5、ロシアの人口問題
ロシアの人口は、ソ連邦崩壊直後の1992年をピークに減少に転じ、総人口は2009年1月までの17年間で約6.6百万人減少した。2007年以降、減少幅は縮小し、2009年には自然減を移民増でカバーして10.5千人増と、18年ぶりに僅かながら人口増を記録した。ようやく長年の人口減少は一服した感があるものの、この主因は移民の流入増であって、長期的な人口減少傾向に終止符が打たれたものかどうかは判然としない。また、平均寿命は67.9歳(男性は61.8歳、2008年)とBRICS4ヵ国の中ではインドを若干上回るものの、中国(74歳)、ブラジル(73歳)に比してかなり低い。一方で、ロシアの医師数(2008年)は、人口1,000人当り4.54人(日本は2.15人)と主要国の中では世界一多い。この矛盾について、ウィキペディアは"Health in Russia"の冒頭で次のように分析、今後は急速に改善するものと予測している。
「ロシアは人口比で見ると世界のどの国よりも多くの医師、病院、医療従事者を擁している。それにもかかわらず、ロシアの人口はソ連邦の体制崩壊来減少を続けており、この人口減少は社会的・経済的混乱やライフスタイルの変化などによる健康状態の悪化に起因する。しかしながら、2000年にプーチンが大統領に就任以来、公的医療費の支出を大幅に増やし、2006年には1991年以前の水準を実質的に上回った。平均寿命も1991~93年の最低水準から脱却し、乳幼児死亡率は1995年の18.1(1,000人当り)から2009年には8.2に顕著に改善した。プーチン大統領は2011年から大規模な医療改革に着手すると宣言、ロシアの保健向上に毎年3,000億ルーブル(約1兆円)を投入するとしている。同時に強制医療保険(OMS)の保険料(全額雇用主企業負担)も現行の3.1%から2011年には5.1%に引上げられる」。①
果たして、ロシアの人口問題はこのシナリオのように楽観視できるものであろうか。OECDの"Economic survey of the Russian Federation 2006"は、次のようにきわめて悲観的な見方をとっている。「ロシアの健康・保健・福祉の崩壊は1970年代に始まり、90年代以降に加速し、依然としてこれを克服できるには至っていない。もちろん、経済発展と医療費支出増によりいくつかの指標は改善傾向を示してはいるものの、健康状態改善の全体像はきわめて厳しい。平均寿命もソ連邦時代のピーク時を大きく下回っている。これは「医療の崩壊」ではなく、「健康の危機」と捉えるべきである。適切な医療サービスにアクセスできないという医療提供体制の不備からは、きわめて高い死亡率のほんの一部の理由を説明できるに過ぎない。高い死亡率は、居住環境条件の悪化、貧しい生活水準、生活スタイルの劣化、多い交通事故死、エイズの蔓延といった多くの複合要因が累積した結果である。医療の充実に資金を重点投入すべきはもちろんのことであるが、それだけではなく、これらの複合的な要因を解明する政策対応が切に望まれる。」②としている。
1990年代の初めから、人口減少が始まった国は、世界の大国の中ではロシア一国のみである(ドイツは2002年、日本は2007年をピークとして人口減少に転じている)。90年代前半にはソ連邦の崩壊からロシア連邦への体制変化はあったものの、戦争、内乱や飢饉といった国民の生命を脅かすような異常事態はなかったにもかかわらず、17年間にわたってコンスタントに人口が減少し続けた要因は奈辺にあったのか。また、政府予測のとおり、諸施策が奏功して今年から人口増加に転じるのであろうか。これらの諸点について、以下に様々な視点からの考察を試みたい。
(1)人口の推移と減少要因
ロシア連邦が成立した1991年以降に初めて実施された2002年の国勢調査によると、ロシアの総人口は、145.2百万人(2002年10月9日現在、1月1日では145.6百万人)であった。帝政ロシア時代の1897年に行なわれた最初の国勢調査の70百万人弱から約100年間で2倍強に増加している。
