2008年1月8日から1週間、ベトナムとカンボジアの世界遺産を訪ねた。
ベトナムでは、フエにあるグエン朝時代の王宮と帝廟などの遺構、フエの南110kmに位置するダナン近郊の古都ホイアンの街並み、その南にあるチャンバ王国の聖地であったミーソン遺跡の3ヵ所が世界文化遺産として、フォンニャ・ケイバン国立公園(Phong Nha Ke Bang National Park)とハロン湾(Ha Long Bay)が世界自然遺産としてユネスコに登録されている。
ところが、ベトナムの自然遺産2件のうちハロン湾はともかくとして、世界最高級の一つといわれるフォンニャ洞窟については、その存在すらほとんど知られていない。この素晴らしい洞窟は、日本からはもとより、他の地域からも観光客が訪れることの少ない、世界で最もアクセスの不便な世界遺産の一つとされている。
最近、ベトナムへの観光旅行はアンコール・ワットとのセットを中心に増えてきているが、ベトナムではホーチミンとハノイ近郊しか訪れず、五つの世界遺産のうち4ヶ所が集中している中部ベトナムへ足を延ばす観光客はきわめて少ない。しかしながら、ベトナムの歴史・文化や自然美を満喫するには、観光資源は皆無に近いホーチミンやハノイよりは、フエを中心とする中部ベトナムに目を向けるべきと、このたびの旅行で痛感した次第である。
本稿では、ベトナムの歴史にも思いを馳せながら、フォンニャ洞窟とハロン湾の世界自然遺産を紹介したい。
1、フォンニャ洞窟の位置づけ
フォンニャ洞窟は、1990年に英国の探検隊が地下および水中の地図を作成し、総延長を44.5kmと計測した結果、その存在が世界に知られるようになった。2003年には、この洞窟だけではなく、フォンニャ・ケイバン国立公園全域のカルスト生態系とともに、ユネスコによって世界遺産に登録された。フォンニャ・ケイバン国立公園は、豊富な生態系を有する東南アジア最大のカルスト森林保護区でもある。
世界には数多の洞窟があるが、このフォンニャ洞窟を加えても、世界遺産に登録されたものは十指に満たない。石灰岩洞窟では、北米にある総延長が563㎞と世界最長の「マンモス・ケーブ」と地下200mまでエレベーターで降りる「カールスバッド」、東欧の二ヵ所、アジアではマレーシアにある700×450mの最大空間である「サラワク・チェンバー」を含むグヌン・ムル国立公園、それにオーストラリア東部のグレーター・ブルーマウンテン地域にある「ジュノラン」鍾乳洞くらいである。
このジュノラン鍾乳洞を形作る地層は、約3.4億年前に誕生した世界最古のカルスト台地であることが、最近の研究で明らかとなった。フォンニャ洞窟は約2.5億年前にできた地層で、アジアでは最古とされている。
カルスト地形とは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水などによって溶食されてできた地形である。岩石はごく微量ながら水に溶解するが、その溶解性は岩石の化学構造によって大きく異なる。石灰岩は炭酸カルシュウムで出来ており、他の岩石に比べて水に対する溶解性が高いため、水による浸食に加えて、岩石が少しずつ水に溶けて変形した結果、地表の凹凸が激しく、地下には大きな空洞を有する特異な地形を形成する。
フォンニャ洞窟からラオスに属するヒン・ハムノ(Hin Hamno)カルストに広がるこの地域は、世界の二大カルスト地形の一つとされている。もう一つは、カルスト地形の語源となったスロベニアのKrasという地域である。このほかでは、中国の桂林や石林、ハロン湾、わが国では秋吉台などが典型的なカルスト地形である。
フォンニャ・ケイバン国立公園には、300以上の洞窟が存在し、総延長44.5㎞に達するが、その中で最大のフォンニャ洞窟は、英国洞窟研究協会(British Cave Research Association, BCRA)が定めた七つの評価基準に合致する自然の造形美すべてを備えた世界二大洞窟の一つと判定された。七つの基準は、洞窟の全長、洞窟空間の広さ、洞窟の高さ、地底川の全長、その川べりや川底の美しさ、鍾乳石と石筍の素晴らしさである。フォンニャ洞窟は、その中の「洞窟内の川の全長」で13,969mと最長。川が流れ出る出口は極めて狭いが、まさに怪獣が口を広げたように中は広大である。
フォンニャ洞窟への観光シーズンは5~9月とされているが、夏場はかなり暑い。9~12月には川が増水して、洞窟の中へ川からは入れないことが多い。この地域への旅行は乾季、しかも台風シーズンを避けた1~3月がベストであろう。
2、フォンニャ洞窟への道のりと洞窟観光
フォンニャ洞窟はベトナム中央部のクアン・ビン県にある。フエから250km、ハノイの方向に195kmほど北上、ドンホイという町から旧ホーチミン・ルートへ入り、ラオス国境に向かって北東へ55km、フエから車で4時間余りかかる。
