本年4月にロンドンで開催されたG20の第2回金融サミットでの議論の一つは、タックス・ヘイブン(Tax Haven, 租税回避地)の規制強化であり、米欧でその具体策についての議論が進んでいる。今回の金融危機には、ヘッジファンドや大銀行の簿外資産管理の拠点として設立されたペーパー・カンパニーなど、タックス・ヘイブンでの不透明な金融業務により増幅され、事態を大幅に悪化させた面が否めないからである。
ヘッジファンドは今回の金融危機で、倒産が続出し、総資産規模もピーク時の1/3以下の100兆円から200兆円程度に縮小したものと言われているが、それでも昨年度ヘッジファンド・マネジャー・ランキングで第一位のルネサンス・テクノロジーは2,500億円の純益を計上、第4位のジョージ・ソロスのファンドも1,100億円を稼いでいる。彼らの利益のほとんどが無税のまま放置されている現状には、世論の反発も大きく、オバマ政権としても看過できないのであろう。
さらに、通常はタックス・ヘイブンといえば、ケイマン諸島のような、国際金融取引の単なる中継地として利用されるだけで、ほかに見るべき産業はなく主権も確立していない島国が想起される。ところが、今回は、これにスイスのUBSと米国税務当局IRSのバトルが加わって、守秘義務を主張するスイスと税収確保に躍起となっている米国の徴税権に絡む主権国家間の争いにまで問題が発展している。以下に、このタックス・ヘイブン問題を整理してみた。
1、UBSとIRS(Internal Revenue Service、米国内国歳入庁)の脱税をめぐる法廷闘争
15歳の時にロシアから米国に移住してきたイゴール・オレニコフは不動産業で財を成して、資産17億ドルのビリオネアになったが、表向きの年収はわずか15,000ドルで、ほとんど納税もしてこなかった。この脱税に目を付けたIRSが追及した結果、彼の財産はUBSに勤務していたボストン育ちのバーケンフェルドという男の仲介で、リヒテンシュタインに設立された信託会社やその他の架空名義法人を通じてスイスのUBSに送金され、そこで運用されていたことが判明した。
IRSから脱税の罪で訴えられ、懲役と米国市民権の剥奪の瀬戸際に追い詰められたオレニコフはタックス・ヘイブンを利用した資産隠しを認め、5,200万ドルの追徴課税に応じた。脱税幇助の罪で追及されたバーケンフェルトも、2008年5月、刑の執行猶予と引換えに司法取引を求めてUBSが提供した脱税の手口を裁判で詳細に証言した。
それによると、スイスのUBSには米国内の富裕層を担当するプライベート・バンカーが70~80人いて常時米国内を旅行、書類は一切携行せずに暗号化されたパソコン操作とプリペイド式の携帯電話だけで取引を実行、米当局に質問されても黙秘権を行使してきたという。この証言に基づいて、IRSは米国人全顧客の情報提供を求めてUBSを提訴、さらにプライベート・バンキング部統括の最高幹部ラウル・ワイルを脱税の共謀犯として起訴した。
米国の税制は属人主義で、米国民であればどこに住んでいても納税義務がある。さらに、2001年以降はテロに絡むマネーロンダリング防止の観点も踏まえ、脱税に対しては、追徴課税や延滞税に加えて「10万ドルもしくは脱税資産総額の半額」までの罰金が課せられることとなっている。
一方、スイスでは「銀行機密法」と俗称されている銀行法47条によって、業務上知り得た情報を他に漏らした者」に対し懲役刑を含む刑事罰が課されるが、逆に脱税は罰金などの行政罰の対象であって刑事罰は課されない。UBSはこれを盾に反論したが、バーゲンフェルド自身が脱税幇助の罪を認めた以上、米国の司法当局を納得させることはできなかった。その結果、本年2月にUBSは詐欺・横領の共謀を認めて総額7.8億ドル(約780億円)の罰金を支払うという司法取引に応じた。
