話し手: トヨタ自動車健康保険組合事務長
小野政秀 氏
聞き手: 医療経済研究機構 専務理事 岡部陽二
今回は、先般の医療制度改革で医療費適正化政策の一つの目玉として取り入れられ、平成20年4月から実施されることになりました「保険者への予防検診・保健指導の義務化」への対応を中心に、健保組合員の健康作り支援面ですでに様々な試みを実施しておられますトヨタ自動車健康保険組合事務長の小野政秀さんに、その極意をお伺いしました。
小野事務長は1974に東北大学卒業後、直ちにトヨタ自動車工業に入社、人事部、国内企画部、Netz店営業本部、マーケティング開発部などを幅広くご経験ののち、2000年にトヨタ記念病院の事務長に就任、昨年4月からトヨタ自動車健康保険組合(トヨタ健保)の事務長を務められておられます。
務長を5年間務められたトヨタ記念病院(愛知県豊田市、513床)時代には、トヨタの「カンバン方式」などで知られる経営理念やQCの手法を反映させた先進的でユニークな病院経営を実践されました。
日本病院会のフォーラムなどでも「企業と病院の違いは、やるか、やらないか。病院では、初めにやらない理由を並べる人が多い」「世界中から注目を浴びるトヨタ手法とは、当たり前のことを当たり前にやることにある」といった同氏の発言が注目を集めました。
〇 トヨタ健保の組織、事業内容、組合健保内での位置づけなどについて
岡部 トヨタ健保は組合員数約10万人の企業健保組合と伺っておりますが、健保組合の組織、事業内容、職員数などの概略をご説明ください。
小野 トヨタ健保の被保険者数はトヨタ自動車本体と関連会社従業員を含めて約10万人ですが、その扶養家族を含めると22万人強になります。
岡部 健保組合の規模を他の大企業グループと比較すると、どんな位置づけになりますでしょうか。
小野 今年の4月1日現在で、民間企業の従業員が加入する健康保険組合は全国で1,548組合ありますが、そのうちの279組合はグループ健保といって企業グループで一つの組合を設立しています。日立、松下、日産自動車などはこのグループ健保方式をとっており、40万人~50万人の組合員を抱えています。
一方、トヨタ・グループは、19社のグループ企業がそれぞれ単独で健康保険組合を持っています。
岡部 トヨタ・グループ全体で19もの健保組合があるのですか。
小野 そうです。デンソーとかアイシン精機、名古屋トヨペットといった大会社は単独で持っています。他に販売会社が多数集まった「トヨタ販売連合健保」、部品メーカーが集合した形の「関連部品健保」のような連合体もあります。そういうトヨタ・グループを全部併せますと、被保険者が40万人強、扶養家族を含め90万人という規模になります。トヨタ自動車本体のちょうど二倍くらいです。トヨタ・グループも将来一緒になるかも知れませんが、当面はそれぞれ独立独歩でやっていく気概です。
岡部 トヨタ健保だけで、何名のスタッフで運営されているのでしょうか。
小野 本部事務所の職員は45名です。ほかに、保養所と90床の老人保健施設を運営しており直営運営施設合わせると115人くらいの職員がいます。
岡部 健保が老健施設を持っているのは、珍しいですね。
小野 この老健施設は会社とは関係なく、豊田市民の方を入れるかたちになっています。企業立でやっているトヨタ記念病院同様の地域貢献です。
岡部 本部スタッフを45名も抱えている健保組合は少ないのではないかと思いますが、家族を含めて20万人の被保険者に保険者機能を果たすのにはまだまだ足りないのではありませんか。
小野 そうです。いくつかの保険者機能がありますが、残念ながら本格的にやれているものはありません。ただ、現存する1,548組合のうち、おそらく1/3程度は役職員合わせて3名以下しか置いていないという現状と比較すると、頑張っている健保だと思います。
岡部 そういえば、「保険者機能を推進する会」という団体のホームページを拝見しましたが、参加している健保組合が97組合しかないのはショックでした。トヨタ・グループからは、トヨタ自動車と豊田合成の2組合が参加しておられますが。
〇 トヨタ健保の保健事業活動について
岡部 保険組合としての事業には、大別して、被保険者やその扶養家族の病気、けが、出産、死亡などのときに、医療費や給付金を支給する「保険給付事業」と被保険者とその扶養家族の健康の保持・増進をはかる「保健事業」とがありますが、トヨタ健保は具体的にはどのような機能を果たしておられるのでしょうか。
小野 トヨタ健保の果たすべき機能は、四つあるものと認識しております。
