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平成7年、故岡部利良の著作「旧中国の紡績労働研究」書評1(西村 明 先生)

<書評>


岡部利良教授と『旧中国の紡績労働研究』


西村 明


岡部教授は中国研究者としてではなく、会計学者として一般に知られており (主著として『現代会計学批判』、森山書店、一九九一年刊がある)、会計理論やその研究方法についての私の指導教官であった。本書は、先生が三十歳の頃に書かれた論文を纏め直し、出版するために最期まで力を注がれたが、それを実現させることなく他界された先生の最後の仕事である。そこで、中国経済に関心を抱いてきた私がこの実現のための機会に遭遇したのである。私が大学院生として初めて先生の研究室に伺ったとき、先生から「君は中国語を勉強しているが、これは会計学の研究とどのような関係があるのかね?」というような内容の質問を受けた覚えがある。その頃、新中国の会計学の状況はほとんど日本では知られていなかったし、欧米の会計学研究が主流をなしていた当時、もっともな質問であった。私は、あまり深い意味も考えずに先生は中国研究にはあまり関心を持っておられないのではないかと思い、その後五年間ドイツ会計学の原書を一字一字曖昧にすることなく、自分の胸に落ちるまで意味を理解する先生の指導にひたすらついていくのが精一杯で、中国経済の研究については私の余暇の仕事にすぎなかった。もちろん旧中国紡績業の労働状態や管理について書かれた論文や著書があることを知ってはいたが、読む余裕さえなかった。

先生は学問の姿勢についてきわめて厳格であり、仲間意識的な議論や槻念の曖昧な論文、とりわけ社会的に影響力を持っているそのようなものには厳しく批判された。この厳しさは私にはとても真似のできるものではない。しかしながら、学問を私の身の丈まで引き下ろしてくれた恩師である。自分自身の頭でじっくりと考え、ものを言うというということの大切さを絶えず教わるうちに、私のような凡人でも時間をかけて努力すれば、学問を職業として生きることができるかもしれないという希望をもつことができた。また、大学紛争の頃孤立と焦燥にかられていた私を、恐らく立場を異にしていたと思われる先生から励ましの手紙を受け取ったことも、その後私のものの考え方を大きく左右しているように思う。しかしながら、中国問題については生前に深くお話する機会はなかった。

師走の雪のちらつく京都一乗寺の先生のお宅で原稿を拝見したとき、学問への執着と克明な分析に引き付けられ、暫し寒さと時間の経つのも忘れてしまうほどであった。その豊富な統計資料と史実、そして論理的な展開。更に、二百字詰原稿用紙二千数百枚に及ぶ原稿の最後の辺りになると字は子供の字のように乱れていた。やはり病苦と戦いながら病床で最後の力を振り絞って原稿を読み直し、書き直し、また清書しておられた姿が私ながらに想像できた。しかしながら、原稿全体をお宅で精読できるわけでもないので、借用し、改めて拝読させていただくことにした。

その後ノートを取り、読み返し、手に入る資料などと原文を突合せ、また問題となる部分を書き上げ、私なりの感想をご家族に送付した(感想の部分は、本書に添付されている「栞」に解説として掲載されている)。ご家族からの強い希望もあり、九州大学出版会の協力を得て、最終的には本書のような形で先生の希望は実現した。

本書の内容については、すでに東京大学文学部高村直助教授が、詳細で的確な書評をアジア研究所の「アジア経済」 一九九四年一月号)に発表しておられる。紙幅の関係で、本書の主要な点だけを先の「栞」の解題を利用して、紹介させていただこう。本書は以下の内容でもって構成されている。第一章・中国紡績業の位地・後進性――中国紡績業の概観、第二章・中国の紡績労働者の構成――その諸特質、第三章・中国の女子労働者創出過程の特質――華中型・華北型の根拠、第四章・雇用方法――募集・採用および雇用契約の方法、第五章・労働管理組織、第六章・労働条件、第七草・労働状況・労務管理の方法、第八章・生活条件。この章別編成からも分かるように、本書は、中国での中国人紡績企業と日本人紡績企業とを比較しながら、日中戦争終結以前の中国紡績企業の労働及び経営の後進性・非近代性を中国資本主義の後進性・非近代性との関連で分析したものである。各章の分析においては、多くの文献・データが駆使されている。特に労働の後進性・非近代性については、労働生産性の低さ、知的教育水準の低位、雇用における間接的契約制度、労務管理における無規律、管理者の無責任・寄生性、経済外強制などの多面的な問題が具体的に考察されている。また徒弟、女工、童工にみられる非近代的な雇用と就業状態の分析も注目される部分である。

