本年早々に、ハーバード大学大学院レジナ・ヘルツリンガー教授著の「米国医療崩壊の構図~ジャック・モーガンを殺したのは誰か?」(一灯舎刊、オーム社発売)を私の監訳で出版した。この著作は、一九九七年に刊行の『医療サービス市場の勝者』、二〇〇三年に刊行の『消費者が動かす医療サービス市場』に続くヘルツリンガー教授による三部作の掉尾を飾る医療政策論の輝ける金字塔である。
原題は『Who Killed Health Care』、タイトルからして、まことに挑発的な本書は、実際にも殺人ものミステリーのスタイルで書かれている。「ジャック・モーガンを殺したのは誰か?」という謎を解いていく物語である。ジャックは腎臓移植を待っている間に命を落としてしまった犠牲者である。『オリエント急行殺人事件』と同様に、殺人者は一人ではなく、多数の殺人者が絡んでいて、その謎を解くのは難事である。
彼ら殺人者は五人で、医療保険会社、非営利の大病院、雇用主企業、連邦政府、それに専門家集団まで加わっている。被害者のジャック・モーガンは、カリフォルニア州を本拠とするカイザー・パーマネンテの医療保険に加入し、腎臓移植を待っていた善良な市民である。
事件はカイザー保険に加入していた腎移植候補患者百十二名が、二〇〇五年中に死亡したことが明らかとなったもので、ジャック・モーガンはこの惨事の経験から合成して創りだされた典型的な医療被害者である。後日わかったことではあるが、カイザーの腎臓移植の待機リストに載っていた百十二名のうち、二十五名には移植されるべき臓器が用意されていた。ところが、実際には移植手術は一件も行われなかった。誰かが彼らを殺そうと意図したわけではなかったが、彼らが殺されたことに変わりはない。
そこで、カイザーのどこに欠陥があったのか、このミステリーの犯人探しが始まる。カイザーは高度な先進医療を実現しようという志の高い医師たちによって創設され、この臓器移植計画自体は悪いものではなかった。それにもかかわらず、この医療システムが間違った方向へ進んだのは、マネジドケア保険が商業化し、保険会社が医師に対して医療費の節約を強要するといった、当初の意図とは反対のことが行われた故である。
著者は「米国の医療は、殺されて死んでしまった」と判断している。それは、自由な市場での競争原理が抑圧されて働かなくなり、本来市場の中心に位置すべきである医療消費者(患者)が、外へ追いやられて完全に疎外されてしまったからである。
そこで、消費者が無理なく支払える価格で、高い質の医療サービスを提供するにはどうすればよいか。著者は、さきに挙げた五人の殺人者を排除して、消費者と医師との直接交渉を重視することが出発点になると考えている。これを軸に、消費者が動かす医療システムへ向けての新しい大胆な改革案を本書で提示している。それは、医療保険料を雇用主や政府から消費者の手に移し、低所得の無保険者には政府が直接補助をし、医師と患者の間に介在する中間の存在を排除して、消費者と医師にこのシステムを機能させる力を与えることである。
米国では、一人当たり年間百万円近くの医療費を費消しており、この額はわが国の三・四倍である。このように巨額の医療費が使われているにもかかわらず、米国の医療問題となると、総人口三億人のなかで四千七百万人にも達する「無保険者」の存在が指摘され、米国のような先進国では考えられない政治の無施策であると批判されている。著者もオバマ大統領が志向する皆保険化に賛成であり、すでに州独自で皆保険が実現しているマサチューセッツ州方式の利点を本書でも詳しく解説している。
しかしながら、著者は、必ずしも、無保険者対策が医療システム改革の最重要課題であるとは見ていない。現に、本書の主人公であるジャック・モーガンは、カイザー・パーマネンテの医療保険に加入していながらも、死ななくても済んだのに,死んでしまったのである。一方で、米国ではすべての病院が慈善医療に注力して、その成果を誇示しており、この慈善医療を保険システムに取り込めば、無保険者問題の相当部分が片付くものと見ているからである。
二〇〇七年に日本で公開されたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シッコ』の原題は、sick から派生した米語のスラングで、「狂った」とか「病的な人や物事」を指し、米国の医療制度は狂っているということを一語で端的に示している。この映画の問題提起も無保険者の悲劇ではなく、手厚いはずの民間保険に入っていたにもかかわらず見捨てられた膨大な人々や、公的医療保険でカバーされているのに必要な治療が受けられない高齢者と低所得者が体験した真実のドラマであった。
翻って、わが国の医療システムについて、著者ヘルツリンガー教授はどう見ているか。日本語版に寄せられた序文の一部を次に引用してみたい。
「日本経済がめざましい革新に満ちていることは、世界的な競争市場で気を吐く電子、自動車などの産業の好調さからも見てとれる。一九五三年に、米国の自動車産業は圧倒的な強さを誇り、大統領顧問の一人が『ゼネラル・モーターズにとってよいことは、米国全体にとってよいことだ』と豪語したほどであった。だが、二〇〇八年には、ゼネラル・モーターズは優れた日本の自動車メーカーとの競争で深手を負い、何十億ドルもの損失を出している。
ところが、日本経済の特質とも言える盛んな競争と優れた品質とサービスは、医療サービス分野においてはすっかり影を潜めてしまっている。政府による厳しい規制、既得権益に群がる者たちによる革新の抑制が、競争と革新を窒息させているのである。
本書では、こうした問題の根本原因を分析し、米国人だけではなく、日本の皆様にも医療サービス分野における競争の利点がもたらす実現可能な解決策を提示している。
日本の医療費は、公的医療保険の存続を脅かすほどの勢いで増加している。医療においても、自由市場ではなく、政府が診療報酬価格を決定するとき、どのような結果をもたらすかは火を見るより明らかである。政府による価格統制は、投資を歪め、競争を抑える。政府が価格を統制する産業に、いかなる革新的企業家が新規に参入したいと望むであろうか?」
日本の医療システムに競争をもたらすには、官僚でも政治家でもなく、一般の人々に医療サービスをコントロールさせること、医師や病院の行う医療サービスの質を確実に評価し公開すること、そして、医師や病院や保険会社の間の競争を阻む規制を取り払うことであるというのが、著者の提言である。
本書が呈示してくれている消費者中心の考え方は、医療関係者はもとより医療サービスを利用する個々人が心しなければならない基本ではなかろうか。
わが国では、政府による診療報酬、薬価の規制、患者の無関心と医師への信頼により、比較的には低コストで効率的な医療が提供されてきたが、最近では医療事故の多発、情報開示の不足、特定分野の医師不足問題などが露呈している。医療サービス産業への参入障壁が高すぎる結果として、寡占的供給者の資本主義的な利益追求が、社会保障としての医療に弊害をもたらす点は日米ともに変わりがない。
本書の論調は、消費者個人の自発的活動と小さくても効率のよい医療機関経営とが自由公正に機能するように、安全性確保や情報公開徹底のための社会的規制以外の経済的規制は極力排除すべしとの主張であり、説得力がある。
この訳業は、銀行を退職してから十年間にわたり広島国際大学と医療経済研究機構において医療経済の研究に関わってきた私にも一仕事終えた達成感と安堵感をもたらしてくれた。
(岡部陽二、元住友銀行専務取締役、広島国際大学教授)
(2009年4月15日、(社)日本工業倶楽部発行、「会報」第228号、平成21年4月号p53~56 所収)