第二次世界大戦で激減した後の1950年の総人口は約100百万人であったが、1980年代までは毎年0.5%から1.5%程度の増加率で増加し、1992年には148.5万人に達した。この年をピークとして、その後は表1に見られるとおり、漸減に転じ、2009年1月現在では141.9百万人と、ピーク時比6.6百万人減少している。表1に掲げた移民を除く自然人口の減少数(出生数と死亡数の差)を累積すると、この17年間で10百万人を超える自然減があったものと推定される。この自然減の1/3程度を移民の純流入増でカバーして、総人口の減少が6.6百万人に留まったものである。
ところが、2009年には年間10.5千人増となり、2010年1月現在では、18年ぶりに僅かながら人口増を記録した。これは249千人にまで縮小した自然減を移民増でカバーして若干プラスとなった結果である。この人口増への転換は定着するのか、一時的な現象で終わるものなのか、見方は分かれている。米国の人口学の権威であるニコラス・エバースタット氏は「ロシア政府は、石油・天然ガスに依存した経済成長には熱心であるが、出生率の向上といった民生への投資には消極的である。現在のロシアには共産主義という亡霊ではなく、止めようのない人口減少と言う亡霊が徘徊している」と手厳しい見方をしている。③
また、ロシア通の日経新聞小田健氏も、長年の人口減少は一服したものの、その主な理由は移民の純増と出生数の増加である。いずれの要因も一時的であり、長期的な人口減少傾向は変わらない、と悲観的な見方をとっている。④
そこで、ロシアの人口動態の要因をさらに分析すると、出生数は2007年以降、はっきりと増加に転じている。表3に見られるとおり、女性の合計特殊出生率も2007年;1.41、2008年;1.49と、1992年以前の水準に戻ってきた。一方、死亡者数は、表1に見られるとおり、2006年の2,667千人から2009年には2,013千人へ大幅に減少している。出生数の増加と死亡者数の減少が、このままのペースで進めば、2~3年後には自然減から自然増に転換し、移民の純流入増に依存しなくても、向う20年間程度は人口増加が続くことは間違いないものと見られる。
表2に掲げたロシア政府国家統計局の将来予測では、2030年に中位推計値で現在より約2.6百万人減、高位(楽観)推計値では約5.6百万人増を見込んでいる。もっとも、この高位(楽観)推計値でも自然増はなく、自然減の幅が拡大するだけで、人口増は移民の純流入増に依存すると見ている。しかしながら、政策次第で当面は自然増も必ずしも不可能ではなく、この予測は早晩見直されるのではなかろうか。
最近時点でのロシアの性別、年齢別人口構成は図1のとおり、総人口141.9百万人のうち女性が76.3百万人と53.7%を占めている。65歳以上においては、男性6.0百万人、女性12.9百万人と女性の方が2倍以上多い。これは、男性の平均寿命が60歳前後と、女性よりも13~14歳も短い状況が、体制変換来続いてきたことが主因である。ロシアにおいても、高齢化は進んでいるが、男性の平均寿命が短いため、65歳以上の比率は13.1%と低く、高齢化は深刻な問題とはなっていない。
ロシアの結婚・離婚件数は、表3に掲げたとおり、結婚件数が2007年に体制転換後最高の水準に急上昇している点が注目される。離婚件数の水準は引き続き高いが、結婚件数の急増と相まって、合計特殊出生率も2007年以降格段に高くなった。人工中絶件数がかつては出生件数の2倍を超えていたが、これも1倍以下に低下している。
ロシアの総死亡者数推移と主な死因別統計を表4に掲げた。これによると、人口100,000人当りの死亡者数は1992年以降漸増を続けてきたが、2005年の1,610人をピークとして下降に転じ、これが男性の平均寿命の伸びに繋がっている。死因別では、心疾患・高血圧などの循環器系疾患が圧倒的に多く、常に総死亡原因の過半を占めている。悪性新生物(がん)は14%を占めるが増加傾向は見られず、大きな問題とはなっていない。次いで多いのが、事故・アルコール中毒・傷害などで約11%、ピーク時に比べると顕著な改善ぶりを示しているが、循環器系疾患の主因でもあるアルコール依存症と交通事故死が依然として異常に多い。呼吸器系や消化器系の疾病や伝染病は少なく、その他の疾病で問題視されているのは、HIV/エイズと結核の増加である。
