成十年九月
夕づつや御輿の後の町寂し
蛙鳴くだんだん眠くなって来し
大根のしっとり煮えて梅雨深し
平成十年十月
花石榴空家となりて枝のばす
渓水や夏鶯の声ながく
椅子により仰ぐ空晴れ半夏生
平成十年十一月
揚げものの天つゆうまし日雷
かなかなの声すぐ消ゆる明けの空
亡き父母を深く偲びぬ濃い朝顔
注記;この投句はすべて句集「冬もみぢ」に収録してあります。