「栞」にも書いたのであるが、本書を読む過程で、先生はエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」の構図を頭においておられたのではないかとしばしば感じさせられた。その当時の時代的な制約や先生の研究態度と関わって、旧中国の紡績業労働者の創出過程、非近代的な労働と管理方法、それに関わる生活環境や風習が具体的な資料・統計に基づき冷徹に、感情を抑えた形で考察されているのであるが、それを全体として捉え直してみるとき、資本と労働との矛盾という分析視点が浮き上がってくる。この視点を踏まえて資本主義の後進性が労働の後進性を規定し、またそれらが相互に結び付いている中国の特殊性が生き生きと解明されている。本書では、労働の後進性・非近代性は、基本的には、中国紡績労働者の農村への依存性、つまり紡績業の農村経済からの未分離、さらには紡績資本家の非近代性(地主資本、問屋制資本)から来るものと考えられている。そこで特に本書の分析で注目されるのは、女子紡績労働者創出過程の二つの型態、華北型と華中型の剔抉である。この型態分析は、後の章において考察される労働者の採用方法、雇用型態、管理方法、賃金、勤務年数、生活状態などに関わって重要な意味を持っている。華北、特に天津、青島では工業が未発達で、古い風習が強く残っており、男性労働の供給は大きく、華中に比べて男子労働者の占める割合が高く、男工主義といわれる傾向が支配的であった。それに対して、比較的工業が発達し、近代化が進んでいる華中、特に上海では男子紡績労働者の供給はそれほど容易ではなかった。農村部からの女子労働者への依存が強かった。これを本書は女工主義と呼んでいる。この相反する型態が相互に機能し合い、旧中国の紡績労働者創出過程の特質を規定しているのである。更に色々と興味深い問題を指摘することができるが、以上は主要な点であろう。

中国経済に関わる研究では、戦前と戦後との間に大きな断絶が今も存在していたように思われる。私自身中国の最近の株式制度に注目し、研究を始めたとき、旧中国の株式についての資料を得ることに苦労した経験がある。本書のなかで株式についての言及にしばしば出合い、またいくつかのそれに関する文献をこの機会に調べることができたが、自分の不勉強を思い知らされた次第である。とは言っても、本書に指摘されている労働や管理の旧慣行がいまなお新中国の工場で見出されるという点に、本書の刊行の意図があるわけではない。むしろ旧中国紡績業の労働(労働力)の全体的な認識とその研究方法にその意味があるように思われる。できる限り客観的な事実を一定の論理のもとに再構築し、旧中国紡績業の労働の全体像を描き上げようとしている。これは、おそらくイデオロギーや政治的な態度が優先してきた戦後における中国研究の態度とは対立するものである。おそらく戦前と戦後の研究上の断絶の一部はここに起因しているように思われる。生前残念ながら中国経済についてお話する機会をもちえなかったのも、単に会計学研究上の忙しさだけではなく、このような断絶が秘かに先生と私の間に介在していたのかもしれない。それはともかく、この度の仕事を通じて、岡部会計学の深奥にある厳格な学問への姿勢と優しさが.若い時代の中国研究の中で培われたことを確認しえたのである。       .

岡部先生はここで書いているような書評をもっとも嫌われる先生である。ほめ言葉が入る場合が多々あるからである。恐らく困った奴だなあと、苦笑いをされているだろう。しかし、今回は畏友、東方書店の井上庄治郎氏からの依頼でもあり、また断絶へのこだわりもあり、あえて筆を執らせていただいた。(九州大学)

(1995年2月5日、東方書店発行「東方」(Eastern Book Review) 第167号25~27頁所収)

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