岡部 利良
シベリアから帰還し、再びいわば私の古巣の経済学部に学生諸君の演習を担当するようになってから今年で十一年目になる。戦後の変動の多い時期でもあったせいか、この十年余りの歳月、またたく間にずぎ去ったようにも思えるし、また結構長い時間であったような気もしないではない。
この間演習の卒業生もだんだんふえ、今日では名簿にご覧のようなふうであるが、皆さんそれぞれ職場で元気にやっておられることはなんといってもよろこばしいことである。ただ名簿をくってみると、その後消息を知る機会のない諸君も元気でやっておられることとは思いながらどんなご様子かとも思っているような次第である。
演習を始めたころは、まだ戦後の混乱のなかでみんな物の不足などに悩んでいたころであり、私たちの演習でも、せっかく演習生の諸君が卒業の日を迎えながら、お互いに別れを惜しむコンパなども思うようにできなかったようにおぽえている。それから、三、四年たった後でも冬の演習室など暖房の設備はあっても戦時中からの冷え切ったままのもので思わずオーバーのえり立てながらも、みんな元気で論じあっていたことがつい昨日のことのようになつかしく思い出されもする。しかし、(文教予算貧困のせいで)この暖房なども世間とは大分ずれているようではあるが、四、五年前からは、おかげで冬でも演習は暖かい部屋でできるようになった。
最近ではあちこちの演習で小旅行などもやられるようになったが、私も一昨年、昨年と演習の諸君といっしょに出かけてきた。一昨年は北陸(永平寺、山中温泉、金沢)から高山線(飛騨の高山、日本ライン)廻りのコース、昨年は山陰(出雲大社、日の御崎、松江、皆生温泉)から中国(萩山温泉)を経て山陽線(姫路)というコース。学生諸君にとってもいい想い出となるであろうが、ふだん出不精の私もこんな機会ででもなければと思い、せいぜい元気を出して仲間入りをしているようなわけである。
卒業生諸君のお便りのなかにときどきこんど経済学部にできた経営学科のことがふれられているので、この機会に皆きんに多少おしらせしておきたいと思う。この経営学科(経営学部ではない)の新設は経済学部数年来の懸案がようやく日の目みるに至ったものであるが、これで経済学部は経済学科と経営学科の二つの科にわかれることとになった。ただし経営学科の学生が実際にでるのはこんどの四月からである。両学科への学生の分属は、学生諸君の希望により(さしあたりの規定では)二回生から三回生になるときに行うことになっている。
しかし、経営学科ができたといっても、学生諸君の学習上には、べつにそれほど大きな変化はない。学部規定のうえからみた両学科の学生諸君の学習上の相違といえば、必修科目がそれぞれ若干異なっている程度といってよいだろう。じつは経済学部でも(ただし専門科目の場合)三二年度入学の学生から一部必修科目制がとられてきたが、この度から両学科の必修科目は次のように定められた。
経済学科―――経済原論第一部、経済原論第二部、経済史総論、経済政策総論、経営学総論、外国経済書購読
経営学科―――経営学総論、会計学総論、商業学総論、経営史総論、経済原論第一部、外国経済書購読
あとはすべて選択科目で、両学科の学生いずれも同様になにをとってもよい。演習などもいままでと同じで、経営学科の学生でもどの先生のに参加しようと自由である。卒業生の学士号も従来どうりすべて経済学士である。
経済学部では今後さらにこの両学科の拡充を行うことがさしあたり与えられているもっとも大きな課題であるといってよい。ことに経営学科については、なかなかむつかしい問題ではあるが、新しい特色のあるものにしたいと先生方もいろいろと考えまた念願しているところである。皆さんからもせいぜい御声援願いたいと思う。
職場には、煩わしいこと、面白くもないこと、あるいは不愉快なことなどいろんなことが、何かとあることだろうが、あまりプラスにならないような神経の浪費はなどせいぜい節約してそれよりかせめてたのしい夢でも描いてみていた方がよさそうであるが、さてどんなものであろう。
しかし何はともあれ、皆さん今年もいっそう元気でやって下さるよう心からお祈りしています(三五年一月)。
(1959年3月刊行「岡部ゼミナール・卒業生在籍生名簿」p1~2所収)