米国のオバマ大統領は、国民階保険を主軸とする医療制度改革を最重点の政策課題として掲げている。本年1月10日に行われた就任演説では、医療(Health Care)という言葉を三回も繰り返し使って強調している。つまり、①現在の医療保険にはコストがかかり過ぎており、②医療の質はさらに向上させるべきであり、③全国民が手の届くような医療保険が手に入るように政府が手を差しのべる必要がある、という主張である。
着任早々の2月4日には低所得者層の子供に対し医療費を補助するSCHIP(State Children's Health Insurance Program)拡大の議員立法に署名し、これは国民皆保険へ向けての一里塚であると言明している。このプログラムは,1997年にMedicaidの対象とはならない無保険低所得者の18歳以下の子供にかかる医療費をカバーするために制定され、無保険の子供約7百万人をカバーしてきた。この議員立法は、対象をさらに4百万人増やし、補助額も増額して、2008年のSCHIPへの連邦支出66億ドルを2009年には138億ドルと一挙に倍増するというものである。法案は2007年に一旦議会を通過していたが、連邦の財政負担が大き過ぎるとしてブッシュ大統領が署名を拒否してきた曰くつきの懸案であった。
2月26日には、一般教書と2010年度(2009年10月からの一年間)の予算教書を発表した。両教書の中で大統領は、選挙公約である国民皆保険制度の実現に向けて向こう10年間で6,383億ドル(約62兆円)の新基金を設置、財源は年収25万ドル(約2,400万円)を超える世帯などを対象に、所得税の各種控除の上限を引き下げるほか、メディケア(高齢者向け公的医療保険)、メディケイド(低所得者向け公的医療保険)の効率化などによるコスト削減で捻出する考えを明確に示した。一般教書では、経済危機から脱出するために約350万人の新規雇用創出を打出している。この面でも過去10年間の実績で新規雇用創出の過半を占めている医療産業への期待は大きい。
新政権発足当初は、経済対策に忙殺されて医療改革への着手は遅れ気味であったが、ようやく、5月に入って、製薬・医師・病院・保険・医療機器の5団体の代表と個別に会談して、皆保険実現への協力を要請した。皆保険実現に必要な財源の一部を捻出するために、5団体それぞれに対し医療費の伸びを抑制する自主提案を提出するように求めたのである。具体的には、今後10年間に見込まれる医療費増加率を毎年1.5%落とし、抑制額は10年間で合計2兆ドルを目途とした削減計画を自主的にホワイトハウスへ申し入れさせた。
この削減計画は、Centers for Medicare & Medicaid Services(CMS)が今後10年間の予測値として推計している毎年の総医療費を抑制し、表1の2018年度予測値から0.7兆ドル減額するという発想である。申し出合計額はこの計画には若干届かなかったものの、この5団体は「皆保険は支持するが、医療費抑制は呑めない」として、クリントンの医療保障計画を潰した元凶であり、対応の変化には目を瞠るものがある。
6月に入ると、オバマ大統領は新公的医療保険の創立を支持する旨の書簡を議会へ送り、大統領自身もタウンホール・ミーティングなどで医療に関する所信表明を開始した。また、大統領の政治団体「オーガナイジング・フォー・アメリカ」も草の根運動を始めている。
改革法案は6月末までに上下両院それぞれに内容の若干異なる案が提出され、5委員会で審議を開始した。下院民主党は8月の議会休会前にも本会議通過を目指しているが、民主党内からも異論が出されており、議会での審議は難航が予想されている。
オバマ大統領は、法案審議を急かせるべく、政権発足から半年を経過したのを機に、7月22日にホワイトハウスで記者会見し、「医療保険改革はより強固な経済再建に向けた取組みの中核であり、年内には実現する」と改めて強い決意を表明している。
オバマ政権が導入する新医療保険制度の審議を見守りつつ、本号と次号では、その背景や皆保険実現に当っての論点につき連載の形で解説を試みたい。
1、米国における医療保険無保険者の実態
メディケアでほぼ皆保険が実現している65歳以上の高齢者(約3,700万人、2007年)を除いて、医療保険にまったく加入していない無保険者数は,1990年代を通じて増え続けたが、表2の左欄に見られるとおり、2000年には3,820百万人(65歳以下人口の15.5%)へと若干低下した。これは、上記SCHIPの導入により表2右欄のとおり1999年以降子供の無保険者が減少に転じたためであり、その後も子供の無保険者は増えていない。しかしながら、2001年以後の好況下においても、無保険者の総数は毎年増え続け、2006年には4,650万人(同17.8%)に達した。2007年にはわずかに減少しているものの、その後の経済危機により、2009年にはおそらく5,000万人を超えて史上最高を記録するものと予想されている。このように、すでに米国人壮年層の5~6人に一人が無保険者となっており、政府もこれの解消を最重点施策として取り組まざるを得ないのが実情である。
