昨年11 月にワシントンで開催された初のG20金融サミットで、英国のブラウン首相が「国際金融体制を安定させるための『第二のブレトンウッズ会議』を早急に開こう」と各国に呼び掛けた。これより先、リ-マン・ショックの直後に、フランスのサルコジ大統領も同様の提唱をしている。
G7だけではもはや何事も決められず、IMF・世銀も機能不全に陥っているのは明らかである。そこで、考え出されたのが、これまでのG7(米英独仏伊日加)にBRIC(露中印伯)とサウジアラビア、南アなどを加えたG20の国際会議である。これが定着すれば理想的な通貨・金融体制を議論する場ができ、新しいブレトンウッズ体制が形成されるのであろうか。
それにしても、なぜここで「ブレトンウッズ体制」の再構築を指向するのであろうか。1944年に7月1日から22日までの3週間にわたって開催された「ブレトンウッズ会議」は、第二次世界大戦への米国参戦時の約束を果たすべく、戦後の通貨覇権を英国から米国に移譲するために開かれた大イベントであった。会議の結果、米ドルのみを戦後の基軸通貨と定め、他のあらゆる通貨は米ドルとの固定相場を維持、米ドルの価値は1ドル=金35オンスで担保することが決められた。この米ドル基軸の通貨体制を守るための国際機関としてIMFと世銀が設立されたのである。
この金ドル本位の固定相場制は25年間続き、1971年のニクソン・ショックで崩れて市場本位の変動相場制に移行したが、その後も米ドルだけが、世界の基軸通貨であり続けている実態に変わりはない。
60年以上も前に開かれた「ブレトンウッズ会議」が評価される最大のポイントは、危機の最中に44ヵ国からの代表が一堂に集まって、三週間にわたって激論を闘わせた後に、新体制を創り上げた点にある。この場所が国際金融の聖地として注目され、半世紀を経て蘇ってきたのも故なしとはしない。そこで、14年前の夏に、ボストンに留学していた息子一家とともにこの地を訪れた時の記憶を想い起こしてみた。
ブレトンウッズは、ボストンから北北西へ約220キロ、ニューハンプシャー州の北部、州の最高峰であるワシントン山の麓に位置する人口600人あまりの小さな村である。そこにあるのは、会議が開かれた「マウント・ワシントン・ホテル」と標高1,917米の真夏でも寒風が吹きすさんでいるワシントン山への登山鉄道の駅以外は何もなく、一面の原野が広がっていた。今では、リゾート地として知られ、ゴルフやスキー客で賑わっているが、1944年にファックスも携帯もない人里から遠く離れたこの僻地が国際会議場に選ばれたのは、一に機密保持に適していたからとされている。
マウント・ワシントン・ホテルは1902年に当時の鉄道王、ジョセフ・スティックニーがイタリアから熟練技術者を呼び寄せて、その時代としては最高の部材と建築技術で建設したもので、5階建、250室、三つの大バルコニーと四つのホールがある。一階のロビー横には「ブレトンウッズ記念室」があり、協定調印時の写真などが飾られている。当然、会議の立役者であった英国代表のジョン・メイナード・ケインズの肖像があるものと思って探したが、見当たらなかった。英国の調印者は、駐米大使のハリファックス卿が勤めていたからではあるが、米国としてはホワイト案に最後まで修正を迫ったケインズを快くは思っていないのではなかろうか。
客室の扉には、当時もまま各国代表団のネーム・プレートが貼られている。三階のロビー奥の大部屋は議長となった米国のヘンリー・モーゲンソン財務長官、その真下の部屋にはケインズ夫妻が泊まっていた。次いで、ソ連代表と47名もの大勢でやってきた中国代表がとりわけ優遇されていた。代表団スタッフの総勢は730人で、この大ホテルも満杯となり、新聞記者などは近くの農家に民宿を頼んだそうである。ロンドンからニューヨークへの旅にも客船でドイツのUボートを避けて一週間もかかった戦時下に、よくもこれだけの代表が世界中から集まったものと感慨深かった。
この会議で議論された米英二国の原案は、すでにその一年以上前に発表されていた。英国のケインズ案は金の一定量で表示するバンコール通貨建ての預金勘定を新設の「清算同盟」に保有し、この勘定を通じて為替尻の決済をするというもので、各国の通貨とバンコールの交換レートは各国の政策で弾力的に変更できるという方式であった。同案の狙いは各国の通貨とバンコールの交換レートを比較的自由に変更できるようにすることによって、国内の経済政策に与える為替相場の変動の影響を極力抑えることに主眼があった。このケインズ案を、最終的に金ドル本位の固定相場制に落ち着いた米国のホワイト案と比べると、IMFに銀行同様の決済機能を持たせ、為替相場は自由変動ではないものの、各国が政策的に随時変更できるといった柔軟性を持った仕組みを主張した点に特長がある。
現にこの固定相場下でも、英ポンドは早くも1949年に平価切下げに踏み切り、1967年にも切下げているが、平価調整の硬直性は否めなかった。固定か自由な市場変動かの二者択一ではなく、ケインズが考案したその中間方式である各国の政策判断による変動制をとっておれば、ニクソン・ショック時の急落やその後の円高オーバーシュートも起こらなかったものと考えられる。ケインズは会議の最終日に、「われわれは各国に喜んで受容れられる共通の方式・尺度・規則を確立することに成功した」と挨拶しているが、のちに「立ち消えとなった清算同盟案には、優雅で、明晰で、かつ論理的であるといった特徴があったことは事実で、少なくとも私にとっては、惜しみてもあまりあるものである」とも述懐している。ケインズは翌年にも渡米し、その翌年に心臓発作で急逝している。
話は変わるが、その後ワシントンを訪れた際に、「ブレトンウッズ」というIMFと世銀のスタッフ専用のゴルフ・クラブでプレーをする機会に恵まれた。このクラブは、ワシントン中心部から車でわずか15分の至近距離にあり、ポトマック川を見下ろす広大な森の中に造られた素晴らしいコースである。
固定為替のブレトンウッズ体制は崩壊しても、米国の傀儡とも言えるIMF・世銀を意のままに操る国際官僚体制だけは健在であることを実感した次第である。
(個人会員、元明光証券㈱会長)
(2009年7月31日、財団法人・日本証券経済倶楽部発行「しょうけんくらぶ」第86号p8~9所収)