はじめに
このほど私の監訳で出版した「医療サービス市場の勝者」の原著"Market-Driven Health Care"は米国で2年間に亘って時事問題書籍のベストセラーとなり、7万部を超えて販売部数を伸ばしている。全米医療経営者育成協会からも年間最優秀賞を贈られている。医療サービス産業の本質は国を異にしても基本的には変わらないので、わが国の医療機関経営に携わっておられる方々も本書から多くのヒントを掴んで頂き、経営管理の現場で役立てて頂きたいものと念願している。
ところで、ハーバード大学経営大学院の女性教授、レジナ・E・ヘルツリンガー先生は、風貌はチャーミングで柔和ながら、とにかくエネルギッシュな行動派の先生である。一年中、講演などで全米各地を飛び回っているだけでなく、メーカーなど十数社の社外役員や医療団体の理事・アドバイザーなどを務め、夫君が立ち上げたベンチャー企業の経営にも参画している。本書はこうした現場経験から得られた百件を超すケース・スタディに基づいて構築されているだけに、実践的な政策論でありながら、ノンフィクションのように面白い。
医療サービス市場において誰が勝者となり、敗者となるのか。その答えを得るために、著者はマクドナルド、ウォールマート、トラクター・メーカーのジョン・ディア社などの成功要因を徹底的に分析し、失敗例についてもその原因を追及したうえで、病院など医療機関の経営もこれらの一般企業と何ら異なるものでないと説いている。事業内容や目標の絞り込みも重要ではあるが、成功の鍵は人事・訓練・施設の設計などオペレーション・システムの細部に宿るという具体的な指摘には説得力がある。
米国の医療経済論は、医療費の高騰を抑制するために、これまで医師の裁量に委ねられてきた治療行為を医療保険機関がチェックして管理すべしとのマネジドケア論が中心で、その管理手法を高度化することに主眼が置かれてきた。これに対し、著者は、マネジドケアは「とにかくノーというダイエット」と切り捨て、マネジドケアの強化によってもたらされた医療の質の低下と管理コストの無駄の方がはるかに大きいことを実証している。ここ一両年来、米国ではマネジドケア組織の破綻が相次ぎ、医療保険と病院とを垂直統合した試みもすべて失敗するなど、過去20年近く一世を風靡してきたマネジドケア万能論は修正を迫られ、著者のマネジドケア批判論の正しさが実証されている。
そこで、著者は、病院は「脂肪を筋肉質に変えるダイエット」を実行して、ベンチャー精神をもって得意とする専門分野に特化すべきと主張している。そうすれば、専門分野に特化した医療フォーカスト・ファクトリーと患者との直接交渉で市場原理を通じた医療の質と価格との均衡が図れると結論づけている。そのためには、病院側も患者の利便性を高める努力をしなければならないが、患者も常日頃からもっとよく勉強して賢く強くならなければならない。本書は医療経営改革の方向を幅広く提示しているが、以下の3点に絞って、概要のみご紹介したい。
医療技術や機器の進歩に対する適切な評価
米国の医療費が高いのは、諸外国より多くの高度医療技術と医療機器を持ち、それを国民がより多く利用しているからである。このような高度技術や設備が本当に必要なものかどうか。米国の病床稼働率は常に6割を下回っているので、設備や機器の使い方に非効率はないかといった吟味は必要である。しかしながら、これらの投資が米国人の生活の質を押上げ、病気で仕事を休んだり、慢性病で苦しむ国民が減ったりすることによる米国経済全体への寄与には計り知れないほど大きなものがある。たとえば、米国における心臓手術の実施率は隣国カナダのおよそ3倍であるが、実態調査の結果でも米国の手術に不必要なものはなかった。カナダでは手術待ち日数1~2カ月が7割を占めるに対し、米国では7日以内が7割を占めている。
最新医療技術や機器の開発は手術に伴う患者の痛みを和らげるだけではなく、医療コスト低減に寄与するケースも多い。だが、それ以上に重要なのは多くの医療技術が生活の質を高めてくれる事実である。たとえば、心臓発作を起こし開胸手術などを受けた米国人とカナダ人の追跡調査では、より少ない処置を受けたカナダ人の方が心臓の不調を訴え、機能の回復も遅かった。これはカナダ人だけの不幸ではなく、米国以外の世界には医療技術の不足による問題が溢れている。
医療の分野では新技術が新たな需要を喚起することは稀であるため、パソコンなどの電子機器のように技術の高度化が価格低下に結びつくことはなく、逆に医療費を押上げるのはむしろ当然である。米国の国民医療費は対GDPで14.1%(1997年実績、わが国は7.3%)と先進24カ国中でも最も高いが、10年後には19%にまで高まるものと推計されている。英国はこの時点では6.7%と最低であるが、ブレアー政権はこれを早期に9%まで高める政策を打出している。よりよい医療サービスを受けるには、それ相応のコストを支払うのは当然であり、問題はそのコスト負担のあり方に帰着する。本書でも医療費の無駄を減らす方策は種々議論されているが、医療費全体が膨らむこと自体は、その国の学術や経済の先進性の結果と割り切った評価をしている。
