話し手:法政大学経済学部教授兼同大学院
エイジング総合研究所所長
小椋 正立 氏
聞き手:医療経済研究機構 専務理事 岡部 陽二
小椋正立先生には、本年度より6且10日に設立された「医療経済学会」と医療経済研究機構の共同編集体制で刊行されることになりました「医療経済研究」誌の編集委員長をお引受けいただいております。
小椋先生は、1966年に東大法学部を卒業後、日銀入行、1974年にはペンシルバニア大学で経済学博士号をとられて、1982年までニューヨーク州立大学助教授を勤められました。帰国後、埼玉大学助教授、(社)日本経済研究センター主任研究員を経て、1993年より法政大学経済学部教授、2002年には同大学院に「エイジング総合研究所」を設立されて、東アジア諸国との共同研究に取り組んでおられます。
著書・論文には、ハーバード大学デ-ビッド・ワイズ教授との共編著「日米比較・医療制度改革」(2002年、日本経済新聞社刊)ほか多数あります。
今回は、このように多彩なご経歴を生かせて幅広い研究分野で活躍されている先生に、「医療経済研究」誌の編集方針、今後の抱負に加えて、ご専門の一つである高齢者医療を中心とする医療費適正化のための制度設計などについてお伺いしました。
〇 「医療経済研究」誌の編集方針、編集委員長としての抱負などについて
岡部 今般設立されました医療経済学会に理事として参加されて、かつ学会誌編集委員会の委員長という重責を担っていただくことになったわけですが、まず、最初に委員長としてのご抱負とか、学会誌の編集方針についてお伺いします。
小椋 研究者としては、日本の医療制度について、きちんとした分析を行なっても、それを発表する場にはあまり恵まれていないのが実感です。日本の医療制度は、欧米とはずいぶん違いますし、またアジアの中でも共通している点もあまりないので、国際的に関心を持ってもらうのはなかなか難しいのが現状です。これを何とかしたいと思っているわけです。
岡部 確かに、理科系の研究では初めから英語で書いて欧米の研究誌に投稿できますが、医療経済の分野では難しいでしょうね。
小椋 それが若い研究者のやる気を削いでいる面もあります。「どうせ英語の論文を書いても仕方がない」とか、「どうせよい論文を書いても、それが国際的に注目されるわけではないから」というところがあると思うのです。逆にそのことが、外部からの評価に耐え得ないレベルの論文が横行することにも繋がっています。
岡部 それは、医療というものの特殊性から来るのでしょうか。
小椋 やはり各国固有の制度というものが、医療のありかたを非常に大きく変えてしまうのですね。ですから、医療には各国の個性が非常に濃く出てきて、それを横断的に分析するというのも大変ですし、また、そのための理論や手法が必ずしもふんだんにあるわけでもありません。
岡部 そういう国際的な視点からのご指摘というのは、珍しいですね。
小椋 私自身はこの十数年間、この壁にぶつかって苦労してきました。今のところ日本の医療経済学はわずかな例外を除けば、ほぼ完全に日本語の世界です。学問の発展段階を考えますと、最初は日本語でも仕方がないと思います。
しかし、その中で学問として大事なことは、日本語であっても非常にきちんとした、国際標準に達した論文をできるだけたくさん作り出していくことです。そこに今回の医療経済学会誌となった『医療経済研究』の最初の使命があると思います。それから次の段階として、英語化を考えていくことも必要ですね。
岡部 分析の手法そのものは、研究者も欧米の論文を読んでいるわけですから、決して日本が劣るということはないのでは。
小椋 レベルとしては日本の実証研究はまだまだだと思います。研究者の数も少なく、競争もあまりない、データにも恵まれているとはいえない、というのが基本的な問題ではないでしょうか。また、
日本の制度は外国とはいろいろ違うところもあるわけですが、その基本的な違いを無視して、形式的に欧米のジャーナルに掲載された論文の枠組みをそのまま借用して結果を出しても、学術的な価値のある研究論文にはなりません。当然ですが、良い実証論文を書くためには、計量経済学と医療制度の両方がきちんと解っていなければならない。
