ロンドンの秋も深まった一九八八年十一月十六日、大英博物館の「エルギン・マーブルの間」で女王陛下ご夫妻臨席の下に、大英博物館法制定二百三十五周年の記念行事が盛大に催された。この晩餐会に招待を受けた日本人は駐英大使のほか二、三人に過ぎなかったが、私共夫妻も陪席の栄に浴した。どうしてお招きに預かったのかと訝りながら、晩餐会の始まる前にシェリー・グラスを片手に「エルギン・マーブルの間」に通ずる「アッシリア回廊」に佇んでいると、顔見知りのロバート・ノックス博士が挨拶にこられ、やっと事情が判った。
博士はケンブリッジ大学出の俊英で、専門はインド美術ながら、当時は東洋部門の主任を務め、特命で「ジャパン・ギャラリー」の新設計画を担当していた。このギャラリー建設資金の募金方法について私が相談に乗ったからであった。私と博士との橋渡しをしたのは、住友銀行から同大学に留学中、博士と親交を深めていた児玉龍三氏(現在香港支店長)であった。
大英博物館の日本美術コレクションは、今世紀初頭にウィリアム・アンダーソンとアーサー・モリソンの両氏が収集した浮世絵版画二千点、掛け軸一千点を中心に陶器、刀剣類、根付けなど広範に亘り、日本国外では最大級と称されている。ところが、これらの収蔵品を展示する常設スペースがなく、博物館の北側に位置する東洋館三階の一部で細々と入れ替えながら公開されているに過ぎなかった。この不便を解消すべく、東洋館の上部に二層の日本美術専門ギャラリーを建て増すプロジェクトが立案された。そこでノックス博士がそのための募金の重責を負わされ、博士の求めに応じて、私がアドバイザーとして募金計画に参画した次第である。
とはいえ、私の助言は至極常識的なもので、たとえば募金の対象を英国への進出日系企業に的を絞るより、経団連を通じて広く日本企業の本社に呼び掛けること、極めて良好であった日英間の外交ルートをフルに活用すべきこと、日本企業の意思決定はボトムアップ方式であるからトップに依頼すると同時に事務局へもきちんと説明すること、などであった。また、大英博物館ではこれまで前例がなかった企業名を入れた冠(かんむり)展示も提案したところ、これも実現した。
この募金活動は大英博物館史上最大規模であったが、今から振り返るとバブル絶頂期という絶好のタイミングであったこともあり、短期間の内に極めて成功裡に完了した。総額五百万ポンド(約十二億円)の内、四百万ポンドが日本から送金され、残余の一百万ポンドについても在英の日系企業が過半を拠出した。金額の大きさだけではなく、小学生の一人五百円寄付まで含む幅広い層の日本人が募金に応じたのには、寄付慣れしている大英博物館もいたく感激したようである。結果的には、時の運に恵まれ、私のアドバイスなど要らなかったのかもしれない。
このジャパン・ギャラリーは一九九〇年四月に開館、翌年九月にはジャパン・フェスティバルの一環として、鎌倉期の仏像展が開催された。日本でもこれだけ纏まった鎌倉期の彫像展は見られないと大好評であった。
ところで、晩餐会の開かれた「エルギン・マーブルの間」は大英博物館の中でも最も有名なギリシャ彫像を収蔵している。首都アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿を装飾していた破風彫刻など全長七十四米に及ぶ巨大な大理石像の列は紀元前五世紀に創られた古代ギリシャ彫刻の真髄を示す傑作とされている。この大彫刻群は一八〇二年に駐トルコ大使としてイスタンブールに赴任した第七世エルギン卿が、当時トルコ領で軍の弾薬庫として使われていたパルテノン神殿から切り取る許可をとって、一八一二年にかけて英国へ持ち帰り、政府へ売り渡したものである。
エルギン卿は果たして略奪者として非難さるべきなのか、それとも荒廃した遺跡で破壊され散逸する危機に瀕していた文化遺産を保護した功労者として賞賛さるべきなのか、未だに世間の評価も二分されている。エルギン卿は確かに大規模な切り取り行為をおこなったが、神殿の外壁はその侭残している。一方、ベルリンのベルガモン博物館には、整列した藍色のライオン像で有名なバビロンのイシュタール門とトルコのベルガモ神殿が根こそぎ移築されており、現地には何一つ残っていない。ドイツ人のこの徹底した略奪振りには、驚愕せざるを得ない。善意に解すれば、大英博物館の収集が単品に留まっている点は、文化遺産の保護者として評価されてよいのではなかろうか。
大英博物館は一七五三年に下院で可決された法令により創立された。当初は文献類や骨董美術品から博物標本に至る八万点の収集品から成るハンス・スローン卿の膨大なコレクションを中心に発足、六年後には世界初の試みである一般公開に漕ぎ着けた。十八世紀風の服装とかつらを着けたスローン卿の彫像は、博物館を入ってすぐ右手にひっそりと立っている。収蔵品の多くは寄贈品で、創立来最近に至るまで四万五千件を超える寄贈記録が残されており、世界中の文化施設でこれ程まで寄贈の恩恵に浴して来た例は他にないと云われている。
収蔵品が増え続けたので、一八八〇年の初めには自然科学部門をケンジントンへ移転した。次いで、数百万冊の蔵書を抱える中心的存在であった図書館部門も一九七三年に制度上分離され、今世紀中にセント・パンクラスへ全面移転する計画が進んでいる。この結果、大英博物館は人工遺物専門の研究・展示機関となり、エジプト、メソポタミア、中国からギリシャ、ローマに至る文化遺産が中核として残った。
ロンドン駐在の十三年間を通じて、大英博物館へは何回となく足を運んだ。一時間程でポイントだけを見たいという日本からの来客には、上述のアッシリア回廊、エルギン・マーブルに加えて、エジプトのミイラ、ロゼッタ・ストーンとマグナ・カルタを五点セットとしてご案内することに決めていた。休みの日には家内と二人でふらりと出掛けて、これも世界一との折り紙付きの切手コレクションをじっくり眺めたり、部門毎の解説ツアーに参加したりもした。このように因縁浅からぬ大英博物館の歴史に新たな一頁を加えることとなった「ジャパン・ギャラリー」の新設に些かなりとも関与出来、感謝されたのは、英国好きの私にとって忘れ難い無上の喜びとなった。
(明光証券会長 岡部 陽二)
(平成9年3月5日発行、日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第61号所収)