昨年の夏にモンゴル国を始めて訪れた。ウランバートルまで直行便で五時間弱の近い国である。三十年前に司馬遼太郎が訪れた時には、ハバロフスクとイルクーツクで宿泊し、往復にそれぞれ三日を要した遠い国であったことを思えば、今昔の感がある。あまり知られていない最近の変化を三点に絞って紹介したい。
モンゴルは一九二一年に清朝滅亡後に中国から分離独立し、ソ連邦に続いて世界で二番目の社会主義国としてスタートした。一九九二年には、コメコン体制の崩壊を機に、七〇年続いた社会主義を放棄、民主主義体制の資本主義国として再発足した。国土の面積は日本の四倍と大きいが、人口はわずか二五三万人で、人口密度は一平方キロ当たり二人(日本は三三六人)と世界最低に属する。
モンゴルといえば、大草原を渡る風に吹かれて、満天の星、雄大な雲を仰ぎながら、羊の皮で作った移動式テント(ゲル)での伝統的な遊牧生活を墨守している人々の国といった印象であろうか。モンゴルに関する書物を探しても、司馬遼太郎の「草原の記」など、ほとんどが大自然の素晴らしさや旅人への人情豊かな遊牧民の描写に終始している。ところが、現在では全人口の六〇%近くが都市生活者であり、人口一〇〇万人強を抱えるウランバートルでは公害が大きな問題となっている。
旧ソ連から解放後の大きな変化の第一は、ジンギス・ハーンと仏教の復活である。清朝が滅亡し、帝政ロシアが瓦解した時点で、モンゴルは中ソの二者択一を迫られ、旧ソ連圏内での独立を選んだ。結果的には、これがモンゴルにとっての正しい選択ではあったが、冷戦下での独立は名ばかりで、長きにわたりソ連への忍従を強いられた。その最たるものがジンギス・ハーンの全面否定と仏教寺院の破壊であった。
ジンギス・ハーン抹殺の理由付けは英雄崇拝が共産主義の教義に悖るということであろうが、ロシア人のジンギス・ハーンへの怨念は根深い。かつてロシアは十三・四世紀のモンゴル帝国支配による屈辱を「タタールの軛」と呼んで恨み続けてきたので、その裏返しで二〇世紀にはソ連がモンゴルへの軛となったのである。
ジンギス・ハーンの否定は、歴史教科書で必ず採りあげられるポピュラーな世界的英雄として定着しているわが国での評価と対照的であった。ジンギス・ハーンの源を灰白色の狼と白い雌鹿の間に生まれた始祖に求める「元朝秘史」の記述は、「古事記」の天孫降臨伝説との類似も指摘され、わが国ではこのような神秘性が異能の作家を刺激して、井上靖の「蒼き狼」をはじめ多くの優れた文学作品を生んでいる。
モンゴルでも、現在では九種類の紙幣ほとんどをジンギス・ハーンの肖像が飾っており、ジンギス・ハーン・ビールをはじめホテル、レストランなどそこら中に氾濫している。それでも、長い間無視されてきた所為か、町中には銅像一つなく、国民的英雄としての再評価はこれからの課題であろう。
仏教については、一六世紀にはチベット仏教がモンゴル全土に広がり、最盛時には七〇〇寺が建立されて、モンゴル人男子の半数は出家したとされている。出家は就学と同義であって、全人口の二五%の就学率と換言できる。このように盛んであった仏教も旧ソ連により、徹底弾圧されたが、自由化後徐々に復活しつつある。訪れたマンジュシュリヒードというウランバートル郊外の景勝地でも、かつては豪華を誇っていたことであろう大伽藍は徹底的に破壊されていたが、そこにラマ教の僧侶が大勢集まって法要を営んでいた。今や、モンゴルは多くの若い僧が修行に励む自由で活気のある国となっている。
二つ目の見所は、モンゴルが米国に次ぐ世界第二の恐竜化石のメッカに台頭したことである。化石はその埋蔵量だけではなく、その質が大事であるが、ゴビ砂漠産の骨の化石は極めて高い水準にある。具体的には、他の地域では鉱物化が進んでいるのに対し、ゴビ産の化石は骨の血管や神経の通路まで微細な表面形質を留めている。また、何十個も並んだ恐竜の卵、一五匹の生まれたての恐竜の赤ちゃん、恐竜の足跡とか皮膚の化石まで見つかっている。六五〇〇万年以上も昔の白亜紀の生物が、このように往時を髣髴とさせる素晴らしい状況で保存されているのは、乾燥した砂漠の砂に覆われたお陰と考えられている。しかも、米国の化石はほとんど採り尽された觀があるが、ゴビ砂漠は広大で、まだまだ無尽蔵に近い新発見の可能性を秘めている。
ゴビ砂漠における恐竜化石の発掘調査は一九二〇年代から主に米国と旧ソ連の協力を得て断続的に進められて来たが、九三年からはソ連に代わってわが国の林原グループ(岡山に本社を置くライフサイエンス企業)が「モンゴル科学アカデミー古生物センター」と共同でチームを組んで長期にわたる学術研究を行なっている。化石の所有権はこの古生物センターに帰属するが、展示・研究用の恐竜化石標本類はわが国にも持ち込まれ、これを展示する「林原自然科学博物館」が岡山駅前に来年にも開設される予定である。旧知のモンゴル国立大学の先生の計らいで、一般には非公開の古生物センター見学が実現し、珍しい恐竜化石の数々を見せて頂けた。研究の現場で日本・モンゴル学術交流の成果を実感できたのは幸運であった。
三つ目の大きな変化は大学教育の充実である。一〇年間の初等中等教育については、「すべての国民に識字教育を」という目標を独立直後から掲げて、すでに識字率九八%を達成、ユネスコからも表彰されている。それにしても、通学圏が広いため小学生の女の子が零下三〇度の厳寒でもゲルから二〇キロ離れた学校へ馬を駆って通学しているというのは凄まじい。
大学は九二年の解放時には国立一〇校しか存在しなかったが、私立大学の開設自由化によって、現在では短大、専門学校を含め二〇〇を超える大学へ高校卒の七〇%が進学している。私立大学には、政府からの補助もなく、年間一人三万から七万円程度の授業料と寄付金だけで運営されており、経営は大変である。それにも拘わらず、一人当たりGDPが五〇〇ドル程度の国に同一人口当たりではわが国の一〇倍以上の大学が存在すこと自体、如何に教育熱心であるかの証左であろう。さらに、大学生の一割はロシア・中国・日本・米国などへ留学している。
問題は、このような高等教育を受けた人材の働く場の絶対的不足と低賃金の現状である。今回ガイドをしてくれた青年も交換留学生として日本で学んでおり、運転手は夏季休暇中の国立がんセンターレントゲン技師であった。モンゴルは石炭・石油に加え鉱産資源や酪農資源が豊かであり、これらの天然資源を外資の協力を得て開発すれば、数十万人の就業機会を創出するのはさほど難しいことではなさそうである。起業意欲旺盛な若者も増えており、モンゴルへの投資促進が切に望まれる。
(個人会員、医療経済研究機構 専務理事)
(2006年3月、(社)日本証券経済倶楽部発行「しょうけんくらぶ」第79号p26~27 所収)