フエから100kmほど北上したところを東西に流れているベンハイ川の河口近くにヒェンルン(Hien Luong)という町があり、川の北側にベトナム解放記念塔が建っている。この川に沿った北緯17度線の南北6kmが、1946年から54年まで続いたフランスとホーチミン政権との第一次インドシナ戦争の暫定休戦ラインと定められた。1956年には、南北統一選挙が行われる取決めであったが、南ベトナムに樹立されたゴ・ディン・ジエム政権が米国と組んで、一方的に独立を宣言した。その後、不幸にも東西冷戦に巻き込まれたことから、このベンハイ川を境として1975年のベトナム戦争終結まで22年間にわたって、国が南北に分断されていたのである。
ベトナムの国土は南北1,650kmにも及ぶが、中部のこの辺りは海岸線からラオス国境まで50kmにも満たない括れた地域となっている。ホーチミン・ルートは、かつては米軍に気づかれないようにジャングルの中をベトコンが夜陰に隠れ南へ移動したラオス国境近くの細い道であったが、日本からの援助などで舗装されて、今や立派な観光ルートに変身している。また、ホーチミン・ルートに沿って、この辺りには無数の洞窟があり、ベトコンが潜伏するのに格好の隠れ場所を提供してくれた。
フォンニャ洞窟は総延長8kmで、その中を世界最長の地底川が貫流している。フォンニャは「風牙」と書く。巨大な怪獣の牙のように見える鍾乳洞の地底から吹いてくる風を恐れ崇めた昔の人々が、地底から聞こえてくる風の音の神秘と脅威を怖れて名づけたものとされている。
フォンニャ観光は、船着き場のある町からモーター付きの小舟に乗ってエンジン駆動で約20分、川幅50mほどのソン川を遡る。川辺には、ベトコンが物資の輸送に使った補給路の記念碑が建っている。やがて支流に入り、絶壁の下にぽっかりと口を開けた入口から洞窟へ入る。洞窟の開口部は幅20m、高さ10mほどと狭く、9~12月の増水期には舟が入れなく日もあるとのこと。
洞窟の中は、ところどころライトアップされているものの、暗闇に近い不気味な雰囲気を醸し出している。小舟の漕ぎ手が水を打つオールの音が高い天井にこだましてかすかに響き、水の滴る音が心地よい。この幻想的で広大な地中空間を手漕ぎで15分ほど進んだところで舟を降りる。
観光客に公開されているのは、14kmも続く巨大洞窟のうち700mほどで、巨大な鍾乳石や石筍が上から下からにょきにょき生えている洞窟を見学する。地底を巡る神秘の旅は所要約1時間、現在でも鍾乳石が形成されており、非現実の世界に迷い込んだような感覚に捉われた。
左手奥の壁には、古代チャム族の文字と言われる落書きが残されている。チャンバ王国はフエを中心に海洋国家として栄えたが、17世紀にベトナムに滅ぼされた。この王国の北限がこの辺りにあったことを示している由。
いったん舟を降りて、500段の急峻な階段を上り、山の上にあるもう一つのティエンソン洞にたどり着く。
3、ハロン湾
ハロン湾は、北は中国、東は東シナ海に接するベトナム北東部のトンキン湾の一部であり、160kmに及ぶ入り組んだ海外線に囲まれた広さ約3,880平方キロ米の海域を指す。湾内には大小合わせて3,000もの奇岩、島々が存在する。うち1,000島程度にはそれぞれ形に合わせて犬、象、蛙、猿などの名前が付けられている。
このトンキン湾はベトナム戦争拡大の契機となったトンキン湾事件の舞台として歴史に名を留めている。 1964年8月、トンキン湾でで北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に向けて2発の魚雷を発射したとされるのがこの事件である。米国はこの事件を重大視して、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を可決し、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、北爆を開始して、ベトナム戦争が本格化した。しかし、1971年6月、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が、7,000ページに及ぶペンタゴン・ペーパーズと呼ばれる機密文書を入手、トンキン湾事件はアメリカが仕組んだもので、事件自体一部は完全な捏造であったことを暴露した。1995年には、当時のマクナマラ国防長官も同様の内容を告白している。
ハロン湾の漢字表記は「下龍湾」、ドラゴン(龍)が下るという意である。伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、天国から舞い降りた龍神の親子が口から出した真珠や翡翠の玉を振りまき、ハロン湾の小さな入江に何千もの奇岩と小島を造って、この湾岸とそこに住む人々を外部の侵略から守った故事が伝えられている。
