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<随想>私のある断章 ・ 岡部利良

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岡部 利良

 私の郷里(本籍地)は兵庫県の日本海側の半農半漁の一寒村であるが、私が生まれたのは北海道の函館市である。元来、私のこの郷里の村は、どちらかといえば貧しい方で、発展性なども乏しいところであった。こうしたことから、私が生まれる明治三〇年代のころ、村から何家族か北海道に移住して行った。こういった人たちは、当時のいわば一種の開拓移民にあたるものといっていいと思うが、じつは私の両親たちもその一組であった。私が北海道生まれであるのはこうしたことからである。

 私が五歳のとき、父が亡くなったので、母は当時の私たち四人の子供をかかえて、そのころなお祖父母のいた前記の私の郷里に帰ってきたが、父の死によって、以来私たち一家は貧しい生活をつづけなければならなくなった。こんな状態で、小学校を終えたのちの私の進学の希望なども、私には全くかなわぬ夢であった。

 私は、もう少しでも勉学をつづけたいと思い、つてを求め、東京に出て、書生をしながら、早稲田工手学校という工業学校の夜間部の建築科に入った。こういった学科の性質上、そのころは製図の宿題に追われていたことなどがいまも思い出される。

 しかし、そのうち私は、学校の事情などがだんだんわかってくるにつれ、なんとかしてもっと上の学校に行けないものかと思うようになり、しきりにそんなことを考えていたが、しかしそれには、当時は夜間の学校では、所定の課程を終えても、上の学校へ進む資格はえられなかったので、まず検定試験をうけて中学卒業の資格をうる必要があった。またそれには、前記の工手学校にそのままいたのでは思うようにうまくいかないので、ここは思い切って二年だけでやめ、開成中学という中学の夜間部の三年の編入試験をうけてここに転校した。

 この転校の少し前ごろから、思うところがあって、書生として勤める主家の方も変えていた。こんどの主家は、明治維新の日米貿易史上でも知られている某華族であった。こうしたことから、当時また私は、華族という上流社会の生活をじかに見聞する機会をもつこととなったが、こういったことも手伝ってか、今日のこの社会とか、そのどこか底辺といったところにおかれている自分というようなものを、漠然とながらも、いつしか考えさせられるようになっていたようである。

 開成中学の夜間部には三年、四年の二年間通ったが、この間に私の進学の希望はさらに変わり、こんどは、できることなら高等学校、大学という道を進みたいと思うようになっていた。しかしそれには、やはりまず検定試験をうけて、高等学校へいくための入学資格をえなければならなかった。この試験は当時の中学四年までの体操などまでふくむ全科目にわたるもので、一科目駄目でも不合格とされたばかりでなく、受かった科目の合格資格の保留も一切認めてくれないというずい分苛酷なものであった。しかし私は、幸い、大正一三年にこの試験をうけて合格の幸運に恵まれ、そしてこれで私の希望の第一関門はどうにかようやく通過できることになった。

 こういった私の進学の条件は、このようにどうにかととのったというものの、高等学校-大学という、当時私の抱いていた希望は、いわば私の夢に等しい希望というだけのことであって、肝心の学資という経済的な点については、当時これといったあてなどはまだ何もなかった。ただ、なんとかやっていけるだろう。いや、自分で稼ぎながらでも、とにかくやっていきたいという私の希望・願望・決意といったようなものが、もっぱらいわば支柱となっているにすぎなかった。しかし、幸いにも、天われに味方す、とでもいうのであろうか、私が高等学校の入学試験を受けようとするころには、親戚からの若干の援助や、さらに出身県からの奨学資金の支給などにより、当面とにかく、最低限度ではあるが学資の保証がえられるという、私にとっては望外というべきまことに幸せな見とおしがついた。

*   *   *

 高等学校には、大正一五年(昭和元年)四月、金沢の第四高等学校文科乙類に入った。このように文科を選んだのは、さきにふれたような一時私が抱いていた進学希望の方向は高等学校に入るしばらく以前からすでに変わっていて、私としては杜会科学の方面の勉強をしたいと思うようになっていたためである。ことに、高等学校に入る前後からは、ある友人の影響もあって、経済学をやろうというふうに、ほぼきめていた。大学は京大に学んだが、いまいうようなことから、昭和四年、高等学校を終えて大学に進むときには、ちゅうちょなく経済学部を選んだ。

