エクアドルの地勢は、極めて多様性に富んでおり、四つの気候区分に分けられている。アンデス山脈の高地「ラ・シエラ」、海岸地方の低地「ラ・コスタ」、アマゾンの熱帯雨林「エル・オリエンテ」、そしてガラパゴス諸島である。
首都のキトはアンデス山脈の中腹、標高2,850メートルにあるため、赤道直下に位置するにもかかわらず、年間を通して過ごし易い「常春の街」とも呼ばれている。グワヤキルは人口二百万人を超えるエクアドル最大の近代的な町並みの美しい港町で、活気に満ちている。
ロハ市の南、この国の南端近くに位置するビルカバンバ村は年間の気温が17~26度で、世界の長寿村の一つとして名高く、研究者やここへ移住を希望する人々の来訪が絶えない。
ガラパゴス諸島は自然遺産、キト旧市街は文化遺産として、1978年に発足した世界遺産の第一号に指定されている。キト旧市街は16世紀から17世紀に南米におけるキリスト教布教の中心地として栄え、碁盤目状の石畳道路や金色の大聖堂など独自の宗教的な建造物が往時の姿を留めている。
この二つのほかにも、5,410メートルの活火山から赤道直下の熱帯雨林までを含む広大なサンガイ国立公園と16世紀半ばにスペイン人が建設したサンタ・アナ・ロス・クエンカの歴史地区が世界遺産に指定されている。
今回は、2006年8月、ガラパゴスへの往復の途次に三泊したキトとグワヤキルでの見聞を四点に絞ってとり纏めてみた。
赤道記念碑
エクアドルの首都キト市から北へ23キロのサンアントニオ・デ・ビエンチャという村を赤道が通っており、ここに赤道記念碑が二つ建っている。
一つは高さ30メートルの塔の上に直径4.5メートルの球体を載せた立派なもので、記念公園の中にある。この記念塔は1936年に、赤道位置確認200年を記念して建てられたものであるが、地殻変動の結果、この塔の位置は赤道から僅かにずれていることが分かった。もう一つの小さな記念碑が村はずれにあり、これは眞の赤道線上に建っている。
ここでは、チップを弾むと、移動式の洗面台を持った女性が上からバケツ一杯の水を流して下のバケツに移す渦巻き実験をやってくれた。赤道を挟んで洗面台の位置を一メートルずつ南北に移し変えてくれるのである。すると、赤道の一メートル北側では、排水口の栓の周囲で水流の渦が左巻き(反時計回り)となり、南側では反対に右巻きとなる。赤道直下では渦を巻かないで真っ直ぐに流れ落ちるのである。
台風が地球の自転に合わせて北半球では必ず左回りに回転する理屈であるが、僅か一メートルの間隔でこれほど明確に渦巻きの方向が分かれるとは驚きであった。
立派な赤道記念碑に向かい合って、これまた堂々としたラコンダミヌの胸像が建っている。ラコンダミヌはニュートンが唱えた地球楕円形説を実証するために、国王ルイ15世が1736年にエクアドルへ派遣したフランス科学アカデミー測地調査団の団長であった。
彼らの実測の結果、赤道の半径が極半径より21キロメートル長いことが判明し、北極から赤道までの距離の1,000万分の1を以って1メートルとすることが定められたのである。この実測がなければ、現在のメートル法の普及もなかったものと言われている。
このように地球は楕円形であるため、海抜ではエベレストが世界の最高峰であるものの、赤道付近のエクアドルにある標高6,310米のチンボラソ山頂が、地球の中心からは最も遠い距離に位置する。この最高峰は、エクアドルの象徴として国旗中央の紋章部分に描かれている。
不思議なことに、赤道の長さは6万キロもあるが、この赤道のすぐ近くにある大きな都市はキトだけである。シンガポールは北緯1度で赤道から140キロ離れており、ケニヤの首都ナイロビも南へ150キロ離れている。
イグアナ公園
グワヤキルの繁華街のど真ん中にある一区画のセミナリオ公園、通称「イグアナ公園」では数百匹の放し飼いのイグアナが見られる。イグアナは変温動物で朝動き出すのは遅いが、昼頃になると公園内の木々の間を飛んだり走り回ったりする。まさに、イグアナが鈴生りであった。
イグアナは蜥蜴が大きくなったような爬虫類で、希少動物の一つである。この公園で飼育されているイグアナはガラパゴスの陸イグアナと海イグアナの原型といわれており、体長1.5メートル近くの大柄にもなる。結構愛らしく、人を怖れない点はガラパゴスのイグアナと同様であるが、ガラパゴスとは違って、ここではイグアナに触れるのも、餌をやるのも自由であった。
この公園は、地元の大金持ちが自分の邸宅を市に公園として寄付したものであるが、その際に、愛玩していたイグアナをそのまま飼い続けることを条件としたため、市が飼育している由。結果的には、まさにグワヤキル市最高の素晴らしい観光資源となっている。もっとも、放っておくと繁殖しすぎるので、時々山の中へ放しに行くそうである。