これを史実に照らすと、ベトナムは前後三回もの元寇を経験している。モンゴルは宋を滅ぼす以前の1257年にべトナムへ侵攻、さらに1283年と1286年の二回、50万人規模の大軍でベトナム全土を蹂躙した。三回とも最終的には元の大軍を駆逐したが、三回目の侵攻時には、海路500隻の船団でやってきた元軍をハロン湾の少し北方にあるバクダン江の河口で迎え撃ち、壊滅させている。
これは、神風が吹いたからではなく、この辺りの海域は干満差が3mと極めて大きいことを利用したベトナム軍の知的戦略の勝利であった。ベトナムの知将が考えたこの作戦は、干潮時に杭を海底に打ち込み、満潮時を見計らって、元の艦隊に挑発、ベトナム艦を追跡してきた元の艦隊を潮が引いてきた結果、海底に打ち込まれた杭に遮られて身動きできないようにしたものであった。この敗戦で元軍は戦意を失い、撤退を余儀なくされた。
今日、この神秘的な入江に自然が削り出した石灰岩の島々や奇岩が突き出している様はおそらく昔とほとんど変わらないであろうが、この静謐さからは、ここが元寇とベトナム戦争の二度にわたり、戦場と化した面影は微塵も感ぜられない。
湾内にサンパン船やジャンク船の帆が大きな蝶のように水平線に浮び上っている様子は、まさにのどかな別世界で、まるで伝統的な中国の水墨画やベトナムの絵画のようでもある。ハロン湾には、人気のない砂浜と何百年も水上生活を営んできた漁師たちの姿も見られる。ここで水上生活をする人々は、今も悠久の入江に住む神々を崇めているのであろう。
この辺りの海は、エメラルド・グリーンに近い色をしており、年中ほとんど波もなく穏やかである。気候は、夏は雨が多く、多湿ながら、平均気温は15~25度Cと温暖で、年中、ビーチや岩島での魚釣り、神秘的な洞窟や歴史的な遺物めぐり、有名なリゾートでの休日を楽しめる。最近は、中国からバスや船便で4時間ほどで来られる近さが利して、中国からの観光客が急増、町には漢字の看板が溢れている。
ハロン湾は1994年に世界自然遺産に登録され、さらに、2000年には島に生息する鳥類や海の海草、魚類などの生態系の保護区に対象範囲が拡大された。
カルスト地形の典型的な景観としては、陸の桂林と海のハロン湾が双璧で、いずれも朝靄がかかっていると、唐時代の墨絵を見ているような趣である。ハロン湾は、James Bondの名画"Tomorrow never dies"で世界的に知られるようになった。
観光の拠点となっているハロン市は、ハノイ市から東へ180kmのところにあり、所要時間は車で3時間程度。市の中心はバイチャイ(Bai Chay)地区で、半径1km程度内に、ホテル、レストラン、カジノ、釣り堀やいるかのショーなど娯楽施設などが蝟集している。
ハロン湾ツアーの観光船は、アンチーク風の作りの屋形船で、10名乗りから70名くらい乗れる大型船まで多種多様、常時100隻程度が、一回4時間から8時間の食事付きのツアーで、年間延べ360万人の観光客を乗せて湾内を運航している。ツアーでは、観光船から島々を眺めるだけではなく、1~2の島に上陸して島の中が空洞化してできた鍾乳洞の見物をさせてくれる。
狭い船着き場に雑多な観光船が犇めき合っていて、乗船すべき船に辿り着くには、別の船の船縁を歩いて行くしかない。この混雑は尋常ではないと思っていたところ、本年3月には、環境汚染を問題視した政府が、新船の建造を当面の間禁止すると発表している。
今回訪れたチエンクン(Thien Cung、天宮)の洞窟は、ハロン湾でもっとも美しい洞窟の一つで、観光港から約4km、湾の南西に位置し、標高25mのダウゴ島の中にある。狭い入口を通り、中に入ると、島の中は長さ130mの中空で、すばらしい自然の造化に目を瞠る。この洞窟の発見は1993年と新しく、たまたま時化で避難した漁師が発見したという。ハロン湾にはこのような島の中が中空になった洞窟がいくつもあり、中でも一番大きな洞窟は、ベトナム語で「驚き」を意味するスンソット(Sung Sot)洞窟で、その広さは1万平方米もある。どの洞窟に立ち寄るかはツアーによって異なっている。
帰途立ち寄ったハノイ市は、2010年が建都1,000年に当たるので、同年10月10日に記念式典を行う。ハノイに泊った2008年1月13日は、建都1,000年の記念日までちょうど1,000日のカウントダウン開始の大イベントが催されており、街中賑わっていた。ハノイは長い間、ハロンの「下龍」に対し、「昇龍」(タンロン、Thang Long)と称していた。かにかくに、ベトナムは「龍」が大好きなお国柄である。
(岡部陽二、元㈱住友銀行専務取締役、元広島国際大学教授)
(2008年7月20日、社団法人・日本工業倶楽部発行「会報」平成20年7月第225号p37~45所収)