 私が高等学校に入った昭和初年は、わが国の社会における一つの大きな激動期であった。大正一四年の暮れから昭和元年にかけては、京大社会科学研究会の会員を中心とする全国三八名の学生が検挙され、治安維持法違反に問われるという当時社会の耳目を聾動せしめた一大事件があった。こうした情勢にもかかわらず、当時全国の高等学校ではだいたい同じような状況にあったといえるだろうと思うが、私たちの四高にも、いわゆる非合法の社会科学研究会があった。

 私は、当時、どういういきさっからであったか、いまあまりよく記憶には残っていないが、四高に入学した一年のときから、この四高の社会科学研究会に参加し、研究会活動をやってきた。研究会の場所としては、学内はもちろん使えないので、いつも会員の下宿を利用するというようにしていた。そしてこうした当時の関係から、私はそのころ、マルクス主義関係の文献をむさぼるようにして読んでいた。また当時でも学校の図書館には河上博士の「資本主義経済学の史的発展」という部厚い書物があったが、これなど、そのころ図書館で読んだ思い出の書物の一つである。在学中には、四高はじまって以来はじめてという、一週間前後にもわたった同盟休校も経験したが、この同盟休校のさいには、われわれの研究会のメンバーが、まさに中核となって活動した。しかも、このときの非はあきらかに学校側にあることを、学校側自身としても認めざるをえなかったためと思われるが、犠牲者一人も出すことなくしてすんだ。そしてこのようなことは、当時としてはおそらく珍しいことであったといってよいのではないかと思う。

 しかし、このようなわれわれの研究会は、やはり学校側のたえざる監視やさらに弾圧をこうむることなくしてすまなかった。真偽のほどはもちろん知るよしもなかったが、警察にも研究会のおもだった者のリストが作られているなどとも伝えられていた。ことに、こうしたなかで、昭和四年三月、卒業をすぐ目の前に控えて、われわれの研究会の中心的なメンバーであった親しい友人の二人が放校処分に付せられるという事態に見舞われたことは、いまでも忘れがたいまさに悲痛な思い出として、私の心に強く残っているところである。しかしそれにしても、この二人の友人は、何が真理であるかを探求しようとし、そして少しでも社会の進歩に役だとうと青春をささげてきたのであった。そしてこれにたいして報いられたのがこうした事態であったのである。しかし、ともあれ、このような事態に直面し、多感な学生であり青年である当時の私の心が痛まなかったとしたら、このほうが、よほどどうかしているということにもなるであろう。

*   *   *

 心中、こうした思いを残しながらも、私はとにかく高等学校を終えて昭和四年四月京大にきたが、そのころには、すぐ前にのべたようないきさつで一時跡を絶たれようとしていた京大の社会科学研究会もその後新たに全国の高等学校から集ってきた諸君によって一応ほぼ再建されていた。私は京大に入ると、すぐこの研究会に参加した。当時はこの京大の研究会もすでにいわゆる非合法化されていて、学内で研究会をもつことなどもちろん許されなかったので、研究会はやはり会員各自の下宿を利用しながらやっていた。

 当時、会員のなかには実践運動に入っていく者も相当いたが、私は思うところがあって、研究の領域にとどまることを自己の姿勢とし、また現にこのようにしてきた。まず、とにかく「資本論」を読破してみたいというようなことが当時の私の希望であった。それに私は、そのころ高等学校当時よりいっそう窮屈になっていた学資を補うために、いまでいえばアルバイトをあれこれと求めてはしなければならなかった。金が欲しいために、全く盲蛇におじずのたとえのごとく、小さなドイツ語の簿記の書物であったが、しいて頼まれるままに、これの翻訳を当時私は、簿記というようなものについてもちろん何一つ知らなかったので、大急ぎで勉強しながら引受けてやったようなこともある。このドイツ語の簿記の書物の翻訳は、私が後年会計学の研究にたずさわるようになったことを思うと、何か妙な奇縁のようにも思わざるをえない。しかしとにかくこうした事情もあって、当時の私には、実践運動にさく時問的な余裕などもほとんどなかった。ただ、しいていえば、当時左翼の調査機関としてあった産業労働調査所京都支所の調査の仕事などを手伝ってきたというようなことはあった。

