連載61周年を迎えた日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」に登場した全819人から選りすぐった「専門家でないと知りえない情報や知識、技能、ノウハウ」を詳しく披露したユニークな書。全登場人物を出生地、学校、職業、連載回数などいろいろな面から分析し新しい発見も紹介。経済人の業界一覧他8つの分類表も掲載する。
「私の履歴書」研究の第一人者が著した『ビジネスは「私の履歴書」が教えてくれた』(2012年)『人生を「私の履歴書」から学ぶ』(2017年)に次ぐ全三部作の集大成であり、完結編である。
日経の「私の履歴書」がロングランを続けているのは、その人選の意外性にあるのではなかろうか。本年5月に登場したインドネシアのリッポーグループ創業者モフタル・リアディ氏は実業界でもあまり知られていないが、彼の波乱万丈の人生がアジアの時代の勃興を牽引してきた物語には迫力がある。
実業界でも「売れ筋はすぐ作る」という独特のビジネスモデルで、業界大手に成長した非上場のアイリスオーヤマの大山健太郎社長の履歴書(2016年3月)にはサラリーマン社長には見られない面白みが蔵されていた。
「私の履歴書」は日経の文化部が担当し、実際の制作は政治部や経済部など各部の記者が全面協力する体制が確立している。誰に登場してもらうかは、編集局全体で政治・経済・スポーツなど各分野から2~3年先までの候補者を挙げ、文化部が分野別のバランスを考慮しながら絞り込む。本人の内諾を得たのちに、最終的には社長が主宰する常務会で決定される。
全登場者のうち、芸術家・政治家・学者などの非経済人が525名と2/3近くを占め、最近では外国人の登場が増えているのも素晴らしいバランス感覚である。J・K・ガルプレイス、マイク・マンスフィールド、ピ-ター・ドラッカーの3氏が揃って96歳の高齢で登場しているのは驚きである。女性は43名と5%強で、女優に偏っている点は今後の改善課題であろう。
このように日経文化欄の定番として「私の履歴書」を定着させたことが成功の鍵となったものと解される。評者も日経紙を愛読しているが、一面や三面記事は見出しを眺めるだけで、流し読みするだけである。一方、最終頁の文化欄については、連載小説、履歴書、交遊抄などを精読している。
著者・吉田勝昭氏の分析は、作品を陰で支える担当記者などの存在にも光を当てている。読ませる作品に仕上げられるか否かは、一に編集者の力量に掛かっているからである。登場人物本人が30日分の原稿すべてを書くのは、作家や学者などの一部に限られており、ほとんどの場合、記者が資料を収集したうえで第三者にも取材をし、本人とのインタビューを重ねて、読み易い文章にまとめ上げている。
交換留学生の生みの親であるJ・ウイリアム・フルブライト氏やGE会長のジャック・ウェルチ氏を担当した勝又美智雄氏によれば、事前準備に米国の連邦議会図書館に通いつめたり、多数の関係者に会って証言を採ったり、大変な苦労をしておられる。その結果、まさに勝又氏の創作に近い作品となっている。
著者の考察はこうした裏話にまで及んでおり、「私の履歴書」への興趣を一段と増してくれる。
(評者 岡部 陽二 元住友銀行専務取締役)
(2018年7月1日、外国為替貿易研究会発行「国際金融」1310号、p70所収)
<追記>
2018年7月2日に、赤坂・クーポールにて開催された著者の吉田勝昭氏主宰の「『私のの履歴書』研究会」に講師として招かれ、元アサヒビール社長・会長の樋口廣太郎さんの『私の履歴書』(構成;下掲)について、銀行勤務時代の思い出などを1時間ほど話しました。
アサヒビール再生の大成功は、樋口さんの経営者としての人遣いの巧さに尽きます。部下をどやしつけながらも、信頼してやる気を引き起こさせる独特のお人柄は銀行時代に磨き抜かれたものであることを軸にエピソードなどをご披露しました。
樋口さんの『私の履歴書』は2001年1月に掲載され、大好評でしたがが、翌年には脳梗塞を患われ、ぎりぎりのタイミングで日の目を見たものです。
樋口廣太郎「私の履歴書」の構成
1、夢あればこそ |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
希望と夢、運鈍根、運が強い |
||
2、アサヒ初出勤 |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
1986.1.7から顧問、3.28に社長就任、村井勉社長の後任、本社屋売却に反対 |
||
3、住銀を飛び出す |
アサヒビール |
1986~1992 |
銀行35年;自由に発言、磯田頭取への直言が仇、アサヒでは成算と販売の交流もなし |
||
4、引き継ぎ |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
ネアカの前社長、銀行から出向4代の弊 |
||
5、問屋行脚 |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
香典代わりにアサヒを飲んでくれ、2か月で2,500人の問屋往訪 |
||
6、組合との戦い |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
組合貴族化していた幹部と対決、強面戦術(銀行時代に培った) |
