一昨年4月、40年間にわたる銀行・証券業界での実務生活に一応の終止符を打って、広島国際大学の教授に転身しました。大学教授になって最初の課題は医療経営学科で担当する「国際経営論」の講義と演習のテーマを定めることでしたが、何をテーマにどんな内容を教えればよいのか、医療経営の世界は全く初めての私には焦点が定まらず、弱っておりました。そんな折にニューヨークでインベストメント・バンカーとして活躍している旧友の神谷秀樹君が、ハーバード大学経営大学院のレジナ・ヘルツリンガー教授が著した「マーケット・ドリブン・ヘルスケア」という本が米国では大変な人気で、よく売れていると言って、一冊進呈してくれました。
一読して見ますと、米国でも医療機関の経営は生産性が低く、利便性の面でも見劣りがする。これを合理化するには、1970年代の構造的大不況から不死鳥のごとく蘇った製造業や進んでいる流通サービス業がとった焦点を絞り込みの戦略を採り入れるべきであるとする論旨は、至極明快で説得力がありました。感心しましたもう一つの視点は、医療サービスの供給者が消費者(患者)の利便性向上に努力するだけでは不十分で、消費者自身が知識を蓄えて、医療においても消費者革命の旗手として自己主張すべしとの提唱です。早速この本を翻訳出版する決意をし、大学時代の友人が社長を務めているシュプリンガー・フェアラーク東京での出版がこの4月に実現しました。
邦訳版のタイトルを「医療サービス市場の勝者」としました本書は、1970年代後半から始まった米国の製造業とサービス業の力強い復活、生産性向上へ向けての企業戦略を余すところなく調査・分析しており、わが国経済再生のための経営全般にわたる指南書ともなっております。著者はこの手法を、1980年代後半からようやく改革を目指して動き出した米国の医療サービス業界へも導入すべきとして、脂肪を筋肉質に変えるリサイジングと的を絞り込んだ医療フォーカスド・ファクトリーの実現を提唱しています。一方、著者はその後1990年代を通じて米国での医療改革の主流となりました出し渋りを旨とするマネジドケアの手法には極めて批判的で、マネジドケアの考え方自体を切捨てご免で、「とにかくノーというダイエット」として否定しております。
著者が本書の結論の一つとして声高に提唱しておりますのは、企業などが従業員に代わって医療保険を掛ける「第三者支払システム」を改めて、企業負担の保険料をそのまま従業員へ支払い、個人の責任で自分に最も適した医療保険を選択できるようにすべきであるという「消費者直接支払方式」への転換論です。政府や産業界もこの改革提案の実現に向けて真剣に取組む兆しが見えており、これから一両年中には米国の医療システムも大きく変貌するものと予想されます。本書がこのような専門書としては例を見ない7万部を超えるベストセラーとして洛陽の紙価を高め、ペーパーバックにもなって引続き販売部数を伸ばしておりますのは、その証左と申せましょう。
今年1月にお会いした著者のヘルツリンガー女史はハーバード大学経営大学院では女性初の終身専任教授です。歯切れのよい彼女の講義は有名教授が多いハーバードでも最も人気のある講座の一つに選ばれております一方、医療関係だけではなく、トラクター・メーカーのディア社など数社の社外重役、非営利団体の役員などを勤め、さらにベンチャー・ビジネスにも参画するなど一年中全米を飛び廻っている超多忙なスーパー・ウーマンです。また、出版社から紹介頂いた共訳者の竹田悦子さんは大学教授夫人として4人のお子様の母親役をこなしながら、プロの翻訳家を目指して、すでに八冊の翻訳書を世に問われている才媛です。そのエネルギシュな仕事振りには脱帽するしかない日本のスーパー・ウーマンです。しかも、大学でのご専門はフランス語ですから、彼女のお蔭で、堅苦しい経営書がすぐれて文学的な香りの高い作品に仕上がりました。このお二人の女性パワーに大いに啓発されたのは、本書の翻訳を通じての大きな収穫でした。
わが国でも昨今、医療制度改革の柱として米国流のこのマネジドケアを採り入れるべきとの主張と、逆に米国流のやり方はわが国にはそぐわないとの考え方が論議され始めました。この是非を論ずるに当りましても、医療サービスも市場原理をフルに活用して効率化を図れば他のサービス業と何ら異なるところはないとする本書の基本的な考え方は、わが国医療業界改革に当っての貴重な指針になるものとの確信を一段と深めております。本書が医療関係者だけではなく、銀泉会員の皆様方はもとより医療と経営に関心を持っておられる幅広い層の方々にお読み頂けることを切に望んでおります。
(岡部陽二)
(2000年7月発行、住友銀行OB誌「銀泉」第120号p60~61所収)