 しかし、それはそうとして、当時のことであるから、われわれの研究会には、やはり警察がたえず目を光らしていた。彼らの手もとには、われわれ会員のリストが用意されているなどということも、やはり当時噂されていた。

*   *   *

 京大に入学後間もない六月ごろのことである。私には思いがけない、いわば最初のある「受難」の日がやってきた。某日、川端警察署の私服刑事が突然下宿にやってきて、少し聞きたいことがあるのでちょっと来てくれといって私を警察につれて行き、そのまま有無をいわさず留置場に放りこんだ。私にとっては、これが留置場というものの最初の経験であった。しかし警察では、こうして私を引っぱっておきながら、何一つ聞きも調べもしないで、二、三日後にはまた猫の子を放り出すようにして放り出した。まったく、文字どおり無茶苦茶なやり方である。しかしそれにしても、当時警察は、たとえ二、三日にせよ、なぜ私をこのように留置場にまで放りこんだのか。私には思いあたることなど全然なく、さっぱりわからなかった。そしてあとには、ただやりようのない憤りだけが残った。しかし、こういうことは、当時としてはじつは日常茶飯事とされていたことである。人権も何もあったものではなく、ただ警察のなすがままにまかされていたのである。

 このときはとにかくこういうことですんだが、一回生の終りごろの、昭和五年の春には、私にとってはその後の生活にも重大なかかわりをもつに至ったまさに一つの「事件」が起った。当時、この年にも、一月ごろから、共産党関係の検挙があちこちで行なわれていることが伝えられていた。京大社会科学研究会の会員のなかからも、すでに幾人もの者が検挙され、しかも当時検挙はなおつづけられていた。こうした情勢にあった三月のある日のことである。私は高等学校当時からの友人A君から、やはり高等学校当時からの共通の友人B君が肺炎にかかって下宿で寝ているから見舞に行ってやれといわれ、早速出掛けて行った。ところが、当時このB君は共産党の地下運動をやっており、しかも私がたずねて行ったのは、全く折あしく、ちょうど彼が検挙された直後のことであった。それで警察では、B君の仲間の誰かが彼に何か連絡にでも来ることをそれとなく予期しながら、B君の下宿に張っていたわけである。そしてそこへ行ったのが、こういうこととはつゆ知らない私である。つまり、このときは、私は彼らが張っていたワナに文字どおりまんまとひっかかったわけである。そのさい、私がB君の下宿の入口を開けたすぐそこの土間には、私服の刑事が三人ばかりたむろしていた。そして私が気づいたときには、全く一瞬のことであったが、すでに私の両腕にはガッチリと手錠がはめられていた。そしてそのままサイドカーに乗せられ、時刻はちょうど夕方であったが、寒い風に吹きさらされながら、川端警察署につれて行かれた。

 それからである。居合わせた数人の刑事たちによって私にたいする追及がはじまった。私がB君をたずねて行ったのは、単に彼の見舞のためであるにすぎなかったのであるが、やつらは、こうした私のいい分にはこれからさきも耳をかそうとはしなかった。やつらには、私もB君のいわば一党と映じたようである。そこでやつらは、私になんとかして、何か吐かせようとしたわけである。しかし私には、吐くもの、語るものは何もないので、やつらがどんなに追及しても、何もいえるはずがない。しかし、私がこうして口を緘していればいるほど、やつらには私がいっそう不敵にみえたようである。あるいは、どうしてもしゃべってはいけない何か重要なことを、頑強に秘めているようにもみえたのかも知れない。追及の手はいっそうはげしく加えられてきた。いわゆるごう問というやつである。