ロシアの患者統計は、きわめてよく整備されており、疾病構造の変化などは詳しく把握されている。表5は、その中から疾病別に2000年と2008年の総患者数と初診患者数の対比を摘記したものである。これによると、疾病全体では総患者数、初診患者数ともにこの8年間ほぼ横這いである。しかしながら、疾病別に見ると、高血圧性疾患、狭心症などの心疾患を中心とする循環器系疾患がこの8年間で5割増と大きく増えている。悪性新生物(がん)糖尿病、神経系疾患、尿路性器系疾患も増加しているが、一方で感染症や呼吸器系疾患は減少している。
(2)他国との対比
上述の人口動態に関連した統計指標につき、比較可能な項目について、日本、米国、フィンランドとの対比を表6にとりまとめた。フィンランドは、1917年のロシア革命の翌年に共産化し、第二次世界大戦後も80年代までソ連の実質支配下にあったが、何とか独立を維持して、近年はIT産業を中心に高い経済成長を続けている。1,313キロにわたって南北にロシアと国境を接しているため、気候条件も近く、国民性は似通っている。フィンランドに30年ほど遅れて資本主義化に取組み始めたロシアも、経済成長を続ければ、フィンランド程度の健康指標は10年から20年で達成可能ではなかろうかと思われる。
ロシアの年間出生数12.4人(人口1,000人当り)は米国を若干下回るが、日本よりはかなり多い。問題は年間死亡者数であり、他の3カ国より5割以上も高い。このために、平均年齢は66.5歳(全国民)と、米国・フィンランドに比べても13歳ほど短い。男性が16歳も短い点が問題である。
ロシアの過去56年間にわたる平均寿命推移とそのOECD31ヵ国平均値との対比を男女別にグラフ化したものを図2に掲げた。これによると、OECD平均は1960年以降一貫して上昇しているのに対し、ロシアは急激な短縮に転じた1992年以前の旧ソ連邦時代においても、男女ともにほぼ横這いに推移、OECD平均とのかい離は拡大を続けてきた。90年代前半の混乱期に生じた短命化は94年には一旦ボトムアウトしたものの、98年の経済危機下で再び下落した。もっとも、本図は記載されていない2007年以降には急回復している。
男女別の平均寿命差について見ると、OECD平均の男女差は6歳弱で長期にわたって一定している。一方、ロシアでは1960年でも9歳と大きかった男女差が、その後も男性の短命化が顕著に進み、2006年には13.6歳にまで拡大しているのは異常である。
表6で見ると、ロシアの結婚数(人口1,000人当り)は4ヵ国中もっとも多い。しかしながら、他国比で離婚率が高いことや中絶件数が多いことが、出生数が増えない要因と指摘されており、合計特殊出生率は1.49に留まっている。離婚率や中絶数は減少傾向にあるところから、今後出生率が向上する可能性は高い。
死亡原因について見ると、疾病では心疾患を中心とする循環器系疾患による死亡が他の3ヵ国比3倍以上も多く、平均寿命が短いにもかかわらず、がんも他国比多い。疾病以外では、交通事故死は日本のちょうど10倍、殺人は35倍、自殺は1.1倍である。もっとも、米国との対比では、交通事故死は1.5倍、殺人は2.3倍、自殺は2.5倍に留まっている。
アルコール依存症による死亡が大きな問題となっているが、アルコールの摂取量(アルコール飲料の摂取量ではなく、純アルコール分のみの摂取量)は、米・日より若干多い程度で、フィンランドと変わらず、フランスの13.5リットルやドイツの12.9リットルに比べると低い。
(3)ロシアにおける人口減少の要因別分析
ⅰ、出生率低下の一因となっている人工妊娠中絶の多さ、出生後の乳幼児死亡率の高さ