第一の機能は、病院とか医療機関の医療情報を組合員に発信したり、適当な医療機関を紹介したりする「エージェントとしての機能」です。これは、充分かと言われれば、まだまだ不充分ですが、結構手広くやっています。これを今後どうやっていくのかという点は、情報をうまく整理して流すように考えていかなければなりません。
二番目の機能は、レセプトを分析したり、内容をチェックしたりして、不正や不適正な支払いを防止する「レセプト審査機能」です。現状では、ごく一部のチェックしかできませんが、他の組合と比べると、やっていると思います。現在、この機能は支払基金や国保に任せているわけですが、この審査を直接行なうのは、レセプトの完全オンライン化が実現しないことには、難しいとは思っています。手作業ではなく、もう少しロジックでできるようになれば、再検討すべき課題です。
三番目は、健康づくりのための「保健事業」ということになります。これも、健保組合の中では、よくやっている方の健保に入っていますが、またまだ不十分です。
最後は、「保険給付」の仕事で、これは国の代行機関的なものですから、きちんとやっています。
岡部 トヨタ健保で健康づくり運動の柱として3年前から実施しておられます「ループ(健康の循環)」と「プール(ポイントを貯める)」を組合せた「るぷる制度」につきご説明ください。
小野 この制度は、基本的には健康づくりの活動を自分自身でやってもらおうという仕組みです。自分で健康づくりに努力した方に対しては、本当は保険料を安くして差し上げたいのですが、それはできませんので、健康づくりに一生懸命取り組んで、運動をしたらポイントを差し上げます、
結果としてBMIがよければポイントを差し上げますというかたちで運営しています。年間で1万円ぐらい、3年間で3万円ぐらい貯めると、その3万円をまとめて、基本的には健康増進に使ってもらうということです。たとえば旅行に行くとか、コナミのスポーツジムに行く資金の一部を組合からクーポンで支給します。
岡部 実質的には自分が納めた保険料の払い戻しになるわけですね。
小野 基本的にはそういうことです。払い戻しが、現金ではなくクーポンであるという感じですかね。一人、年間1万円でも、10万人に全員払い戻すと10億円になります。実際には、満額はなかなかとれませんが。そのクーポンを健康診断費用の補助に充てて、自己負担を軽くすることもできます。
岡部 健康診断の費用も全額負担はしておられないわけですか。
小野 そうですね。全額負担はしていません。一番高いコースは5万円ぐらいですが、5千円ぐらい自分で払ってもらっています。
岡部 もっと高いPETを使ったガン検診とかになると、全額自己負担ですか。
小野 通常の人間ドックにガン検診も入っていますが、今のところPETは含まれていません。
岡部 それにしても、普通5万円ぐらいの人間ドックが5千円の自己負担で受けられるのは、大変恵まれた組合ですね。
小野 そうだと思います。もっとも、今回の医療制度改革で検診が基本的には義務化されますので、新しく自然に囲まれたフォレスタヒルズというところに「健康支援センター」を建設する計画を持っています。午前中に体力測定をしたり、血管年齢を測ったり、自分の今の健康状態を知る、それを午後に学習会で検討するといったより強力な健康づくり支援を行うといった内容です。このセンターでは、年間延べ2万人の利用を見込んでいます。
このセンターでの検診は36歳から4年に1回、丸1日かけて夫婦で受けてもらう仕組みです。それをベースにして、さらに4年に一度、人間ドックを受診、あとの4年は毎年通常の職場健診を受けてもらうというかたちを考えています。
岡部 夫婦での受診を原則にされるというのは、これは大変先進的な方式ですね。これまでは、どこの健保の保健活動でも主婦は対象になっていなかったようですから。
小野 健康づくりの基本は、1に運動、2に食事ですから、食事の部分も含めて、夫婦で一緒にやってもらうことが必要です。従業員本人と家族を分けるのは、供給側の論理でしょうから、家族の健康を守るという概念に立てば、夫婦一緒に受けてもらい、旦那さんの悪いところも知って料理の内容を変えてもらうことが大事です。
岡部 確かに、それが基本ですね。ところで、「るぷる」の効果は挙がっているのでしょうか。
小野 「るぷる」は3年前に始めて、今年から第2期に入りましたので、内容の充実を図りました。「るぶる」にはほぼ全員が参加していますが、これまでのところあまり効果は挙がっていません。参加はしても、得点がとれる人が少ないのも一因です。タバコを吸っていたらポイントはとれませんから。ポイントがとれる方は精々5割です。
岡部 5割ぐらいというのは、もともと健康な人かも知れないわけですね。