この過程でUBSは米国人顧客の口座数が47,000件に上ることを認めたため、IRSはこの顧客情報をすべて提供するようUBSに求めている。一方、米国人顧客の一部は、スイスの法律に従って情報をIRSに引渡さないよう求める訴えをスイスで起こしている。これが決着するにはなお時日を要するが、すでにほとんどの米国人顧客は口座を解約されたものと見られ、UBSからの資金流出は本年1~3月で230億スイスフラン(約2兆円)に上ったと報ぜられている。UBSはすでに2年連続の大赤字決算で6.5兆円を超える公的資金の注入を受け入れており、まさに泣き面に蜂である。
2、本年4月に開催されたロンドンG20金融サミットなどでのタックス・ヘイブン透明化の議論
4月のG20金融サミットで、フランスのサルコジ大統領は「あらゆる金融危機の2/3はタックス・ヘイブンの存在を主因としている。英領ケイマン諸島だけで1.8兆ドルが隠されている。なぜこの事実の公表を憚るのか」と猛烈な勢いでタックス・ヘイブン・リストの公表と規制を主張、これに英国と香港を抱える中国が反発、米国が仲介して結局OECDからリストを発表させるということで落着した。
OCEDでは、「資本収入に対して税金を課さないか、ほとんど課さない権限をもち、加えて①透明性が欠如している、②外国の政府に対して情報を提供することを拒否する、③架空の企業をつくれる可能性をもっている、の三点の特徴のうちの一つを備えている場所」をタックス・ヘイブンとして指定する指標としている。
今回の金融危機で問題視されているのは、タックス・ヘイブンを利用した詐欺的で不透明な会計処理が横行した点であり、脱税が主ではない。米証券取引委員会(SEC)では、ヘッジファンドに関連して現在約150件の調査を行っており、非連結のタックス・ヘイブン子会社での100倍に達するレバレッジや、ねずみ講まがいの手法で投資家から資金を募る詐欺行為などを調査している模様である。
筆者の銀行時代の経験でも、ユーロ市場で起債や運用を行う際には、まずケイマンなどにペーパー・カンパニーを設立することから始めるのが当たり前であった。この慣習が一朝にして無くなるとは考えにくい。G20の議論を受けて、スイスやリヒテンシュタイン、アンドラ、モナコが国内の銀行法を国際的な基準と一致させることを約束しているものの、その実効性は疑問視されている。
最近になって米国のオバマ政権が打ち出してきた政策は、脱税防止とは別の観点から、雇用や利益の海外流出を招く税制優遇などの制度を見直す方向である。ホワイトハウスによると、多国籍企業が海外で得た収益に対する実効税率は2.3%と低い。大手企業100社のうち83社がタックス・ヘイブンに子会社を設けており、これが雇用や利益の国外流出を促進しているとしている。
わが国でも、親会社が支配する租税負担が著しく低い地域に設立された外国子会社の留保所得を親会社の持分に応じてその所得に加算して課税するというタックス・ヘイブン対策税制が1978年に導入され、その後も強化されている。もっとも、この税制には、抜け道も多く残されており、再生ファンドなどが形式上の本拠をタックス・ヘイブンに移すだけで、利益隠しをするなどの例は日常茶飯事である。ユーロ市場での円建て債の起債なども、国内市場の空洞化を助長している。
このように、タックス・ヘイブンに対しては、徐々に包囲網が張り巡らされつつあるが、今後どうなるのか。英国の国際政治経済学者故スーザン・ストレンジは10年以上前の著書で「タックス・ヘイブンを閉鎖するための有効な手段は、タックス・ヘイブンを利用している銀行などのブラック・リストを公表する」ことであると喝破している。確かに、タックス・ヘイブンを責めるよりも、それを利用して悪事を企む富裕層や大企業と投資銀行を懲らしめる方が有効な方策であろう。
(岡部陽二・医療経済研究機構専務理事、元広島国際大学教授、元住友銀行専務取締役)
(2009年7月1日、財団法人・外国為替貿易研究会発行「国際金融」第1202号 p62~63所収)