 そのとき私がうけたごう問は、当時左翼の運動家がやられていたものからみると、いわば序の口といっていいようなものだと思うが、それでも私にとっては、生まれてまったくはじめてのことである。上衣やシャツは難なくはぎとられた。そしてそのとき私がやられた一つは、直立させて両腕に碁盤をもたせこの碁盤の重みに堪えかねて腕を少しでも下げると、その度に、すでに裸のままにしておいた私のからだを、背後からあの剣道用のシナイで、思い切り容しゃなくビシビシとたたきつけるというようなものであった。私はこのように前後三、四時間ばかりもさいなまれたあと、ようやくやつらの手から離れて留置場に放りこまれたが、からだの痛みに堪えかね、しばらくの間は思うように寝がえりもできなかった。

 警察では、その後また取調べをうけたり、手記というものを書かされたりした。そして約ニカ月ばかりののち、裁判所から起訴猶予をいい渡され、ようやく警察の手から逃れた。釈放されるとき、私としては全く予期していなかったことであるが、警察では私の母を郷里から呼びよせていて、私を母に引渡し、同時に私には、京都を去って郷里に帰るように命じた。このとき、警察につかまったのはまだ寒いころであったのに、出されてきたときは、すでに桜の花もとっくに散っていて、五月の太陽がさんさんとふりそそぐ季節になっていた。私はこの太陽のもとで、ようやく解き放たれた解放感とともに、このシャバというものの空気を、いまさらのようにシミジミとなつかしみながら、味わった。

 しかし、こうした私の感慨は感慨として、この「事件」で私の警察権力・国家権力にたいする怒りは文字どおりまさに炎のように燃えた。私にたいするやつら下手人どもの仕打ちは、私にはわれ人ともに許すことのできない極悪非道のものとしてしか思いようがなかった。憤りと憎悪が、無限といっていいほど激しく私を支配した。この「事件」がその後の私のものの考え方に重大といっていいほどの作用を与えたとしても、これまたけっして不思議ではないだろう。事実、私は、いままでよりいっそうこの今日の社会のあり方というものについて考えさせられるようになった。ことに警察権力にたいして、私にはいわば生理的にはげしい憎悪感が今でも消えがたく強く残っているようにさえ思われる。

*   *   *

 当時のことは、以上にのべたようなことで終わったのではなかった。やがて大学から呼出しの手紙がきたので一出掛けて行ったところ、私には何一つ発言の機会を与えることもなく、いきなり、期限を付して四カ月間の休学届を出せ、もし出さなければ、やはり四カ月間の停学に処する、ということであった。こうした大学の処分はもちろん、以上にのべた、私が警察に検挙されたことに直接関連するものであった。しかし、大学では、なぜか必ずしもこのようにはいわなかった。そして当時、こうした大学の処分の理由をたずねたのにたいしていわれたことは、けっきょく、私が学生としての本分を守っていないからであるというきわめて抽象的なことにすぎなかった。しかしこれでは、もちろん承服できるはずがない。私は、当然のこととして、争った。

 こうしているうちに、ついに前記の期限がきた。それでやむなく、当時同じような状況にあった他の諸君と同様に、私もついに命ぜられるとおりの四カ月間の休学届を出した。私の大学卒業が、七月末となっているのは、こうした事情からである。しかし、当時われわれがこのように休学届を出したことは、いまここにのべているところから推して考えていただけるように、実質的にはまさに四カ月間の「停学」に処せられたのと同様のことを意味するものであった。

 それにしても、われわれがうけた、このようないわば形式的休学・実質的「停学」というような処分の仕方は、少なくとも京大の場合、おそらく前後に例がなく、私自身べつに調べてみたわけではないが、このわれわれの場合のときのものが唯一のものではないかと思う。またこうした意味で、このときのような処分の仕方は、きわめて特殊なケースをなすものといえるのだろうと思う。しかしそれにしても、当時大学はなぜこのような処分の仕方をしたのであるか。私は、残念ながら、知る機会をもたないままに、ついに今日に至っているというような状態である。