小野 そうです。ですから、健康な人にお金を渡しているということかも知れません。この制度の目的は、最終的には、健康づくりに努力をしてもらって、努力をすれば、その結果として医療費が下がって、その分を被保険者にキックバックできるという仕組にすることにあります。今は、その最初の第一歩を踏み出したばかりです。健康づくりのためのメニューは厚労省の基準なども取り入れて、より効果的なものに改善して参ります。
岡部 効果の検証は、これから時間をかけて行なうしかありませんね。
〇 今回の医療制度改革で新たに導入された予防検診・保健活動の義務化への対応
岡部 「るぷる」での活動を踏まえて、今回の医療制度改革で医療費適正化施策の目玉として採り入れられました「保険者への予防検診・保健指導の義務付け」に対するトヨタ健保の評価、対応方針などにつきお聞かせください。
小野 まず一つは、2008年から施行される義務化を受けて、保健指導のあり方を基本的には変えるというのが一番ですね。それには、在職中だけではなく、74歳までの人たちをトヨタ健保で面倒を看る「特定健保」への移行が必要と考えています。74歳まで突き抜けるのです。60歳になったら国保に移るのではなくて、74歳までトヨタ健保に所属してもらうのです。
岡部 従来の60歳ではなく、74歳になるまで医療費をあまり使わない健康な人になってもらわなければならないとなれば、保健指導のやり方もかなり変わってきますね。
小野 そういう方向で保健指導のやり方を変えるには、30代の時からキチンとした意識を持って、生活習慣の悪い人は改善する努力をしてもらうことです。行動変容というか意識変容をしてもらうことが肝要です。基本的には保健指導のあり方を変えていく。そのために「健康支援センター」を新設して、目に見えるかたちでメッセージとして送る学習会を中心に運営する、これが一点ですね。
それから二つ目としては、やはりそういうものは強制してもよくないから、楽しんでもらいながら健康づくりに取り組んでもらうという意味で、「るぷる」を少しずつモデルチェンジしていく方針です。仕組み作りだけではなく、環境を整えるためのインセンティブ的なものを組合せる考え方です。
岡部 厚労省の狙いは、言ってみれば、健康状態がよくなれば医療費がそれだけ下がるのではないか、今まで100億円あった保険給付が3割減って70億円になれば、その30億円を保健活動に投入できるという発想かと思いますが、そうなりますでしょうか。
小野 そうはならないですね。というのは、60歳までの医療費はトヨタの場合、年間で平均一人10万円程度です。一方、60歳以降の老人医療費は年間一人60万円から65万円、若者の数倍ですから、60歳以下で3割引き下げても、老人医療費が下がらなければ、焼け石に水です。要は、「特定健保」に移行した結果、現在は国保で支払われている60~74歳の医療費がどこまで節減できるかに掛かっています。
岡部 老人医療費は、全国平均でも若い人の5倍程度ですから、そこが下がらないことには、わが国の医療費問題は解決しない。30歳代から健康づくりを始めて、その効果で60~74歳の医療費が大幅に下がるかどうかはやってみなければ分らないものの、要は、健保組合員の意思改革・行動変容に成功するかかどうかということですね。
小野 その通りです。健康保険組合の財政が苦しいのは拠出金だけで、本体の部分は全然苦しくありません。拠出金の問題をキチンと解決しようと思えば、老人医療費を下げるしかありません。しかし、健康保険組合が保健事業をしても、老人医療費が下がるのは国保へ移ってからで、一つの健康保険組合の中では完結できないのが、難しいところです。国保を含めたわが国全体でみたら、ひょっとしたらかなり下がるかも知れませんが、確かめようがありません。
岡部 今回の検診義務化の対象としては、おもに循環系のメタボリックシンドロームが対象になっていますが、それでよいというお考えでしょうか。
小野 いや、健康保険組合として重点的に対処すべき疾病は、一つはメタボリック、それからもう一つはガン、それにメンタルですね。メタボリックで一番健康保険組合として困っているのは、脳梗塞になって寝たきりになるケースです。
ほかにも、人工透析が必要になる人だとか、目が見えなくなるとか、そういう疾病に罹るのは、70歳をちょっと超えたぐらいの人に多いのです。保険は国保に移っているけれども、トヨタ記念病院に入院されるので分るのですが、それらの患者は60歳の時にまあまあ辛うじて健康であった方です。60歳の時に本当に健康であったら、そういうケースを少しでも減らせる可能性が高いということですね。
