<故岡部利良への追悼文>
岡部先生を偲びて
中居 文治
1991年11月27日,岡部先生が亡くなられたとの電話をうけたとき,客観的には天寿をまっとうされたにしても,私にとっては寝耳に水で,こんなに早くという気持と同時に先生があの御著書を出版されていない,御無念であろうという思いと,未完のまま亡くなられて先生らしいという感慨が複雑に私の脳裡をかけめぐった。先生に最後にお会いできたのは,なくなられる3ケ月前の夏であったが,先生の御依頼で京大経済学部や附属図書館に所蔵されている図書を借りだして,御自宅へ持参した折である。その一年ほど前から,先生は,「支那の紡績労働」(1969年の先生の経済論叢御退官記念号の著作目録によれば,「昭和18年脱稿,200字詰原稿用紙約2800枚,本稿は終戦前一たん印刷所までもち込まれたが,終戦により印刷中止となり,以後筐底におかれているものである。」)の御出版に意欲を燃やされたが,再度推敲され,注などをなお原典にあたって確認しようとされていた。先生の(展開する論理の首尾一貫性と整合性を徹底して追求する)完全主義者たる面目躍如たるところで,それ以前にも,数回,図書を借りだしてお持ちしたが,その中には,先生が50年前にひもとかれて以釆,その後一度も京大の図書館から借りだされたことがないと思われるものもあった。
私の大学院在学当時は,私にとって偉大な先輩である高寺貞男,津守常弘,野村秀和の諸氏が,先生の同僚ないし大学院生として先生の近くにおられたので,先生の御研究のお手伝いは諸氏のところどまりで,ひよこの私のところまでおりてこなかった。そういうわけで,学恩をうけっぱなしの私にとっては,先生の最晩年に少しでも先生の御依頼にこたえることができたのは,またそのおかげで先生とお話する機会をより多くもつことができた――最後までいつもお話の大半は会計学についてであった ――のは,ありがたいことだったと思っている。なお,先生のこの御著書は,御子息,陽二氏(住友銀行専務)と私と大学院同期の中国の会計・経済にもくわしい西村明氏(九大教授)の御尽力で,九州大学出版会より「旧中国の紡績労働研究」として,先生の一周忌に出版された。
先生の御自分が納得いくまで徹底される頑固さのもう一面は,先生の「会計学概論(原理)」のテキストがついに市販の書物としては出版されなかったことにもあらわれている。私が学部学生のときには,もうすでに版を重ねていたが,依然として,生協からのガリ版のプリント(約300頁)で,その後も御退官になるまで,先生は毎年少しずつ書きあらためられておられた。その一部は,税経セミナーに二年にわたって連載され,また,インタビューで「岡部会計学」を語られた「現代会計学批判」にも示されているが,本体そのものが出版されなかったのは残念なことである。先生のこのテキストは,多くの注目を集め,ガリ版刷りのままで,論文に引用されたり(先生の論文にではない)もしており,「私家本」としてにせよ,京大の図書館に蔵書されるべきではないかと思われる。こうして,先生の御著書が普通の形では出版されなかったのは,われわれにとって残念であるけれども,先生らしさを最も端的に示しているともいえる。
先生はいつも「原稿は締切があるから書けるのだ」といっておられたが,240編以上の論文(そのうち,「会計」に20回以上にわたって連載された「会計学上の資本と利益の区別」に関するものは,先生の名を高くした株式プレミアム論争をも含めて,優に大著を構成するほどである)を書かれたのも,雑誌原稿で締切があるからのことで,御自分で締切の設定が可能であった上記2点の書物は,締切そのものが存在しえなかったといえるであろう。(なお「勤労者のための会計学」は,講座の一部(前半)を「共著」の形で書かれたもので,締切のある点では雑誌原稿と同じであったと思われる)。
私にとってもう一つの先生の思い出は,先生の門下生が集った「岡部研究会」(のち,京都会計学研究会へと発展解消)の学問上の論争では、何をしゃべっても許されるという寡囲気である。受け売りの見解ではなく,自分で納得のいく自分自身の理論を身につけよ、と言わず語らずのうちに教えられるのが先生のやり方であって,御自分の意見を決して押しつけるようなことはされないから,先生の所説への批判もおかまいなしで,「先生,そんなんちがいまっせ」というわが先輩の声もしばしば,でも先生はだまって目を閉じて一部始終聞いておられ,やおら反論される。そこには,師弟というより研究者相互の自由な論争がみられた。そんなことあたりまえではないかとの声もあろうが,他大学へ就職した先輩のなかには,「岡部研究会」と同じつもりで発言して,長幼の序をわきまえていないと非難されたとの話もあるやに聞く。
「岡部研究会」では,先生の御発言が最もフランクで,自明であるとされていてみなそんな質問をすると、そんなことも知らんのかと、気はずかしく感じるような質問をさりげなくされ,それが本当は自明ではないので,聞かれた当人は返答に四苦八苦することもしばしばであった。
自他ともに対して学問上はきびしい先生であったが,また人間的には暖かい先生であった。
御冥福を祈ります。
(1992年9月発行、京都大学経済学会・経済論叢 第150巻第2/3号111~113頁所収)