アルタミラ洞窟の天蓋を覆う色鮮やかな動物画が、なぜか私の脳裏にこびりついていた。「約14,000年前に描かれた人類最初の芸術作品」として高校生の時に習った世界史教科書の第一頁に載っていたからである。この著名な天井画をぜひこの目で見たいというかねてからの念願を果たしたのは、1986年8月のことであった。あの感激は今でもはっきりと残っている。

　この洞窟は観光客の人気が高く、大勢の人が入場すると天井画が傷むので、1980年来、一日の入場者数がわずか15人に制限されていた。参観希望者はスペイン文化庁に申込むと、6ヶ月から1年後の参観日が指定されて来るが、その日に休みがとれないと棄権をして、さらに数ヶ月以上待たざるを得ない。それを承知の上で、ロンドン在勤中に何としても実物を観たいものと計画を温めていたところ、三度目の正直で指定日がうまく夏休みの最終日に当たり、日本から里帰りをしていた息子も連れて天井画鑑賞に行けたのは幸せであった。

　アルタミラはスペイン北部のカンタブリア地方の寒村である。ビルバオ空港に降り立って真東に100キロ米、田舎道をレンタカーで約3時間のドライブであった。この洞窟は1868年に地元の猟師によって発見されたが、狭い洞窟のアーチ型天井に描かれていた動物の絵を1879年に至って最初に見付けたのは、デ・サウツオラという考古学者の娘であった。ガイド氏の説明では、当時、この洞窟に住んでいたクロマニヨン人の身長は1米そこそこで、この狭い空間でも立って作業が出来たそうである。現在はこの天井画を鑑賞するために深さ1米ばかりの溝が掘られている。見物客は仰向けになって、下からの淡い照明に浮き出された黒い線の輪郭と赤茶色に塗り込められた16頭のビゾン（野牛の一種）と若干の鹿などの絵を、あたかもプラネタリウムを観るような感じで仰ぎ見るようになっている。スペイン語で「アルタ」は「高いところ」、「ミラ」が「見る」を意味するのは、偶然とはいえ洒落としてまことによく出来ている。

　洞窟の奥までは270米あるが、天井画のある穴は入り口に近く、描かれている部分の天蓋の広さは18米×9米で結構広い。描かれているビゾンの大きさは実物の半分位とされているが、それでも一番大きな牝牛は長さ2.3米もある。このような動物画がどういう目的で真っ暗な洞窟の天井に描かれたのかは、永遠の謎であるが、恐らくは厳しい自然への畏怖から獲物を神に捧げようとの信仰心の発露と想像される。このことから、「先史時代のシスティナ礼拝堂」とも名付けられている。

　天井画をよく見ると、ビゾンの姿は飛び跳ねているものあり、寝転んでいるものありと一頭一頭が変化に富んでいるだけでなく、岩肌の起伏を巧みに利用して彫刻のような立体感を出している。ビゾンを描いた赤茶色の着色が変色しないで綺麗に残っているのは、赤鉄鉱を豊富に含むオーカーと呼ばれる鉱物質の粘土が使われたお陰である。それにしても約2,000年前の高松塚やキトラ古墳の壁画と対比しても、その数倍の歳月を経た作品が現存するのは、奇跡としか思えない。この天井画が発見された当初は、あまりの素晴らしさに本物とは認められなかったが、1895年になってピレネー山脈を隔てたフランス側のラスコー洞窟でほぼ同時代に描かれた類似の壁画が発見され、漸く1902年になって両洞窟の絵画が最も優れた先史時代の原始美術として認知されるに至った。

　ところが、世界最古の洞窟画を目の当たりに観た歓びに浸っていたのも暫くの間であった。というのは、1997年の12月にアルタミラよりも2倍以上太古に遡る31,000年前の壁画が南フランスのアビニオン北方に位置するアルジェ渓谷で発見されたというニュースが世界を駆け巡ったからである。この洞窟は発見者の名前に因んで「ショーヴェ洞窟」と命名された。洞窟内の調査はいまだに続けられており、当分の間はもとより、保存優先で永久に一般公開はされない見込みとされている。フランスではラスコー洞窟も一般公開はされず、寸分違わない模造画が近くの洞窟で観光客の鑑賞に供されている。

　南フランスからスペイン東北部を中心にヨーロッパ全域で旧石器時代の壁画が発見された洞窟は大小合わせて270を数えるが、ショーヴェ洞窟に描かれている動物は他の洞窟とかなり異なっている。その一部はインターネットの仏文化省Chauvetで検索して鑑賞できるが、たとえば豹と小さなハイエナが向かい合った図があり、犀やライオン、熊などが多く描かれている。しかも、岩の形を造形的に利用して、三次元の立体像に仕上げているようなモダーンな絵もあって、到底31,000年も昔の作品とは思えない。ビゾンや馬がほとんどのアルタミラや周辺の洞窟ともまったく趣を異にしているのは不思議である。ショーヴェ洞窟では壁画だけではなく、石の棚のような場所に人為的に置かれた熊の頭蓋骨などが発見され、研究者に衝撃を与えている。

　これらの洞窟の壁画は狩猟呪術のために描かれたと解されている。絵画を鑑賞の対象とするようになったのはごく最近のことで、旧石器時代の洞窟画が人に見せるために描かれたものでないことは明らかである。それにしても、これらの洞窟絵画が人々がきわめてアクセスしにくいところに描かれているのは何故か、原始人の精神活動とどのように関わっていたのかといった謎は尽きることがない。

　この地域に住んでいたクロマニヨン人と呼ばれる現代人の祖先は数万年前に東方からヨーロッパへ移り住み、先住のネアンデルタール人と混血はしたが、相争うことはなかったらしい。それにもかかわらず、ネアンデルタール人は35,000年前に忽然として地球上から姿を消し、クロマニヨン人だけが生き残った。当時、氷河期であったヨーロッパで、深い信仰心と絵画を描く美的センスまで身につけるに至ったことが厳しい自然環境に適応し得た強い生命力の根源となったのであろうか。3万年もの昔からすでにかなり高度に完成した芸術を持っていたクロマニヨン人の創造力がその後の文明を築く大きな原動力となったものと考えられる。

　ショーヴェ洞窟の壁画発見は、秦始皇帝時代の兵馬俑発掘やユダヤ人が残した旧約聖書などの死海文書の発見と並ぶ考古学上の一大発見である。これほど大きな新発見からすでに4年も経っているのに、現行の高校世界史教科書はいずれもショーヴェ洞窟に言及することなく、依然としてアルタミラやラスコーの動物画を原始美術として紹介しているのは頂けない。いずれは改定されるのであろうが、人類史における美術発祥の時点を17,000年も遡及する最新情報を採り入れず、間違った事実を高校生に教え続けるのは教育のあり方として憂うべき大問題である。

（個人会員、広島国際大学教授）

　（平成14年2月12日日本証券経済倶楽部発行「しょうけんくらぶ」第71号10－11頁所収）