日本の医療経済学で一番問題なのは、とくに大学院における計量経済学の実戦的なトレーニングが不足していることだと思います。この点についても、医療経済学会に積極的に働きかけていきたいと思います。
岡部 基礎データの面では、日本にはユニバーサルな保険制度があって、レセプトなどの個票データも揃っていて、外国よりも整備されていると言う話も聞きますが、そこのところはどうなのでしょうか。
小椋 そういう面はたしかにあります。たしかに医療費の部分だけをとると、行政データを中心として、質の高い研究ができる分野もあります。しかし医療費の分析でも、国際標準の研究をしようとすると、どうしても社会・経済的な要因のコントロールが必要となります。個人情報保護法の時代ですから、こうしたデータは行政データではなく、おそらく研究データとして集める必要があるのでしょうね。日本のデータは、そこがまだできていないのです。
岡部 日本では、いわゆる「国民医療費」の中だけでの研究しかできないということでしょうか。
小椋 そうですね。たとえば、家計の社会経済的なバックグラウンドを掴むには、家計の健康に関するいろいろな行動とか、あるいは医療費をどれぐらい使うかとかについて、経費的に五年とか十年とかいう長期間にわたって観察することが必要なわけです。そういうデータについては、ヨーロッパでは共通基準があって、それを各国が、その基準に従ったものを作って、それをお互いに自由に利用できるようになっています。日本にはまだそういう国際基準に準拠した統計がありません。
岡部 それには、もちろん行政に期待することも必要ですが、そういう方向に向かっての研究者の努力が必要になってくるわけですね。
小椋 そうです。医療関係の個票の使用については、池上先生(慶應義塾大学医学部教授)と私は、1990年代の初めぐらいから当時の厚生省の関係者に粘り強く働きかけておりました。日本の民間の研究者で、医療関係の個票を使用させていただいたのは、医療経済研究機構が誕生した時に、社会保険庁の政管健保に関する研究プロジェクトとして、私たちが社会医療診療行為別調査と医療施設調査などの個票データの使用を認められたのが、おそらく初めてです。
岡部 そういうデータを活用して研究の成果が挙がってくれば、厚労省にとってもむしろありがたい話なので、情報開示が一挙に進むことにはならないのでしょうか。
小椋 政府の統計には、指定統計と承認統計があって、承認統計の方は今では、厚生科研の研究などには比較的自由に使わせてもらえますが、患者統計のような指定統計はなかなか難しいのが現状です。それに、総務省絡みの統計については、なかなかガードが固くて、使用承認を貰うのに多大の時間と労力を要し、研究のタイミングを逸したこともあります。
〇 医療経済の研究を始められた動機
岡部 先生は大学ご卒業後に日銀に勤められ、その後米国のニューヨーク州立大学で教鞭をとられています。大変多彩でユニークなご経歴ですが、どのような契機から医療経済に興味を持たれるようになったのでしょうか。
小椋 かなり個人的なことになりますけが、私の次男が7歳のときに小児糖尿病になって東京女子医大のお世話になり、それから上の子は一時、非常に重い病気の疑いがあった時に、慶應大学病院のスタッフの皆さんに非常にご親切にしていただきました。何か自分でできることで、恩返しをしなければならないと考えたのがそもそもの動機です。アメリカではお金持ちはよい病院に入れますが、家族が大病をするといずれ破産は免れない。子供が病気をしてからは、日本に帰ってきて本当に良かったと思いました。
岡部 アメリカのペンシルベニア大学に留学され、そこで大学の先生になられたわけですが、その時は医療経済学ではなかったのですか。
小椋 当時は財政学が専門でした。1982年に日本に帰ってきても、しばらく財政学をやっておりましたが、財政学から財政投融資、年金問題と進んで、出生率の問題に興味を持ったところで子どもが病気になりました。わが国の制度にもいろいろ問題はあるのでしょうが、平等な医療を守るために、現場の先生や看護士の皆さんは精いっぱいやっていらっしゃる。日本のこういう平均的に高いレベルの医療をどうやって持続可能にするについて医療経済学の立場から真剣に取り組まないといけないと考えました。