わが国の医療保険制度においても新医療技術を正当に評価して加算する仕組みが不可欠であり、このことが医療の質向上のみならず、長期的には医療費支出の効率化にも貢献するとの認識が必要である。
症例数の集中化によるフォーカスト・ファクトリー型医療機関の必要性
フォーカスト・ファクトリー自体は従来のベルト・コンベアーで繋がれた広大な工場で多品種の製品を製造するのではなく、限られた範囲の製品や部品に絞り込んで単一の小工場で一貫して生産する専門工場を意味する。これは日本やドイツとの大量生産競争に敗れた米国の製造業をいわば解体して、その一部を高収益企業として復活させるための手法として開発された。本書では、農機具メーカーのディアー社の成功例が紹介されている。サービス業ではマクドナルド社の経営戦略が提供商品のメニューを絞り込んだまさにフォーカスト・ファクトリー型である。
著者は医療分野においても、あらゆる疾病を対象とした総合病院の組織は破滅した重厚長大産業に近いとして、ディアー社やマクドナルド社に倣った癌とか心臓病、足の病気といった特定の専門分野に特化した病院での集中処理を提唱している。その典型として、ヘルニア専門のショルダイス病院と癌専門のサリック・ヘルスケア・センターがヴィヴィッドに紹介されている。フォーカスト・ファクトリーの狙いは、経済的効率性の追及もさることながら、医療の質を向上させる効果が大きいことに主眼が置かれている。フォーカスト・ファクトリーでは同じ種類の手術を多数手掛けることによって熟練度が上がり、手術の成功率が大巾に向上するだけではない。癌のような難病には、癌細胞を切除するというだけではなく、付随して起こる病気への対応や精神面、環境面など多面的な配慮が必要であるが、これをシステム的に解決するに相応しい組織がフォーカスト・ファクトリー型である。癌に関連したあらゆる分野の専門家を一カ所に集めて、患者が必要とするすべてのサービスを提供できるからである。筆者によれば、医療分野に欠けているのは高品質を常に維持するためのシステム対応である。マクドナルド社の細部に亙っての管理マニュアルによるシステム運用に比べ、医療のシステムは遥かに立後れている。医療システムの不備というよりも、システム自体が欠落していると手厳しい。
わが国の病院数は米国よりも人口比では3倍も多く、医療資源が全国の病院に巾広く分散している。その結果として医師の新技術修得や蓄積が遅れ、医療技術の分散が先端的な医療や癌などについての包括的な医療サービスを患者に提供する面での阻害要因になっている。画像診断医療機器について見ても、MRIの普及度は米国を凌いでいるが、わが国で普及しているのは比較的安価な汎用機器であって、高機能な高磁場機器は少ない。フォーカスト・ファクトリーの手法を採り入れた専門病院化・高度化が急がれる所以である。
患者に対して医療情報を提供するインフラの整備
著者は病院など医療サービスの供給者が患者の利便性向上に努力するだけでは不十分で、消費者自身が知識を蓄えて、医療においても消費者革命の旗手として自己主張すべしとの提唱している。医療経済の世界ではよく「情報の非対称性」ということが強調される。これは専門家の医師は病気についてよく知っているが、患者は病気についての情報を持っていないので、対等の取引関係は成立し得ないという状況を指している。したがって、医療は患者の自由な選択には馴染まない。だから、医師のパターナリズムによって温情的な処置が施され、時には政府の介入や規制によって患者は保護されなければならないとの結論に導かれるのが通例である。著者の考え方はこれとは逆で、だからこそ患者はもっともっと勉強して賢くなり、自分の目で確かめて、よい医療サービスを自ら選択しなければならないと力説している。
「患者ももっと勉強して、賢くなれ」といわれても米国とは異なり、わが国では患者が医療内容についての知識や医療機関の技能レベルの実績を知り得るための情報が極端に不足している。医療の質を病院ごとに客観的な基準に基づいて評価する医療機能認定制度一つをとって見ても、米国では50年の歴史を持ち、1,000人以上のスタッフを擁する認定機関が病院だけではなく、保険や福祉機関などを含む約2万機関の評価を行っており、これが厚生行政とも密接に連係している。わが国の同種機関は設立早々でスタッフ数も10人あまり、行政との繋がりはなく、米国との彼我の格差は極端に大きい。せめてこのような評価機関の機能を早期に充実して患者への情報提供を充実することが、医療の質を向上させる捷径であろう。
(広島国際大学教授 岡部陽二)
(2000年10月GE横川メディカル・システムズ発行「GE today」41~42頁所収)