2018年11月5日に山和証券本店にて開催されました東証ペンクラブ例会におきまして、平成30年度の「東証ペンクラブ文化賞」を受賞いたしました。
東証ペンクラブの山口会長から表彰状と副賞をお授け頂きました後、概略次のような質疑を含め約2時間の受賞記念講演を行いました。
1、東証ペンクラブ文化賞受賞への謝意
東証ペンクラブは昨年創立50周年を迎えた伝統ある証券界諸賢の集まりであるペンクラブから文化賞を頂戴致しましたのは、身に余る光栄です。
山口茂会長、岡本博副会長、丸尾智彦副会長を初め、東証ペンクラブ理事の方々に厚く御礼申し上げます。
もっとも、この栄誉ある賞は、昨年は中島厚志氏、以前には三原敦雄氏、伊藤洋一氏といった証券界を代表するエコノミストやアナリストに与えられており、ずぶの素人である私には何かの間違いで迷い込んできたものと、戸惑いの感を禁じ得ません。
クラブの規定では、この賞は「執筆活動などを通じて永年証券界のために尽くした功績」に対し与えられることとなっておりますが、私は門外漢で、証券界にはまったく貢献しておりません。逆に銀行界に籍を置いて証券界と無意味な垣根争いに精魂を傾けてきた実績があります。「ペン」誌50周年記念号には「銀行系証券マンの哀歓」と題してこの間の不毛の闘いについて寄稿しました。
日本の金融界は、銀行の中でも預金や貸金の取り合い、証券界との幹事争いなどお互いに足を引っ張り合うだけで生産性を落とし、国際競争力を失ってきたのではないかと反省しております。
執筆活動という点でも、在職中はほとんど実績がありません。学生時代は作文嫌いで、60歳をて銀行を辞めるまで業務上の文章以外は書いたことがありませんでした。明光証券の会長になって、エッセー風の短い文章を書き始め、それらを纏めて1999年に「岡部陽二著作集~一国際金融人の軌跡」を刊行したのが、最初の出版物です。本書には70編の小論やエッセーを収録しましたが、その後の20年間でホームページにアップした国際金融論、証券市場論、医療経営論、地質鉱物学の趣味関連の小論文・エッセー数は500編を超えました。
まともな出版物として刊行しましたのは、ハーバード大学のレジナ・ヘルツリンガー教授が著した「医療サービス市場の勝者」の監訳が最初で、この本は1万部を売り切りました。医療の世界には「サービス」とか「市場」とか言った概念がなく、インターネットで「医療サービス市場」と入力いただくと、今でもこの本が最初に出て参ります。その後、「消費者が動かす医療サービス市場」「米国医療崩壊の構図」を2年おきに監訳出版しました。
今年になって、我ながら思いがけず、自分史「国際金融人・岡部陽二の軌跡~好奇心に生きる」を刊行しましたところ、これがお目にとまったのが契機で「東証ペンクラブ文化賞」を頂けるのは、まさに望外の幸せです。
本日はこの自分史刊行の経緯と現役時代の主なテーマでありました規制との闘いについて、とりとめのない話をします。
2、自分史刊行の経緯
一昨年に藤原作弥氏(1937年生まれ、元時事通信記者・論説委員、日銀副総裁)のご講演「昭和時代に生きる」を聴き、同氏とほぼ同じ終戦翌年の1946年一年間を安東で過ごしたことを知りました。私より3歳若い同氏の著書「満洲、少国民の戦記(1988年、新潮文庫)に触発されて、私もほとんど忘れ去っていました当時の体験を「一満州難民の体験記」にまとめ、日本工業倶楽部の会誌に投稿しました。
これを読んだ娘に、こんな話は初耳と指摘されて反省しました。そこで、一念発起、終活の一環として生涯を通しての自分史の執筆に踏み切ったものです。
自分史の心掛けとしましては、
① 現代史の中に自分人生を重ねる(立花隆「自分史の書き方」)
② 自伝とは人生を肯定した文学であるべき(石田修大「自伝の書き方」)
③ 名もない人、ごく普通の市民が自分の人生を振り返って書くのが自分史(前田義寛ほか「失敗しない自分史作り」)
といった視点、心掛けが肝要と理解しました。
ただ、記述の客観性を担保するには、編集者の協力が不可欠と考えて、日経の元記者・杉本哲也氏にインタビューを、出版部に編集をお願いしました。「私の履歴書」で培われた日経の編集力は流石に優れたプロの技でした。
折角自分史を纏めるからには少しでも多くの若い方に読んでいただきたいものと考え、印刷本は少数部に留め、基本的にはアマゾンKindle 版の電子書籍刊行に重点を置くこととしました。
お陰さまで、この電子書籍は好評で、カストマーレビュー(下掲PDFご参照)にはいろいろな角度からの滋味あふれる数件のコメントご投稿を頂きました。中でも冒頭の元朝日新聞金融記者雨露歩氏(ペンネーム)からの規制との闘いに共感いただいた論評に感激いたしました。
本書の全文はインターネット上の「岡部陽二のホームページ」にも33編に分けてアップしております。
東証ペンクラブからの受賞に加え、11月15日発行の毎日新聞夕刊コラム「人模様」でも採り上げていただきました。
3、根深い業際分離問題との闘いの実感
金融業は規制の塊で国内市場では展開に限界があり、銀行が成長するには国際化が不可欠であることを最初の米国勤務を通じて実感しました。
証取法65条をめぐる銀証垣根問題は業務規制の一つでしたが、銀行界の中での長短分離(都市銀行の社債発行不可)や外為専門銀行の優遇といった規制の壁の方がむしろ大きな国際化の障害となっていました。FRCD(変動利付CD)の開発にはこの長短分離と銀証分離問題が絡む規制との闘いでした。
日本では定期預金は指名債権で譲渡不可能でしたが、米英では有価証券化されて転々流通していた点に着目したことがFRCDの開発に繋がり、さらにはスワップ・デリバティブへと発展したイノバティブな世界で仕事ができたのは幸せでした。
個人的には、銀証分離(グラススティーガル法)は、理に適ったものと思いながら、立場上やむを得ず、ユーロ市場での対等な競争環境を主張せざるを得ませんでした。ストック重視とフロー重視の業務の性格の違いは大きく、フローの商売は市場での価格形成機能が不可欠との思いを13年余に及んだロンドン勤務で深くしました。
住友銀行とゴールドマンサックス(GS)との資本提携は、商業銀行が自前で証券ディーリングやM&Aなどの投資銀行業務を展開するには人材的に無理があるので、国際証券業務はGSに任せて銀行としては放棄し、GSからの配当で満足しようとの考えがその本質でした。このような考え方は銀行内でも受け入れ難いとする意見も多く、理解を得るのに苦労をしたのが実情です。