ちょうどその時に、当時の日経センターの香西理事長から来ないかと引っ張っていただいて、「医療経済をやらせてもらえるのであれば行きます」と申し上げたのです。当時の日経センターはバブルの時代でしたから実に大らかでした。また外部のファンディングも潤沢でした。古きよき時代でした。
岡部 日経センターに移られてすぐに法政大学の教授にもなられ、日経センターとは兼任でよくこなされましたね。
小椋 十年以上ずっと兼任で、非常に忙しかったです。アメリカに在外研究に行くことになり、日経センターも理事長がお代わりになるというので辞めさせていただいたのは2000年でした。日経センターで非常にありがたかったのは、NBER(National Bureau of Economic Research、全米経済研究所)というところと日経センターが高齢化に関する日米共同研究のコーディネータを勤めたことです。
岡部 立派な日米比較研究の成果を挙げられたハーバード大学ケネディースクールのデービッド・ワイズ教授との共同研究ですね。
小椋 そう言っていただければ光栄です。この共同研究には初めから医療経済が入っており、毎年夏にハーバード大学でNBERのSummer Instituteというのが開かれ、一週間びっしりと朝から晩までペーパーの発表を聞くのですが、これはすごいブレーン・ストーミングの場でした。発表するのは若い人の場合もあり、ノーベル賞をもらったような方の場合もあります。NBERのそういうメンバーの研究発表から、どういうことが今アメリカやヨーロッパでは問題になっているかがよく分かりました。
それぞれについてはどういう手法で研究をしていて、それについて日本でやれることはないのかとか、いろいろと考えることができるよい機会でした。反対に、欧米の問題意識の変化の激しさに違和感を持つこともありました。
〇 法政大学大学院エイジング総合研究所について
岡部 2002年に設立されましたこの研究所の設立経緯をご説明下さい。この研究所は、わが国の経験や研究成果を東アジア諸国に供与して活用して貰うという国際的な使命感を掲げておられるものと伺っております。
小椋 日経センターを辞めてアメリカに一年間留学した後で、今度は大学の中で少し充実した仕事をしたいと思って、「エイジング総合研究所」を設立しました。
非常に幸運にも、この研究所でテーマとして採りあげました東アジア諸国と連携しての生活習慣と健康・医療消費に関するミクロ経済分析研究が、文部科学省の私立大学教育研究高度化推進事業の一部(「東アジアの高齢化に関する国際共同研究」)として補助金の対象になりました。それで、2003年から五年計画で、日本と中国、韓国と共同研究を始めたわけです。去年三年目の大きなシンポジウムを上海の復旦大学でやりまして、来年にはソウルで五年目の大きなシンポジウムを開催することになっています。
岡部 その研究は生活習慣が医療費にどういう影響を及ぼしていくかという分析が中心となっているのでしょうか。
小椋 日本では、その問題が中心でとなりますが、中国や韓国では、そこまでいくには時間が掛かります。中国については、まず医療体制をどうするか。それから医療保険をどうするか。それから韓国については、これから介護保険をどうするかが当面の課題です。ただ、これらの国々でも急速に少子化、高齢化が進んでいますから、わが国での経験は将来大いに役に立ちます。
もちろん同じレベルで比較できる問題もあります。たとえば喫煙習慣については、日本と中国とで、まったく同じ枠組みで調査をしました。広州と上海と北京でランダムサンプルを1,000ずつぐらい、日本もだいたい4,000~5,000のサンプルを集めて、喫煙者の喫煙行動を比較分析する研究が完成しました。
岡部 国際比較研究ということになりますと、これまではアメリカとかヨーロッパの先進国が対象でしたが、東アジアをベースにするというご発想は、どこから出てきたのでしょうか。
小椋 日本ではよく「失われた十年」と言われますが、そこに至るまでにはいろいろな政策のミステイクがあったと思います。端的にいうと、やはり年金の給付をあまりにも寛大にし過ぎたとか、老人医療費の急増への対応の遅れなどです。
