僅か方寸の小片に凝縮された美しい図柄や色彩に魅せられ、中学生の頃からはじめた趣味の切手収集はほぼ半世紀になろうとしている。その間、途中で何度も途絶えたものの、こつこつと続けてきた結果、日本の記念切手では明治27年発行の銀婚記念切手から最近のものに至るまで全種揃えることができた。しかし、普通切手、殊に我が国郵便制度創設当時に発行された手彫りの龍文切手や桜切手などの希少品は値も張るために手が届かず、せっかく目指した日本切手全種コレクションも画竜点睛を欠く状態のままであった。
ところが、海外出張の折りには、外国のお客様へのお土産になるべく日本切手のセットを差し上げることにしていたのが幸いしてか、1985年に初めてロンドンへ赴任して間もなく、たまたまホワイト・ウエルド社のクライブ・スミス氏の知己を得ることが出来た。氏は大の切手マニアで、旧英領、とりわけマルタ島の切手を中心に幅広く集めているコレクターであると同時に、纏めて仕入れた切手の値上がり益を狙う投機家でもあった。このスミス氏にシティーの西隣に位するストランド街で毎週開かれる切手市を案内してもらって驚いた。何と、日本では垂涎の的であった明治初期の希少切手が思いもかけぬ安値で何気なく売られているではないか。その後は、再開発で整備される以前のチャーリング・クロス駅横のガード下で毎週土曜日早朝から催されている骨董市にも足しげく通った。
そこには屋台だけの小さな切手商が数軒並んでいたが、彼らは専門外の日本切手カタログは持ち合わせないため、時には高価な龍文切手などをまさに二束三文で入手することが出来た。もっとも明治初期の切手には偽造や模造品が多いため、真贋の鑑別力が欠かせないが、幸いにも当時中学生であった次男の徹が、予め日本から取り寄せていた専門カタログで鑑定を手伝ってくれたので、大いに助かった。このような訳で、私の日本切手コレクションは明治初期の手彫り切手などが多数加わって質量共に飛躍的に充実したものとなった。
この過程で発見したのは、ロンドンには高級専門店から主人一人の屋台店まで、様々な階層の切手商が数多く存在するうえに、南アのヨハネスブルグで店を閉めた切手商の在庫がそのまま空輸されて、翌日にはチャーリング・クロスの露店に並ぶという国際的な仕組みが出来上がっているということであった。要するに、金融とか、穀物・金属などの取引に限らず、ロンドンではあらゆる商品の集散機能が効率よく働き、需要と供給が存在すれば、どんな商品でも市場原理に立脚したマーケットが成立するということである。このようなロンドンの自由な空気に触れて、マーケットとはかくあるべしと、まさに目から鱗が落ちる思いであった。
その後、欧州大陸へ出かけてみると、切手マーケットは各地に存在していることが判った。パリのシャンゼリゼ大通りで毎週末に開かれる青空市をはじめ、ブラッセルやマドリッドでも盛大な市が立っている。何しろ全世界では毎日50種類を下らない新しい切手が誕生し、前世期来発行されてきたすべての切手がコレクターのためのマーケットを形成しているので、その種類の豊富さに関する限り、他の商品とは比すべくもない膨大な規模となっている。したがって、100軒を超える切手商が参加して欧州の大都市で年に一、二回開かれる切手フェアーも大変な盛況を呈している。
一方、残存枚数が限られている高価な希少切手の取引は通常オークションで行なわれている。オークションの方式としては、いっていの場所に参加者が集まって競りを行う立ち会い形式も勿論あるが、郵便による入札が最もポピュラーである。オークション専業の切手商も多く、年に三、四回特製のカタログを印刷して、同好者に配布し、締切日までに最高値を入れた人に売り渡す仕組みである。その店へ出向けば、現物を見ることは出来るが、その場ではいくら値を弾んでも締切日以前に買うことは出来ない。また、二番札との値が開き過ぎた場合には、その差額の一定割合を差し引いた額で落札できるというルールも極めて合理的である。
オークションでは、人気が加熱して法外な高値が付くことも時にはあるものの、余程の珍品でない限り応札の機会は結構多く、気長に参加し続ければ、狙った切手を比較的リーズナブルな値段で入手出来る。内外価格差は古切手の世界にまで及んでおり、日本切手の希少品種もこれらのオークションで求めれば、時には国内カタログ・プライスの半値以下で容易に手に入れることが出来るのは嬉しい。同時に、欧州では切手オークションの市場でもコレクター(投資家)の自己責任に基づく完全に自由な価格形成機能が働いているのは、羨ましい限りである。
ところで、かねがね疑問に思っているのは、英国で1840年に発行された世界初の切手が1ペニーと2ペンスの二種類に限られていたのに対し明治4年(1871年)に東京-大阪間の封書用として初めて発行された普通切手には何故、銭四十八文、百文、二百文、五百文と4種もあったのかという点である。その当時の郵便料金表によれば、宛て先地までの距離に比例して料金が定められており、例えば東京-大阪間の封書(五匁まで)には銭五百文(翌年五銭に変更)切手を3枚も貼らなければならなかった。お手本とした英国では郵便制度創始者ローランド卿の決断で当初から全国均一料金制をとっていたことくらいは、明治維新政府も知っていた筈である。
わが国では、ようやく明治6年4月に全国均一料金への切り替えが行われた。これは当時の駅逓頭・前島密の決断によるものとされているが、封書二匁まで全国均一の二銭(市内は一銭)に引き下げられたのである。この間に丸二年を要した事情は今もって判然としない。素人の憶測ではあるが、既存の飛脚便との利害調整に手間取った結果とも考えられる。
また、当時、国際郵便は英米仏の領事館内に設置された在日外国郵便局に全面的に依存せざるを得ず、更には英系の馬車会社サザランド社発行の額面四分の一分、一分といった私製切手が横浜-東京間の逓送便に利用されていたという事情も深く関っていたのかも知れない。こうした状況から、近代的な郵便制度の確立を一刻も早く急がねばならなかった明治維新政府の焦りが、ひしひしと感じられる。外圧は明治維新以来、旧制度を破壊し新制度を創設する原動力であり続けたようである。
(明光証券会長 岡部陽二)
(1995年2月1日発行、日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第57号所収)