表6で示した中絶数の多さが不妊症を増やし、出生率低下の一因となっていると指摘されている。2006年の中絶件数は、1,582千件、女性1千人当り年間40.3件である。減少傾向にはあるものの、西欧諸国の女性1千人当り年間15件程度、日本の10件弱と比べると極めて高い。妊娠の約6割が中絶されているということであるが、これは公式統計の数字であり、実際にはこの倍近くの中絶が行なわれているとの記述もある。
このように中絶が多い理由としては、健康への危険を軽視するロシア国民の一般的な態度、避妊の責任は女性にあるという認識、ピルへの偏見からピルを使いたがらない態度などが影響しているとされている。⑤ もっとも、経済情勢の好転もあって、中絶件数は近年急速に減少しているので、早晩出生率の向上に繋がるものと思われる。
一方、出生後1年未満の乳幼児死亡率(出生1,000当り)は、1995年の18.1をピークとして漸減、2006年;10.2、2007年9.4、2008年8.5と近年顕著に改善を見ているが、表6に示したとおり、先進国では最悪の米国の6.7を上回っている。日本やフィンランドの3倍以上である。もっとも、このペースで改善すると、平均寿命の伸長にも大いに寄与するものと思われる。
ⅱ、死亡率を押し上げる過剰飲酒
ロシアにおける死亡原因の第一位は循環器系疾患で、総死亡者の半分以上を占めている。外的死因である交通事故死、自殺・殺人なども、さきに国際比較でみたとおり、極端に多い。これらの死因は、飲酒に絡んだものが過半を占めていると言われている。人口統計学専門家が2001年に発表した研究によれば、殺人の72.2%、自殺の42.1%、その他の外部要因による死亡の53.6%、肝硬変の67.6%、それ以外の死因についても25.0%が何らかの形でアルコールと関係していた(「人口と社会」ロシア科学アカデミー・デモグラフィー・センター報告)。⑥
アルコール依存症の人は1992年からこれまでに二倍以上に増えて2,500千人になったと発表されているが、専門家の間では、5,000千人とも20,000千人とも推定されている。2008年には急性アルコール中毒だけで24千人が死亡したと報ぜられている。このような過剰飲酒が男性の死亡率を押し上げ、平均寿命を極端に縮めている。⑦
世界保健機構(WHO)は純粋アルコールの一人当たり年間消費量が8リットルを超える国を「飲酒により著しく健康が害されている国」と規定しているが、さきの国際比較ではフランスやドイツのアルコール摂取量は、ロシアの10.6リットルをかなり上回っている。それにもかかわらず、ロシアにアルコール依存症が多い理由として指摘されている一つは、多量の密造酒の存在である。WHOのレポートはロシアの密造酒消費量を年間4.9リットルと推定しており、正規の統計分と合算すると年間15.5リットルとなるが、年間18リットルに上るという新聞報道もあり、真相は分からない。⑧ もう一つは、ロシアのアルコール飲料はほとんどがアルコール純分40度以上のウォッカであり、これを直接飲む風習が血液循環系の疾病を増やし、自制心を失って攻撃的になって殺人などが増えていると解説されている。
1985年にはゴルバチョフ大統領が飲酒抑制運動に乗り出して、ウォトカの生産削減、密造の摘発強化、価格の大幅値上げに踏み切ったことが、却って国民からの非難を浴びたうえ、逆に密造酒の増加に繋がったのは有名である。もっとも、この運動の結果、1987年には死亡率がそれまでの最低を記録し、85年から5年間で約1,000千人の命が救われたと報ぜられている。メドベージェフ大統領は2009年8月に改めて過剰飲酒を「国家的災厄」と断じ、ゴリコワ保健社会発展相も新たな対策を打出す考えを示している。一世紀も続いてきたこの問題を、一朝一夕で解決するのは不可能であろうが、改善の方向に進むことは間違いなさそうである。
ⅲ、HIV/エイズの蔓延と結核の増加