ただ、老人医療費についての最初の無料化は、私は非常に意味があったと評価しています。この措置によって、たとえば高齢者の高血圧の受療率が二倍になり、高齢者の脳血管疾患による死亡率が下がる重要な要因の一つとなったわけです。面白いことに、最初は高血圧の受療率が急増したことを政府も把握していなかったように思います。それは、医療の現場では老人の患者数がどんどん増えて外来が混雑してきため、患者の受診間隔をどんどん長期化させたわけです。
かつては受診間隔を計算に入れないで、患者調査の受療率が計算されていたので、それほど受療率は上昇しなかったように見えたわけです。私たちは、それが受診間隔を補正することで、老人患者の受療率が実際には二倍以上に増え、とくに女性の受療率が上がったことを明らかにしたわけです。
しかし、その後は、老人医療の無料化を続けること自体が政策の目的となってしまって、それがどんどん医療費を増やし、保険財政と国や地方の財政を圧迫するという、悪循環になっていったと思うのです。無料化は当時としては非常に画期的な政策で、確かに大きな効果もあったのですが、それをいつ止めるかというを決断しなければならなかった。私は、日本はそのタイミングを、見誤ったと思うのです。
岡部 無料化についてそういう前向きの評価をされる諭者は珍しいのでは。
小椋 これはちゃんとしたデータに基づいた分析から得られた結論ですから、無料化の光の部分は評価さて然るべきです。思い切った制度改革には劇的な効果はあるけれども、それが長期的に持続可能かどうかということを常に考え直さないかぎりは、最後は、やはり財政に破綻を来たします。だから、韓国や中国についても、日本で起こったことということをよく見ていただいて、同じような間違いをしてはいけないということを学んでほしいのです。
岡部 同じ轍を踏むなということですね。
小椋 そうですね。経済成長が非常に急激な時期には、医療や福祉面でも思い切った政策をやらなければいけない。しかし、同時に、いつそこから抜け出すかということも考えていないといけない。そういう日本の経験に関する対話をできるだけ中国や韓国の研究者とやっていこうという試みです。それについては、自画自賛ですけど、効果はあったと思いますよ。
〇 後期高齢者医療制度のあり方について
岡部 医療制度改革の一環として75歳以上の後期高齢者については、その心身の特性や生活実態などを踏まえて、平成20年度を目途に独立した医療制度を創設することが決まっています。この制度改革については、どのように評価されますか。
小椋 「高齢者医療制度」そのものの考え方が、私にはよく分かりません。ある年齢階層の人だけを集めて、それで特別の社会保険をつくるというのは、公的医療保険のそもそもの理想からはちょっと外れていると思うのです。
医療保険の目的としては、病気をした時にだれでも医療サービスへのアクセスができるというのが、いちばん重要なことです。イコール・アクセスというのでしょうか。それから、病気をしても家計が必ずしも破綻しなくてもよいという安心感です。
すべての国民が人間らしい生活ができるということが大事なのであって、その根本は学歴とか出身とか門地とか性別とかで差別しないことです。年齢による差別もあってはなりません。
岡部 そういえば、国民皆保険の先進国で高齢者医療だけを特別扱いしている国はありませんね。
小椋 その通りです。たとえば、まだ中年の45歳以降の人は元気で老人とは違うだろうと思われるかも知れませんが、その年代の死亡原因と70歳、80歳の死亡原因を比べてみると見事に一致しています。どこか一階層だけ一位と二位が入れ替わっているところがありますが、がん、心臓血管系、脳血管系が共通の死亡原因です。そういう病気になって亡くなる方は、別に年齢とは無関係です。
それを「あなたは45歳ですから、自己負担三割で死んでください」「あなたは75歳以上ですから、自己負担一割で死んでください」と決めるのは、どう考えてもおかしいですね。
岡部 負担サイドの平等については、どう考えるべきでしょうか。
小椋 医療保険は共助の制度ですから、「あなたは所得が高いから」「あなたは資産がたくさんあるから」多く負担してくださいというのは当然です。それが大事だと私は思います。
岡部 富裕層には負担を大きくしてもらえばよいわけですね。