無保険者の増加要因は、民間医療保険料の高騰にある。2007年までの10年間に、医療保険料は一般物価上昇率の3倍以上のスピードで上昇した。2000年以降、米国のインフレ率、賃金上昇率は2~4%で推移してきたが、民間医療保険の保険料率は平均して8%強、2003年には13.9%という高い上昇率を記録(その後は漸減に転じ、2007年の上昇率は6.1%)している。失業者数は約700万人、失業率は約5%で横ばいに推移しているので、失業の増加による無保険者の発生ではなく、既加入者の脱落が無保険者増加の主要因である。
事実、典型的な無保険者はフルタイムで働いている低所得の若年層である。カイザー・ファミリー・ファウンデーションの調査によれば、無保険者の属する世帯の69%には、少なくとも一人はフルタイム労働者が存在しており、無職やパートタイム労働者だけの世帯は32%に過ぎない。
このような無保険者の特性は、表3からも読みとれる。年齢階層別では、SCHIPの対象となっていない18~25歳の無保険者が同階層人口の28.1%と高く、次いで25~34歳も25.7%と高い。所得階層別では、貧困ライン以下の低所得者の医療は原則としてメディケイドで保障されているにもかかわらず、「貧困ライン以下」では同階層人口の31.6%、「年収25,000ドル以下」では24.9%、「年収50,000ドル未満」では21.1%が無保険者となっている。
雇用主が医療保険を提供しない場合には、世帯の年収50,000ドル未満の賃金労働者が個人で医療保険に加入するのは、実際問題として不可能に近い。たとえば、両親と子供二人をカバーする医療保険の年間保険料は、個人で加入する場合には、免責限度などの条件によって異なるものの、通常10,000ドルから15,000ドルである。共稼ぎで合算100,000ドル程度の年収がないことには、個人での加入はまず困難である。
一方、医療保険を提供しない雇用主が、過去10年間一貫して増加しており、2007年では、2,650万人と全被雇用者の18.1%を占めている(1999年には15.6%、State Health Access Data Assistance Centerによる推計値)。この無保険者の34.6%は従業員数10人以下の小企業に属するが、22.7%は従業員数1,000人以上の大企業に属している。この推計から、保険料の高騰を嫌って医療保険の提供をやめた雇用主の急速な増加が、無保険者の増大に大きく影響していることが分かる。
ところで、無保険者は医療をまったく受けていないということではない。米国でも命にかかわる急病になれば、病院で治療を受けられ、病院や医師は支払い能力欠如を理由として診療を拒否することは許されていない。通常は、治療時や退院時に資力に応じて医療費の一部についての支払交渉が行われるが、最終的には病院・医師側の不良債権となり、「慈善医療」を行なったとして債権放棄をせざるを得ないケースが多い。結果的には、無保険者や従業員に保険を提供しない企業が医療制度のフリ-ライダー(ただ乗りする者)となっている。
この慈善医療の総額がどの程度に上っているのかは把握できていないが、国民一人当たりの医療費7,421ドル(2007年)に無保険者数4,500万人を乗ずると、3,340億ドルとなる。
一方、米国の病院協会は表4のとおり全病院の収支を公表しており、総収入からの「控除」額が、病院の「慈善医療」に相当する額であるとしている。この「控除」は表4に注記のとおり、「病院が定めた所定料金での収入から実収額を差引いた額」である。この「慈善医療」は保険医療についても発生するが、大部分が無保険者分と推定される。この所定料金はかなり恣意的に高く定められており、保険診療の場合の2~3倍程度とされているので、3倍と仮定して、3,600億ドル(1.1兆ドルの1/3)と推測できる。もっとも、これに医師への支払も加えると、5,000億ドルを優に超える巨額となる。
金額の多寡はともかくとして、無保険者の医療費は結局医療保険への加入者と政府からの支出で賄われており、一部を病院と医師が負担しているのが実態である。
(医療経済研究機構 専務理事 岡部陽二)
(2009年8月13日、医療経済研究機構発行「医療経済研究機構レター(Monthly IHEP)」No.178、p40~43所収)