<故岡部利良への追悼文>
人情の人 岡部利良先生
河 合 信 雄
表題をみて,おやっと思う人があるかも知れない。岡部先生はこわもての論客で,筋を通して論争をいどんでこられたときは,それが学会であろうと,教授会であろうと、なかなか引き下がるお人ではなかったのは、大方の一致するところであろう。
先生が京都大学の次の龍谷大学を退職なさる時には次のようなエピソードがあった。もう時効になったであろうから書くこととする。龍谷大学は経営学部創立のときに協力した教員には停年はないという約束であった。しかしながら,80歳になるとやめてゆくと云うしきたりができつつあった。このしきたりは停年退職なのか、自発的退職なのかはつきりしていなかった。当時の林昭学部長は先生に退職届を出して下さいと申し入れた。先生の答は停年退職であれば法人の方で退職の手続を取って下さったら良いので、退職届は出しませんということであった。大学の停年ということについて知らない方々も多いだろうから,説明を加えておく。京都大学などの官吏には昔は停年という法制はなかつたので,63歳停年というのは京大の申し合せである。東大は60歳であり,地方大学は65歳のところが多い。しかし,退職届を出すという話は聞いたことはない。私学でも申し合せやしきたりで一定の年令でやめるというのであれば、退職届は不用である筈だというのが先生の論旨である。林学部長は対応に窮し私(河合)にも相談に来たことがある。
岡部先生は一身上の進退は弟子に一応相談された。私も弟子に相談することにしている。学部長ではラチがあかないので,学長も説得に立ったと云うが,論争好きの岡部先生のペースにはまってしまったと云うことであった。私は林君の相談に対して,先生は論争を楽しんでいらっしゃるのだから,先生のペースにはまらない方がよい。ただ退職届を書いて下さいと申し上げて、後は知らん顔をしておればよい。先生はごねているようでも、結局は若い人の云うとおりにして下さるからと忠告した。事実はそのとおりになって,先生は退職金からいくばくかを出して,龍谷大学の大講堂前の大木の並木の列を寄付されたのであった。そのときに先生は匿名を希望されたので,この寄付を知っているのは,林学部長と私と少数の関係者だけである。
私が大学院のとき,電気計算機を廻していると(今のパソコンやコンピュータではないが,ガチャガチャやかましくっても,昭和20年代は最新式であった),先生がみとがめて,君には勉強してもらう積りで研究室に入れたので,計算はアルバイトにやらせなさいと叱られた。そして,先生は研究費からいくばくかをさいて,私の机の上にアルバイト料をおいて帰られた。そこで数人の岡部ゼミの後輩学生を呼んできた。しかしながら,アルバイトに電気計算機の使用法を教えて,習熟さす時間よりは私がやってしまったほうが早くすんでしまう。そこで後輩諸君には領収書の判だけ貰っておいて,計算がすんでから,皆でお酒をのんでしまった。青春の思い出である。
私は昭和28年から関西大学助教授に就任した。しかし,昭和35年、立命館大学の経営学部創立要員として立命の経済学部に移った。当時、関西四大学の申し合せのごときものがあって,同志社,立命,関学,関大では教員の引き抜きはタブーとなっていた。しかしながら,未川先生の関西大学への戦時中の貢献(たとえば教員が出征して,教員不足の時,未川先生は関大の講義まで時間がなくて,タクシーの中で弁当を食べながらの出講であったと聞いている)があったので,関西大学商学部も気持ちよく私の移籍を承諾してくれた。それでも,先輩教授の家を一軒一軒めぐって了承をとるのは,しんどい行脚であった。ある夕方、多くの先輩教授の了承を取って岡部先生の家に報告に行った。私がよほど疲れて,しょんぼりしていたのであろうか,先生の家を辞して,半丁下った金福寺の近くまでくると,先生がどてらのまゝで追っかけて来られた。河合君金を持っているかというのが先生の言葉であった。当時の助教授の貧乏生活は今の飽食の諸君にはわからぬであろう。私は持っておりますと申し上げて足早に帰った。涙がにじんだ。かくして、この度はただ酒をのみそこねたのであった。
(1992年9月発行、京都大学経済学会・経済論叢 第150巻第2/3号109~110頁所収)