小椋 それは一向に構いません。負担割合を年齢で線を引いて決めるのは、どう考えてもおかしいです。だって、45歳でがんで亡くなる人と70歳でがんで亡くなる人を比べた場合、70歳で亡くなる人の方が重病だとはいえないでしょう。
一方、財源に制約がある以上、疾病の種類による負担率の差はやむを得ません。つまり、お医者さんから「この人はがんです」とか、「この人は心筋梗塞です」とかいう診断があったら、それに基づいて自己負担率を優遇すればよいのです。老人だからといって優遇するのは問題です。こういう制度にすると、医療のムダなところはなくなるのではないでしょうか。
岡部 そうすると、自己責任の程度がかなり高い生活習慣病なんかは、負担率が高くてもよいということにはなりませんか。
小椋 そうでしょうか。私は、生活習慣に問題があっても、いったん発病すれば、平等にとり扱われるべきだろうと思っています。もちろん、発病しないように生活習慣を改めるようないろいろなインセンティブを工夫する必要はありますが。
岡部 75歳を超えてしまえば、疾病のリスクが大きすぎて、保険の理論は働かない。したがって、全部税金でみたほうがよいという意見も強いのでは。新しい制度案でも、公費負担五割で、保険の部分は半分になっています。
小椋 保険の原理が働かないというのは高齢者の保険料の負担能力と保険給付コストのバランスが取れないという意味でしょうか。しかし、もし高齢者にとって全額、税金で負担するのが理想的な保険制度だとしたら、それは高齢者だけにとって理想的な制度なのでしょうか。あるいは財政的に高齢者にしか適用できないから、他の人は我慢しなさいということなのでしょうか。あるいは高齢者の医療は一般の医療とは別にするから、他の人は我慢しなさい、ということなのでしょうか。
繰り返しになりますが、病気の特性によって保険の給付内容を変えることはあっても、高齢者かどうかで給付の内容を変えるというのは公的医療保険で避けなければならないと思います。一昨年亡くなられた鴇田先生の追悼シンポジウムで医療経済学者と討議をしましたが、皆さんも「高齢者医療保険を主要な疾病に対する保険に再編できれば、それがいちばんよい」とおっしゃっていました。
岡部 経済学者の見方はそうかも知れませんね。けれども、実際に政策を担当している人や、政治家にも公費負担論者が多いのでは。
小椋 もうすでに75歳までの自己負担は二割に上がっているわけです。それから、その他の階層に残っている一割負担も、かなり危なくなってきています。だから、患者負担率の面では、政府案と私の主張はそんなに変わらないかも知れません。ただ、もし全額公費負担の対象を今回は75歳以上とするとしても、高齢化が進展すると、この次は80歳以上、さらに85歳以上となるのは目に見えているような気がします。
こうした辻褄あわせの改革が公的医療保険そのものに対する信頼を損なうことになってしまうのではないでしょうか。それよりも私が懸念しているのは、むしろ高齢者のための特別の保険というのは何をするかというと、やはり予算コントロールが目的ではないかという点です。
岡部 つまり、高齢者に対する医療は、結局切り捨てになってしまうのではという懸念
ですね。
小椋 そうです。結局、そういうことをやると、医療全体がおかしくなってくるのですね。「この人はいらない人、この人はいる人」なんていうことを医療の現場が決め始めたら、大変なことになります。
岡部 別の制度にすれば、そこだけの総量規制が働き易くなるという懸念ですね。
小椋 そうです。そのために新制度を作るわけだから、今は優遇されている高齢者階層が逆転して冷遇されるかも知れない。そんなことをするより、病気だから治療する、あるいはどういう疾病で、どういう年齢だから、どういう医療が必要か、という医学的な判断に基づいて、給付を行う。それがいちばん効率的であり、もともと医療保険というのは、そのために存在するのです。「あなたは年寄りだから、何割の給付をあげます」っていうのは、本来の医療制度の目的ではないですね。
岡部 この点の議論はまだまだ尽きませんが、本日はこの辺で。ご健闘をお祈りします。
(2006年7月発行、医療経済研究機構レター”Monthly IHEP”No.144 p1~7 所収)