海軍博物館と日露戦争で活躍した巡洋艦「和泉」
わが国とエクアドルとの外交関係は、1894年(明治27年)にチリが売りに出していた巡洋艦エスメラルダ号を、明治政府がエクアドル経由で購入したことに始まっている。当時、チリは永世中立を宣言していたため、日清戦争の交戦国であるわが国に軍艦を直接売ることができなかった。
そこで、チリは戦費を貸付けていた非中立のエクアドルに軍艦の売却仲介を依頼したものである。この軍艦は、その十年前に英国で竣工、全長82メートルあり、艤装をやり直したうえ、巡洋艦「和泉」と命名されて、日露戦争時に日本海海戦で大活躍をした。
ところが、グワヤキル港を出港してガラパゴスで日本船籍に切替える手順を失念し、全航路にわたってエクアドルの国旗を掲げたまま、わが国に到着した。この手違いが時の政府が裏取引で国旗を売却したとの醜聞に仕立て上げられて、クーデターが起こり、政権が転覆した。
エクアドルの人々は、この事件を通じて、太平洋を挟んで遥か彼方にある日本の存在を始めて知ることとなった。 この経緯などを詳しく知りたいと思い、現地の日系旅行ジャパン・ツアーズの鳥居社長にお願いして、海軍博物館に赴いたのが楽しい思い出となった。
国立衛生・熱帯医学研究所と野口英世の貢献
1900年に渡米した野口英世は米国のロックフェラー研究所で業績を積み重ねてきたが、これまでの研究に行き詰まりを感じていた。
そこへ、当時蔓延していた黄熱病と思われる風土病の調査の招請がエクアドル政府から研究所に来た。これに応えて、英世はロックフェラー財団が派遣することとなった調査団の主任研究員を自ら志望したのである。
この調査団は1918年の7月にグワヤキルに到着、一行は一ヶ月あまりの滞在で防疫体制の検討ができたとして帰国したが、英世は単身残留を希望して研究を継続、一行が帰った一ヵ月後の10月には病原体を発見し、ワクチンまで完成させたと発表した。しかも、彼が開発したこのワクチンによって、数千人の命が救われたと記録されている。
この業績を称えて、野口英世は当時としては最高位のエクアドル軍名誉大佐に任命され、盛大な謝恩会も開かれた。エクアドルに留まって、国立研究所の所長になってくれないかとも要請されたが、この申し出は断っている。エクアドル政府は、この業績を顕彰すべく、英世の生誕100年には記念切手が発行されている。
この時にグワヤキルに創設された国立衛生・熱帯医学研究所の玄関右壁にも野口英世を顕彰する銅版のレリーフが掲げられている。
ところが、そのレリーフの横には、「黄熱病の病原体分離はウオルター・リードにより1901年に、ワクチンの開発にはマックス・タイラーが1937年に成功し、その功により1951年にノーベル医学賞を受けている。野口博士が1918年にこの国において発見し、黄熱病ワクチンを開発したというのは誤りである」と、この研究所の現所長であるE・グティエレス博士が最近加筆した説明文が掲げられている。この記述は事実その通りである。
疑問はいま時になって、どうして公知の事実を改めて記述する必要が出てきたのかということである。その理由は、2002年にキトで出版されたスペイン語で書かれた「ヒデヨ・ノグチ」という教育用の本にあるとされている。
この本には「エクアドルで野口博士は、黄熱病の病原菌を発見した。それはレプトスピラ・イクテロイデスと名付けられた。博士は直ちに血清を完成させた。山地で被病した兵士たちが、この血清で救われた。エクアドル人はみな、野口博士の発見に熱狂した」と記述されていたのである。
この記述も、前述のとおり「黄熱病」という病名以外は誤りではない。ただ、野口英世が発見したと確信した病原菌は、黄熱病同様に高熱を出すワイル氏病(出血性黄疸)の病原菌であって、黄熱病菌なるものは、そもそも存在しなかったということである。
混乱の源は、似通った症状でも、エクアドルのワイル氏病は細菌によるものであったが、アフリカの黄熱病は、細菌ではなくウイルスによるものであったため、エクアドルで開発された細菌用のワクチンは効かず、野口英世は5年後の1923年に自らの命をガーナのアクラで失った。黄熱病のウイルスが肉眼で確認されたのは、電子顕微鏡の開発が進んだ1950年代のことである。
グティエレス博士の説明文にある「科学に携わる者として誤りは誤りとして伝えなければならないのが、科学者の態度の発露である」という説明にも説得性がある。
(個人会員・医療経済研究機構専務理事)
2008年2月22日、(社)日本証券経済倶楽部発行「しょうけんくらぶ」p10~12所収)