過剰飲酒の他にも、死亡率を高めている要因の一つにHIV/エイズがある。国連エイズ計画(UNAIDS)によると、2007年のロシアのエイズ感染者数は940千人で15歳から49歳までの人口の1.1%を占めている。そのうちで、実際に治療薬が投与されているのは35,000人程度と少ない。すでに2000年にUNAIDSはロシアのエイズ拡散は世界最悪に近いと警告を発していたが、エイズ感染率は、西欧諸国ではどの国も0.6%以下(日本は0.1%以下)であって、1.1%は高い。
ロシアにおけるエイズ急増の原因は、基本的には注射器による麻薬ヘロイン使用の広がりにある。これが性交渉などで拡散しているが、現状でも2/3は麻薬使用によるものとされている。エイズ撲滅には、麻薬対策が重要であり、医療だけでは対応できない。
感染症のなかでは、結核の広がりも脅威となっている。WHOによると、ロシアの結核罹患率は人口100,000人当り110人で、深刻な状況にある世界22ヵ国の中に入っている。⑨
ⅳ.喫煙率の上昇
先進諸国では成人の喫煙率は低下傾向にあるのに対し、表6に示したとおり、ロシアでは逆に上昇傾向にある。ことに女性の喫煙者数は4年間で3倍に増加している。ロシアの問題はさらに10代で喫煙を始める子供が多く、政府によると少年の6割、少女の4割が喫煙している。この結果、ロシアでは年間300千人以上が喫煙に関係した疾病で死亡し、心疾患死亡の52%は喫煙が影響していると言われている。
ロシアも2008年6月に2005年に発効した「WHOたばこ規制枠組み条約を批准し、禁煙推進に乗り出している。ロシアの喫煙率が高い理由の一つとして挙げられているのは、たばこの価格が安いこと、2008年で一箱30ルーブル程度(約100円)と安い。⑨ 筆者の経験では、旧ソ連邦時代には外国たばこは、ドル紙幣の代わりに通用していた程の高級品であったが、市場開放で安い外国たばこが流入して来たのが喫煙者増加の一因であり、対策の強化が急務である。
(4)人口減少を食い止めるための対応策
ロシアにおける死亡率上昇と出生率低下の同時進行の直接的な原因は、上に述べたような諸要因で説明できるが、その背景についての解説には、実証的で説得力のあるものが見当たらない。ロシアの専門家の多くは、ソ連邦崩壊後の社会的な混乱が長引いた事情を挙げている。すなわち、ソ連邦崩壊後から1999年まで新生ロシアを治めていたエリツィン大統領が、急進的な改革に踏み切り、社会主義経済を短期間で市場経済化することに挑んだが、なかでも大規模な民営化を短期間に強行したことで失業者が増え、国営企業が支えていた医療体制も崩壊したことを主因とする見方である。
一方で、出生率の低下はソ連邦時代から見られ、民営化と死亡率の上昇を短絡的に結び付ける見方にも異論がある。また、経済改革が一段落すれば、人口減少に歯止めがかかるという楽観論は疑問視されている。2000年に入ってから数年間の状況は、むしろ生活レベルが上がった結果として、米国などとも共通する国民全体の不健康化が進んでいるのではなかろうかと思えるからである。⑩ 肥満化はロシアではまだ大きな問題とはなっていないが、これも早晩顕在化してこよう。
人口減少との関連で国民の健康悪化問題への対処が政府の政策として認識され始めたのは、2000年にプーチンが大統領に就任してからである。2005年には、保健を国家の4大プロジェクトの一つに位置付け、2006年12月には、思い切った少子化対策を打ち出した。これは、2007年1月以降に第二子を出産した母親に対し国が25万ルーブル(約103万円)を支給するという優遇制度である。平均賃金は月2万ルーブルを下廻っているので、これは相当な額である。もっとも、この制度は第二子の出生時に現金が給付されるものではなく、子供が3歳になった日以降に、①マイホームの購入・改築、②子供の教育、③年金積立のいずれかの目的にのみ使用できるというものである。これに加えて、児童手当や産休中の賃金保障額の引上げなども行なわれている。これらの子育て支援策に対する国民の評価は高く、これがプーチンへの高い支持率に繋がっているとの見方もある。⑪