岡部 ガンについては、今のところは早期発見以外には手の打ちようがないということでしょうか。
小野 そうです。ガンについては、検診を励行していくということと、ガンにならないような予防的なことでいろいろ言われているものを実践していただくことです。
〇 「特定健保」への移行プロジェクトについて
岡部 そこで、トヨタ健保では60~75歳の退職者の医療費をカバーする「特定健保」への移行を検討中とのご説明ですが、この制度導入のメリットについてご説明ください。
特定健保は1985年に導入された新制度で、厚労相の認可を受けて「特定健康保険組合」になると、退職後も老人保健制度が適用される75歳に達するまで「特例退職被保険者」として、その健保組合に残ることができる方式ですね。保険料の算定基準は、退職前の賃金ではなく、現役世代の加入者らの平均賃金の2分の1以下の額とされています。すでに、日立、ソニー、ホンダなど70健保ほどが特定健保に移行済みと伺っていますが。
小野 「特定健保」に移行すると、新しい加入者分の拠出金支払いは減少します。したがって、いわゆる老人医療費の全国平均とトヨタ健保で特例で引受けた被保険者の医療費支払いが同額であれば、トントンですね。特例の方が高かったら赤字、安く上がれば、現状と比べて黒字になります。
岡部 老人のための拠出金には、75歳を超えた高齢者の分も入っていますが、特定健保に移行しても、そこのところは変わらないわけですね。
小野 それはどうしようもないですね。高齢者保険制度に税金が投入されても、拠出金が大幅に減ることは期待できませんが、それは2025年からが怖いと思っています。この部分は、2025年まではそんなに膨れないのです。ただ、昭和25年生まれの団塊の世代が、この後期高齢者に入る時、ここが一番問題になります。
岡部 そうすると、特定健保制度に移行すれば、今の保険料でなんとかやっていけるという見込みでしょうか。
小野 いや、それはやっていけないでしょう。特定健保に移行してもしなくても、保険料率は上げないと赤字ですね。今週の『日経ビジネス』にトヨタの奥田相談役の発言が載っていますが、そこの中でトヨタ健保は2008年に赤字になって、最長でも2010年には料率改訂をしなければやっていけないと試算しています。
特定健保に移行したところで即効性はありませんが、60歳から74歳の医療費が全国平均以下にならないとすると、トヨタ健保での保健事業に意味がないということになります。ですから、書生論議と批判されるかも知れませんが、特定健保化はやはりやるべき重要なプロジェクトです。
岡部 どうしても赤字が出た場合には、保険料を引き上げざるをえないとしても、それを何とか赤字にならないように工夫するのがポイントになるということですね。そうであれば、すべての組合健保を特定健保にして、74歳までは突き抜けで面倒を看ることが実現すればよいのでは。
小野 それが理想でしょうが、今のところ健保の財務状況からみて、特定健保への移行は難しい健保も多いと思います。やれるところからやっていくしかないのが現実です。
岡部 特定健保移行のほかには、組合員のためにどのような施策を打ち出しておられるのでしょうか。自己負担分や差額ベッド代など民間の医療保険に頼らざるを得ない部分について、民間保険との提携などは行なっておられないのでしょうか。
小野 病気になった時のプラスアルファの民間医療保険では、保険加入時に健康状態がよければ、安い料率が適用されます。逆に、病気の人が保険会社に逆選別されて加入できないケースもあります。したがって、トヨタの従業員と家族20万人を一括して民間保険と条件交渉をする意味は大いにあります。ただ、現状では、健保組合が民間保険を斡旋することは法律で禁止されていますので、これは会社が直接やるしかないのが残念です。
岡部 それはまた妙な規制ですね。会社が斡旋しようが、健保がしようが結果は同じですが、健保の方が保険や医療のプロですから、交渉には適していると思われますが。
小野 組合員に有利な条件が提供されることに変わりはありませんから、健康保険組合が医療保険のプロとして考えた結果を踏まえて、会社が斡旋すればよいことです。
われわれの目標は、60歳の時に健康であって欲しいということです。これは民間保険との条件交渉だけではなく、再雇用時の条件にもなります。そのために保健事業を強化し、その結果、60歳の時に健康であれば、75歳までもほぼ健康で過ごせるであろうという前提に立っています。
岡部 よく分かかりました。健康づくりの模範健保としてのますますのご活躍を期待しております。
(2006年9月発行、「医療形研究機構レターNo。146p1~7所収)