オバマ大統領が、去る9月9日に、連邦議会の上下両院総会で行なった一時間に及ぶ異例の演説は印象的であった。これは医療改革に絞って、その遂行を議員だけではなく、全米国民に向けて「今こそ行動を起こすときが来た」とその実現に不退転の決意を表明し、賛同を訴えたものである。その直後の世論調査ではオバマ支持が急増した。これをもって米国でも皆保険がすぐに実現すると見るのは時期尚早ではあるが、大きな山を越えたのは間違いない。この改革の一つの柱は、従業員五十人以下を除くすべての企業に従業員に対する公的保険による医療給付を義務付ける点にある。
米国の企業も医療保険料の雇用主負担増を嫌っているが、企業としても社会的責任を果たすためには応分の費用負担は当然と受けとめる倫理観が要請されて然るべきとの世論に押され、市場原理一辺倒の考え方からの転換が見られる。
ドイツも今年から皆保険国の仲間入りをしたが、労使折半で負担している医療保険料率は給与の15.5%、フランスは13.9%と、わが国の組合健保単純平均7.3%に比べて、ほぼ二倍の水準である。米国は企業の負担割合が7割を超えているので、企業負担はさらに高い。欧米の企業が、これ以上の医療保険料負担には耐えられないと悲鳴をあげているのは当然であろう。
それでも、オバマ大統領は演説の中で、改革の成就を見ることなくこの8月に亡くなった同志の故エドワード・ケネディー上院議員からの手紙の一節「医療制度が我々の将来の繁栄のために決定的に重要であるのは、何よりも倫理の問題である。俎上に上っているのは単なる改革案の詳細などではなく、社会正義の基本原理と我々の国のかたちなのである」を披露して、国民の共感を求めている。
ところで、私の監訳で今年初めに出版したハーバード大学経営大学院レジナ・E・ヘルツリンガー教授著「米国医療崩壊の構図~ジャック・モーガンを殺したのはだれか?」は、まさにオバマ大統領による改革が必要とされる病因を究明し、国民皆保険へ向けての処方箋を示した好著である。
本書の著者が憂いている現在の米国の医療システムは、その巨大なコストとは裏腹に、国民に満足を与えていない。腎臓疾患を患った個人事業主のジャックは、腎臓移植の順番を待っているうちに亡くなった。彼は保険に入ってないわけでも、医者嫌いだったわけでも、手遅れになるまで診察を受けなかったわけでもないのに、移植手術を受けられなかったのである。彼を殺した犯人はだれなのか? 容疑者は,医療保険会社・非営利を謳う大病院・雇用企業・政府・医療専門家たち五人である。
①保険会社は、患者の満足度よりも、医療費に関心が高く、すべてにNoを突き付けている、②非営利を謳う大病院は、規模の拡大に奔走して非効率化し、患者にとってもリスクが高くなっている、③雇用企業は、本来従業員に分配されるべき保険料を税制優遇や運用のために利用しているにもかかわらず画一的な医療保険を選び、患者の医療給付の選択の自由を奪っている、④政府や役人は、市場を無視した、お仕着せの医療プランで患者の選択肢を狭めている、⑤医療専門家も知識のない患者に情報を与えても賢い選択はできないと主張している、と著者の糾弾は手厳しい。
結論は、これらの介入を排して、医師と患者が医療市場で直接話し合うことで、良質で安価な医療を効率的に国民に提供できると、オバマ改革の進むべき道筋を示している。
(岡部陽二、元広島国際大学教授、元住友銀行専務取締役)
(2009年11月10日、㈱財界研究所発行「財界」秋季特大号p157所収)