 ところで、前記の休学届けを出す場合、私は、その理由として、大学から強制されたことによるものであるという主旨のことを書こうとしたが、それでは駄目だといって受付けられなかった。それで、このことでまた争ったが、けっきょく、理由は一身上の都合というように書くようにいわれ、またやむなくこのようにせざるをえなかった。当時の大学というのは、じつはこうしたところであったのである。そして、とにかくこのようにして私は四カ月の実質的「停学」に処せられることになったが、このことが、やがてのちの私の生活にとっては一つの大きないわば壁となった。多少言葉を強めていうなら、私はこの「停学」処分のゆえに、時には生活権を脅かされるようにさえなったといっても、けっしていいすぎではないといってよいと思う。

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 私は卒業後、できることなら研究者としての生活をつづけたいと思っていたが、こうしたことは、私には、まず経済的な点からいって、容易に望みうることではなかった。それで私は、卒業とともに、当然の方向として就職という道をとった。しかし、私が大学を卒業した昭和七年(一九三二年)という年は、一九二九年のニューヨーク株式恐慌にはじまる世界恐慌に全世界があえいでいたころであり、ことにわが国は恐慌のどん底におかれていたといったような状態で、新たに学校を出た卒業生にとっても、まさに未曾有の就職難のときであった。それに私には、まずこの就職の出発点にあたって、さきほどから問題としてきた「停学」の不安があったが、事実この「停学」が少なくとも一部では問題の種とされた。七月卒業見込みということで、就職試験を受ける機会についても制限されざるをえなかった。

 幸い、私は、当時元総理大臣石橋堪山氏が主幹をしていた東洋経済新報杜に―「停学」のことには全然ふれないですませることができたという幸せなめぐり合せのもとに―就職することができた。しかも当時私は、すでに三月に卒業をすましたというようなかっこうで、四月から正式に社員として入社した。東洋経済新報社では、主として会杜や産業界の調査、雑誌「東洋経済新報」の編集などをやってきた。しかし、やがて私の卒業当時の希望がかなえられ、会計学研究の目的のもとに研究生活に入る機会をえたので、右の東洋経済新報杜は昭和一二年にやめ、そしてこの年から、私は再び京大にもどって、大学院に籍をおき、副手の名をもって勤めながら、新たにまた書物に親しむ生活に入った。この機会を与えて下さったのは、蜷川虎三先生であった。

 私はこのように会計学研究の目的のもとに研究生活に入ったものの、大連港の貿易に関する調査や東亜研究所から委託された中国における経済慣行調査に相当長期間に亙って従事することとなったため、一時は会計学の研究をほとんど中断せざるをえないような状況にもおかれざるをえなかった。また、当時しばしば痛感してきたことであるが、就職をやめ、家庭をかかえて生活を維持しながら研究の道を歩むということは、予想にたがわずけわしいものであった。

 しかし、私にとって、事態はこうしたことだけにとどまらなかった。さらに、大きな災厄がまっていた。当時戦争は次第にますます進行し、それと同時にファツショの嵐はいよいよ吹きすさんだが、こうした背景のもとに、じつは私の場合にも、教職につくことはほとんど絶望視されるに至った。またこの場合にも問題となったのが、上にふれてきた私の「停学」である。私にとってのこうした事態は、当時私からまさに生活を奪うに等しいものであった。事実私は、当時生活を維持するのに、次第に困難を感ずるようにさえなっていた。またこうした事情のため、当時は他に就職するつもりなら、比較的希望にかなうところもあったので、私としては、再びまた社会に出て働こうかとも思った。しかし、このような私の意向も、故あって、また思いとどまらなければならなかった。そして、こうしたいきさつののち、私は、けっきょく、恩師の蜷川虎三先その他一、二の方の特別の御尽力により、当時「満州国」にあった建国大学に職をうることができることになったので、昭和一九年赴任し、やがて家族も新京に居を移した。しかし、これがまた私にとっては、こののちの生活に一つの大きな分れ目をつくることとなった。

