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証券市場に学ぶ医療サービス改革

                                     
 このほど、私の監訳でハーバード大学経営大学院レジナ・ヘルツリンガー教授著の「消費者が動かす医療サービス市場」を出版した。本書は3年前に邦訳版を出版した同じ著者の手になる「医療サービス市場の勝者」の続編として,前書の原著出版後、この六年間に起こった米国医療の変貌を詳細に分析のうえ、医療サービス・システムの未来図を大胆に描いた政策提言の書となっている。

 著者はかねてより「市場原理を導入したマネジドケア(管理医療)」というコンセプト自体、論理矛盾であるとして全面的に否定する論陣を張ってきた。結果的には、1990年代に米国で一世を風靡したマネジドケアは、著者の予測どおり消費者に嫌われて「出し渋り医療」のレッテルを貼られ、今や完全に崩壊している。本来、医師と患者の合意により成立すべき医療行為に、医療費抑制のための手段として第三者である保険団体が介入して、ゲート・キーパー医を通さないと専門医に診て貰えないとか、手術の必要性や方式にまで保険団体が口を挟むといった不条理が罷り通ったのは、たしかに行き過ぎであった。医療費抑制のためのマネジドケアに要する管理費用が嵩んで、これが医療費の膨張に拍車を掛けるといった矛盾も発生している。

 その結果、2000年代に入って、米国の医療費は再び二桁台の急上昇を始めているが、この高騰を負担する資金余力は企業保険にも公的保険にもなく、結局は患者の自己負担増となっている。このような事態に対処して、高い質の医療を持続的に支える方策として、著者は本書において証券市場で成功したいくつかの方式を医療サービス市場にも導入すべきであると論じている。

 その第一は、医療保険についても、年金保険と同様に四〇一k型の確定拠出方式を採用すべしという主張である。雇用主企業の保険料負担を抑制すると同時に、消費者の主導権と選択権を充足させる仕組みとして、「確定拠出型」が優れていることの論証が本書の中心テーマとなっている。

 一口に医療といっても、その内容はますます多様化・高度化しており、消費者の医療サービスに対するニーズは区々である。たとえば、健康に自信があるので、不慮の事故にだけ備えたいとか、慢性疾患に罹った場合の長期療養のカバーが不可欠であるといったのが個々人の要望であり、まさに401k年金での「高リスク・高リターン」か「低リスク・低リスク」かの選択と同工異曲である。雇用主企業が多様な医療保険商品を品揃えして従業員に選択させることにより、従業員の満足度を高めることができる点に「確定拠出型」のメリットのポイントがある。その一方では、限定されたリスクに対応した保険商品の設計を保険会社に競わせることにより、保険料の引下げを可能にするという考え方である。

 今のところ、この「確定拠出型」医療保険は、米国では主に中小の保険会社が手掛けており、2001年の市場シェアは8%程度に過ぎない。ところが、数年内には大企業も雪崩を打って現行の「確定給付型」から「確定拠出型」の医療保険へ移行するものと、著者は大胆に予測している。この予測が当たれば、「確定拠出型」が民間医療保険の主流となり、大手の医療保険会社も現在の企業向け卸業務から、消費者の選択肢を豊富に取り入れた小売業務へと舵を切り替えざるを得なくなる。

 第二のポイントは評価システムである。証券市場には、ムーディーズのような歴史のある格付け機関に加えて、投信のリスクを定量的に測定して五つの星で簡潔に評価するモーニングスターのような評価会社などが多数存在する。その評価を頼りに、企業の内容を分析する能力など持ち合わせない素人であっても、ある程度安心して株式や投信に投資をすることが出来る。もっとも、証券市場における情報の開示度にも問題はあるが、会計基準の統一や評価会社の努力によって、一段と整備が進んでいる。医療の世界にこのような仕組みを採り入れる努力も一部でなされてはいるものの、まだまだ情報不足であり、客観的な評価基準も確立されていないのが現状である。

 本書によれば、米国でもっとも信頼されている医師の評価は、医師仲間の同僚評価を基に3万人以上の医師を評価した「ベスト・ドクターズ」である。医師の質を独特の手法で評価する事業をベンチャー企業として始めたのは、ピューリッツアー賞を受賞した伝記作家二人で、そのうちの一人が最初に診て貰った医師から脳腫瘍で余命数ヶ月と診断されたことが、名医探求の動機となった。彼の命を救ってくれた医師を自分で探し出した経験が、「ベスト・ドクターズ」というコンセプトとして結実した。彼らのサービスを受けた人々の多くは、そのサービスを絶賛している。それは、単に情報を得る過程が短縮されるというだけではなく、利用者に決定権を与え、生きる力を与えてくれるからである。

 第三に、証券市場の効率性を高めるための知恵の中で、医療界にも採り入れる必要があるのは,医療版SEC(証券取引委員会)の設立であると著者は主唱している。証券市場における取引価格は情報によって形成されているが、その情報の公正さを担保しているのが、SECの機能である。情報そのものは企業や評価機関から発信されるので、SECの役割は「真実を告げる義務」を売手に課して、すべての重要な事実を公開させることにある。1934年に,証券市場の信頼を回復させるための切り札としてフランクリン・D・ルーズベルト大統領が設立に踏み切ったSECが、その後の米国証券市場の健全な発展に寄与した効果には絶大なものがあった。

 一方、医療サービス情報については、情報量も限られており、その質の評価がまだ初期の段階にあることは誰しも認めるところである。何を公開し、どう評価すればよいのか、どこまで公開すべきか、個人の特性に応じた調整はどうするのか等々未解決の問題が多い。消費者のほとんどが現在入手できる情報には見向きもしないのは当然であろう。このような状況から脱却して、消費者の信頼をかちとるには、医療機関に真実を告げる義務を課して、それを常時監視する公的機関の設置が必須であると著者は力説している。

 医療サービスの質を高めるには、消費者に選択肢と決定権を与えることが何にもまして重要であること、そのために不可欠な正しい情報を医療機関などが豊富に提供し、その真実性を担保する仕組みが必要であることを、本書は具体的に分かり易く懇切に説いている。

 (岡部陽二、個人会員、広島国際大学教授、医療経済研究機構専務理事)

(平成16年2月9日発行日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第75号 p22~23所収)

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