<故岡部利良への追悼文><昭和の会計学者群像>
建設的提言に徹した学究・岡部利良先生
野村秀和 京都大学名誉教授
岡部利艮(1905~1991)先生は,北海道函館市で出生。5歳のとき父上のご他界により、郷里・山陰但馬の浜坂町諸寄に戻り,小学生時代を過ごした。
勉学への思いを断ち切れない先生は,1920年勤労学生として上京された。この経緯は,岡部先生が京都大学を停年退官される際に刊行された「経済論叢」(岡部利良教授記念号)に,当時の学部長堀江英一の「献辞」の中で次のように述べられている。
「岡部教授は苦学力行の人であります。私立早稲田工手学校夜間部・私立開成中学絞夜間部をへて高等学校入学資格の検定試験に合格して、旧制第四高等芋絞 に入学するという当時としては異例のコースを通って,本学経済学部に入学されました」
先生の苦学力行はこれで終わるわけではなかった。京都大学の学生時代(1930),治安維持法違反の嫌疑で一カ月半の留置場を体験する。ご自分の学生時代のことについてはあまり多くをお話にならなかった先生から,京大退官後に少しはその当時のお話を聞く機会があった。それによれば「自分は当時の学生運動の中心の外側に居たので,特高が尋ねることに何も答えられなかった。それが逆に,大物という印象を与えたのか,留置場をタライ回しにされたらしい」ということであつた。
大学は,これを理由に休学届の提出を強要し,応じなければ停学処分だという。無実を訴え続けてきた先生も,やむをえず休学届を出すことになった。戦後,先生が京大の教官として学生処分の際に学生の主張に十分すぎるほど耳を傾けられることになるのは,このようなご自分の体験があったのである。
京大卒業後、東洋経済新報社に入社(1932~1937)。ここで担当した綿糸紡績業の経営分析が,初期の研究業績に大きく寄与する。当時の歴史の暗い谷間の中で石橋湛山によって創出されていた自由な研究・調査活動の雰囲気は,先生のその後の研究姿勢に大きな影響を与えたのであった。
学生時代の指導教授蜷川虎三から,大学に戻ってこないかと声をかけられ,京都帝国大学大学院に入学,会計学を専攻することになる(1937)。太平洋戦争の末期1944年に建国大学助教竣,翌年に現地招集、そして敗戦,そのままシベリア抑留生活が2年続いた。
復員して京都大学経済学部の講師に任官したのは,すでに42歳の1947年であった。歴史の荒波に翻弄されながら,懸命に学問を志した岡部が,漸く42歳にして学問研究の場に身を置くことができたのである。しかし,それは教養部教授の席で,経済学部会計学講座担当教授に就任するのは,55歳に達した1960年まで待たなければならなかった。
先生の研究活動は,このように波乱に満ちた人生の後半から始まったのである。もっとも,東洋経済新報社時代の著書「在支紡績業の発展とその基礎」(1937)の他、 中国紡績労働に関するものが数点あるが,戦後は「勤労者のための会計学」(青木講座{新しい会計}第1巻)と東洋経済からの「現代経営会計講座」第3巻(ともに1956)の2点である。前者は啓蒙書であり,後者は戦後民主主義の息吹のなかで結集した経営・会計研究者の戦後総括とでもいうべき内容である。
その後、著作としては,遺作となった「現代会計学批判」森山書店(1991)まで無い。これには,先生なりの理由がある。それは,研究者にとって著作というものは完成された研究成果というお考えがあったからである。このことを聞いて我々弟子たちは「それでは,一生、本は書けないな」と呟いたものである。
先生の著書の少なさに対し,研究に復帰されてからの研究論文の多さは驚くばかりである。京大経済学部長時代(1963)の年間5論文の発表を例外として,毎年2桁の論文を書き続けてこられたのである。
その特徴的な内容は,損益計算論についていえば,「利潤の費用化部分二分説」である。すなわち,剰余価値の配分ではあっても,個別経済としての企業にとって費用と認めるべき項目と利益処分項目とすべき項目を論理的に区分されたことであろう。ここには費用概念の学問的吟味を基底にした建設的提言に繋がる岡部会計学の心髄がみえている。こうした研究は,動態論批判へ発展し、財産計算否定論批判,原価主義の非理論性などへと凝集していく。当時の大学院ゼミで,シュマーレンバッハのヒゲ文字原典をドイツ語辞典を座右に苦闘したことを懐かしく思い出すのである。
次に資本会計論では,株式プレミアムと創業利得,資本と利益の区別の基準,いわゆる「その他の資本剰余金」批判などが中心となる。これらの多くは論争的論文で、雑誌「会計」に10回の連載となった「資本と利益の区別の基準――あわせて西山助教授の異論・批判について――」は,その典型でもある。これらの研究のために,会計から離れて,ヒルファーデイングの「Das Finanz Kapital」をゼミで読んだこともあった。
当時の岡部研究室には,故岡本愛次先生,故宮上一男先生・内川菊義先生なども月例研究会にときどき顔を出されていた。その先生方に対しても活字ではきわめて厳しい学問的論争を挑まれるのであった。宮上先生は私に「反論してもいいのだが、あとの長い長い論争を考えるとつい遠慮することになるのだね」とおっしゃられたのが印象に残っている。言葉を交わす中ではあれほど柔和な先生が,書き物になるとどうしてこれほど厳しくなれるのかと、おどおどした思いを抱いたこともあった。
京大を退官された後,龍谷大学で教育と研究が続くのであるが,この頃から会計機能論に関わる研究が多くなる。 先生は,会計学の研究対象は会計方法と会計実践であるとされてきた。龍大時代に入ると会計実践の研究として、利潤獲得、資本集中,収奪,資本蓄積の四大機能についての実証的で論理的な研究が多くなる。この研究の基礎には、あるべき会計という建設的提言に繋がる研究姿勢が貫かれていた。したがって,存在する会計を研究対象とされる宮上先生とは,研究方法上の対立が大きくなっていく。
先生の教えを受けたものが「経済論叢」(退官記念号)に執筆しているのであるが,それは酒井文雄、河合信雄,高寺貞男、津守常弘,故菅原秀人(内地留学),西村明・中居文治そして野村秀和である。なお,西田博が著作目録作成者として名前を残している。
晩年,孫弟子にあたる醍醐聡,松本敏史,小野武美の三人がインタビューしたテープ稿に,先生自身が病床の中で手を入れることによって完成したのが「現代会計学批判」(既述)である。これは,岡部会計学の主要な内容とその特徴をまとめたものといえる。先生自身が病の身を顧みず,自らの研究生活をふりかえりながら,ご自分の思いを語られ,そしてそれに手を加えられているのである。なお,先生がご他界になられたのは,この書物の刊行半年後のことであった。
(1998年10月発行、「企業会計」 Vol 50、No.10 98~99頁 所収)