||
7、商売敵の助言 |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
キリンビール小西秀次会長、サッポロビール河合滉二相談役から麦芽のマンネリ仕入れ、製品の賞味期限切れの忠告を受け改善 |
||
8、スーパードライ |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
技術者は優秀ながら、味を変えることへの抵抗感~これを打破、イメージチェンジ、 1987年3月発売、350万箱売って、シェア21%(13%から)、業界2位へ躍進 |
||
9、失敗と躍進 |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
「一番しぼり」も吉原製油から提案なったが、キリンにとられた。財テクで資金調達し工場や広告に思い切った投資、豪ビール会社買収は失敗、奇跡の復活 |
||
10、先人の碑 |
アサヒビール社長 |
1986~1992 |
500人の退職者を再雇用、「先人の碑」建立、本社ビル、1989年;創業100周年 |
||
11、後継社長 |
アサヒビール会長 |
1992~2003 |
最初から生え抜き抜擢を決意、瀬戸雄三社長にバトンタッチ、「痕跡を残さず」;カトリックの教え、1998年;45年ぶり業界トップ、シェア;39.5%、6,000億円の設備投資の成果 |
||
12、やんちゃ坊主 |
幼児期 |
1926年5月25日出生 |
京都・出町柳の布団屋、湯川秀樹と同じ小学校、商人の子への差別に反発、ガキ大将 |
||
13、父、徳次郎 |
幼児期・小学校 |
1926~1939 |
父は滋賀県の小作人の出、小学校2年生から布団屋の配達手伝い、徴用で廃業 |
||
14、学者の道 |
高専(中学・高校) |
1939~1946 |
彦根高商へ進学、野村証券へ就職、京都支店閉鎖で野村銀行へ転職、京大経済合格 |
||
15、学生運動 |
京大・経済学部 |
1946~1949 |
自治会中央委員、会計学もマル経で資本論から始まった、カトリック、弁論部キャプテン |
||
16、住銀勤務 |
住銀・梅田支店 |
1949~1952 |
神戸大・山下勝治教授の夜間授業助手兼務、 |
||
17、充実の時 |
住銀・東京支店、東京事務所調査課 |
1952~1964 |
1955年1.15、英子夫人と結婚(28歳)、娘2人、MOF担 |
||
18、堀田頭取秘書 |
住銀・五反田支店長、頭取秘書 |
1964(38歳)~1968 |
吹原産業詐欺事件を回避、支店長1年余で頭取秘書、政界・財界の重鎮を知る |
||
19、本音の交流 |
住銀・東京業務部長 |
1968~1974 |
堀田頭取の教え「お・い・あ・く・ま」、上司;伊部恭之助のメリハリ、安藤太郎の執念 |
||
20、安宅危機 |
住銀・取締役(1973)、東京営業部長 |
1974(47歳)~1976 |
75年9月;安宅産業の財務危機を察知、伊藤忠との合併交渉に奔走 |
||
21、根回し |
住銀・常務・専務(安宅問題に専念) |
1976~1980 |
伊藤忠・戸崎社長の英断で終結、安宅コレクションの東洋陶磁を大阪市への寄付 |
||
22、国際総本部長 |
住銀・専務・国際本部長 |
1980~1984 |
ゴッタルド銀行の買収、為替ディーリングで、損切りを徹底、「前例がない、だからやる」 |
||
23、病の日々 |
住銀・副頭取 |
1984~1986 |
胃潰瘍・胆石など入院手術の連続、ストレスは人並み |
||
24、頼まれ事 |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
1994年;防衛問題懇談会議長、1995~1999;経団連副会長・財政金融委員長 |
||
25、プッチホン |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
1998年;小渕内閣で経済戦略会議議長、99年2月に答申 |
||
26、お目付け役 |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
2000年;警察刷新会議座長代理、市町村合併推進会議座長、ニュービジネス協議会会長 |
||
27、デザイナー |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
大山崎山荘、安藤忠雄氏に依頼、東京都現代美術館館長 |
||
28、オペラ漬け |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
1997年;新国立劇場運営財団理事長、文化庁文化政策推進会議議長、 |
||
29、アメフト |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001 |
京大アメフト部を支援、アサヒビールでシルバースターを支援、日本一 |
||
30、未来をひらく |
アサヒビール会長・相談役・名誉顧問 |
1992~2001(75歳) |
個性、独創性がポイント、レクイエム(鎮魂曲)の作詞を曽野綾子氏に、作曲を三枝成彰氏に依頼、「あなたの傑作は?、次の作品です」(チャップリン) |
||
|