*   *   *

 私自身は、建国大学に赴任後間もなく現地召集をうけ、関東軍に入隊させられた。当時私はすでに四〇才近くであったが、生まれてはじめての軍隊生活であったので、入隊は全くの一兵卒としてであった。しかし、とにかく入隊してみて驚いたことには、教練用の兵器さえ、当時すでにロクになく、われわれ兵隊にすら何か不安が感ぜられるような状態であった。そして、やがて終戦を迎えた。この終戦当時、われわれ兵隊には、事態の真相はけっして十分には伝えられなかったが、とにかく私には、この終戦で解放されたことのよろこびは全くたとえようもなく大きかった。何よりもまず、生命の危険から逃れたという、何ものにもかえがたい心の安らぎがあった。しかしその後、私の所属していた部隊は当時ハルピン付近にいた関係もあって、日ならずしてソ連軍管下におかれたが、やがてその秋には、他の多くの部隊とともに、われわれもシベリヤにおくられて捕虜収容所の生活を送ることとなった。

 さて、それから、――故国の土地はいつ踏めるのであろうか、それとも、こういう機会はもはや再びもつことができないのであろうか?――われわれにとってはもっとも不安の種である、こういったことも何一つ知ることのできないような生活がつづいた。収容所では、とくに栄養失調などによって、死者が相当多く出た。そして当時こうした情景を目のあたりみていると、自分の命も明日が計り知れないようにさえ思えた。私は、比較的割り切って、のんびりと過ごしていたつもりであるが、それでも、こうした不安は、やはりおおいえなかった。

 しかし、幸い、私はシベリヤの土地にも化せず、しかも同地から送還された者のうちでは比較的早く、昭和二二年五月には帰還した。新京にいた家族(母、妻、子供三人)も、相当紆余曲析を経ながらも、一同無事で、私より約半年ばかり前に内地に引揚げていた。すべて、不幸中の幸いであった。

 帰還後、私はしばらく郷里の叔父のもとで、シベリヤに生活中衰弱した自分のからだを養っていたが、その間、これからどうして生活していこうかと真剣に考えていた。ことに不安であったのは、これから、いままでのように研究者としての生活をつづけて行くことができるのであろうか、ということであった。当時、それまで多少とも手に入れてきた専門書などの書物は、すべて「満州」におき去りにしてきたので、引揚げ後の私の手もとには、研究に必要な書物らしい書物は何一つなかった。ノートのはし切れ一枚さえなかった。そしてこうしたことが、じつは私を不安にしたのである。

 しかし、重ねてやはりいろいろと考えてみた。それに当時は、内地にいても、戦災により書物などはすべて灰燼に帰せしめながら、しかもなお研究に立ち上がっている多数の研究者がいたはずであるが、私はこうしたことも思い浮かべてみたりしていた。そして、けっきょく、心中みずから期しながら、やはり研究生活をつづけていこうと思った。

 しかも、幸いにも、自分の古巣の京大経済学部に再びもどる機会を与えられ、帰還した年の二二年一〇月にはすでにその一員に加えられた。これは、私にとっては、これまたこのうえもない幸運であった。そしてそれから、私は、いわば新規まきなおしのつもりで再び研究生活をはじめたが、とくに会計学についていえば、私の場合、前にふれたような事情もあって、ようやくこれから本格的に研究者としての道を歩むことができるようになったといえるかと思う。

 学部で演習をもつようになったのは、昭和二四年度からであるが、当時はなお終戦直後の混乱期で、冬になっても暖房一つない寒々とした部屋でオーバーのえりをかき立てながらやっていたことなどが、やはり私の回想の一節として、いまもなお記憶に強く残っているところである。

 六十年の人生といっても、いつの間に過ぎ去ったように思えるが、こうしてふりかえってみると、私の場合にも、今日に至るまでに歩んできたこの人生というのは、やはり、それ相応の長い歳月であったということにもなるようである。また思ってみると、この歳月を生きてきたことに、やはり私なりに多分の感慨を催さざるをえない。

(岡部ゼミナール同窓会会報第8号―昭和413月発行―より抜粋転載)

P.S. 本稿を岡部利良著「旧中国の紡績労働研究」の栞に転載、そのPDFファイルを
https://www.y-okabe.org/parents/_1_4.html に入れてあります。











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