肝心の医療供給体制については、改革が緒につき始めたところである。ソ連邦時代には医師数や病院数は多く、数量的には充実していたが、他の分野と同様にサービス改善へのインセンティブが欠如していたので、医療の質や効率はきわめて悪かった。体制転換後は、他の分野では全面的に民営化が行なわれたが、医療機関は公立のまま維持されたため、規制緩和により一部の富裕層には高度な私費医療が提供されるようになったものの、前号で示したように財源の制約があって、国民医療全体としては旧ソ連邦時代の劣悪な体制を引き摺ってきた。WHOが2000年に発表した調査では、ロシアの医療の充実度は世界191カ国中130位(1位はフランス、日本は10位、米国は37位)であった。⑫
ロシア政府もようやく2006年から医療の充実に向けて動き出した。2007年以降は財政支出を大幅に増やし、医療施設への設備投資も活発化している。改革推進に当って指摘されている問題点の一つは、ロシアの病院の94%が国有であるにかかわらず、その運営は地方組織に委ねられたため、公的医療保険がカバーする診療範囲が地域によりばらばらとなってしまったといったことにも象徴される地方分権化の失敗である。分権化の結果、制度上は全国どこでも通用するはずの医療保険が実際上は居住地でしか使えないといった弊害も出ている。もう一つは、人口比では世界一多い医師の大多数が病院勤務に集中していて、プライマリケア医(診療所)が極端に不足している点である。⑬ ロシアの診療所数は22千軒(2008年)で、日本の約1/5に過ぎない。人口は日本の1.1倍ながら国土面積は45倍もあるので、この軒数で全国民をカバーするのは無理である。診療所の民営化は徐々に進んでいるが、依然として公立が80%弱を占めている。
参考引用文献一覧
①http://en.wikipedia.org/wiki/Healthcare_in_Russia
②2006年 11月27日、OECD刊、"Economic survey of the Russian Federation 2006. Chapter 5: Reforming Healthcare"
③2009 Spring World Affairs "Drunken Nation; Russia's Depopulation Bomb" by Nicholas Eberstadt,
http://www.worldaffairsjournal.org/articles/2009-Spring/full-Eberstadt.html
④2010年4月18日、日本経済新聞出版社発行、小田健著「現代ロシアの深層」p306
⑤上掲書p311
⑥2008年11月10日、日本経済新聞出版社刊、井本沙織著「ロシア人しか知らない本当のロシア」p112~113
⑦2010年4月18日、日本経済新聞出版社発行、小田健著「現代ロシアの深層」p312
⑧WHO Global Status Report on Alcohol 2004,Table 5 Estimated volume of unrecorded consumption in litres of pure alcohol per capita
⑨2010年4月18日、日本経済新聞出版社発行、小田健著「現代ロシアの深層」p316~317
⑩上掲書p318
⑪2008年11月10日、日本経済新聞出版社刊、井本沙織著「ロシア人しか知らない本当のロシア」p113~114
⑫2000 Who the World Health Report, Estimates for 1997 Overall Health System Performance
⑬2007年3月、"Russian Healthcare System "by Prof.Tracey Lynn Koehlmoos,http://webcache.googleusercontent.com/search
(医療経済研究機構 専務理事 岡部陽二)
(2010年9月10日、医療経済研究機構発行"Monthly IHEP"No.190,p17~26所収)