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「抜擢の時代」 40代新取締役座談会

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  岡部 陽二 <住友銀行 取締役>  
  金井 千喜 <立石電気 取締役>
 内村俊一郎<西武百貨店 取締役>  
(年齢順)

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苦しさは面白さ

岡部 この問いを聞かれて弱っているのですが、なぜ住友銀行に入ったかって。とくに理由があるわけではなく、偶然みたいなものですね。強いてあげれば京都大学を卒業する前年の昭和31年に、京大経済学部創立35周年の記念講演会がありましてね。当時住友銀行頭取であった現名誉会長の堀田庄三氏が講演されたんです。そのころの私は一般に銀行というところはきびしいものだ、とくに関西系の会社はすごいそうだという程度の事しか知らなかったのですが、堀田さんの講演はルイス・ベネディクトの「菊と刀」などを引き合いに出して、日本の精神文化について滔々と述べられたのです。
 ビジネスにはまったく関係のない話なのですね。ずいぶん余裕があるものだなとびっくりしたものです。これだけ余裕のある会社なら良い会社にちがいない、入ってもいいなと考えたのです。そんな動機で入ってみたらとてもそんな余裕はない(笑)。それで25年経ってしまいました。
 入行してからは主として国際畑を歩いて来ましたが、そのなかで、印象深いというか勉強になったのは、一昨年の12月までの4年半、住友銀行がロンドンに作った子会社の住友ファイナンス・インターナショナルに社長として出向したことですね。国内ではまだ時間がかかると思われる証券と銀行の垣根を破る橋頭堡として、まず外国から始めようということで当初は合弁で作った会社です。
 しかし、この仕事はストックを運用する銀行と違って、フローを追っかける商売です。ちょうど百貨店と同じで、手を動かさなければ何も入ってこないわけです。変な言いかたをすれば日曜に休んでいても金利はかかっているわけですね。しかし、証券を扱う場合はそうはいかない。安い時に買って高い時に売る、そうして差益を出すわけですから、毎年予算を立ててもなかなかそうはいかない。この仕事は面白かったですね。面白さというのは苦しさかもしれないけれど、かなり銀行とちがった仕事をやったわけで、勉強になりました。

金井 私は昭和13年生まれの36年入社ですが、入ったときからマーケット開発をやってきました。35年ごろからアメリカ流のマーケティングが入ってきましたが、現在の会長、当時社長だった立石一真さんは、マーケットは創るものだという信念を持っておられて、ニーズを掘り起こして、それに合った製品を開発するんだと言われ、以来20年間マーケットの掘り起こしをやってきたわけです。それが、いま銀行で使われている自動支払機(キャッシュディスペンサー)とか鉄道の自動券売機などですね。これにしても、やってみようというお客様と、しっかりした資金の裏付けがなければできないことで、失敗したらどうにもならないノルかソルかの大仕事なわけです。
 その後、47年ごろから流通の仕事を考えようということで、キャッシュレジスターをメカから電子式に切りかえる開発をしたわけです。それも後発だったのですがマーケットに乗って、いまではレジスターメーカーとしても一人前になってきましね。五十年ごろからは海外のニーズの掘り起こしをやってみろと言われてそんなこともやってきました。ふり返ってみると、面白いけれども冒険に富んだ仕事ばかりだったですね。
 そして、いまでは住友さんも、西武さんもわれわれのお客様というわけなのですが(笑)、入社当時はまだ立石電気ですと言っても、「電気屋さんに用はない」って言われましてね。そういう意味では企業も波瀾万丈だったですが、それといっしょに歩いてきたわけです。新婚当時でも午前様ばっかりで女房には疑われましたが、好きでやっているので、あまり辛いとは思いませんでしたね。

内村 さきほど岡部さんはロンドンに社長で行かれてすごく苦労したというお話でしたが、私は逆に、すごくもうかったというか、一年遊学させてもらったのです。昭和39年に入社してちょうど13三年目で、会社のことがわかったような気がして生意気になり、すこし飽きたりもしているころですね。昭和52年の秋から一年間、シアーズ・ローバックとの技術委嘱協定の第一回目だということで、なんのオブリゲーションもなく行って見てこいと言われましてね。
 シアーズという会社は、小売業のアカデミーといわれるぐらいのすばらしい会社で、総論と各論というか、戦略と戦術がひじようにはっきりしていて、わかりやすい会社なのです。そういう、小売業の原点といわれるような会社を見ながら、外側から自分の会社を見ることができたのは、ずいぶんよかったことだと思っています。自分の会社の弱点とか変っている点とかを、悪口を言いながら岡目八目で眺められるということは、めったにないことだと思うんです。
 その結果、余裕というか、一歩下がって物を見ることができるようになりましたし、総論と各論があまり離れすぎているのはよくないな、などと反省して自分を見ることができるようになったですね。ずいぶんと自分の糧になりました。

取締役には後がない

金井 取締役になって、どこが変ったかとよく聞かれますが、はっきり言って、それまでは、失敗しても押しつけることのできる上がいたけど、これからは上がいないというのが実感ですね。

岡部 そうですね。このあいだテレビのインタビューで新日鐵の武田豊社良が言っておられたのですが、「何がむずかしいかというと、迂闊にものが言えなくなった」と言われたのです。社長と取締役ぐらいをくらべたら、まったく違うとは思いますが、しかし、ヘタな思いつきだけで物を言ってはいけないのは確かですね。社長がヤレと言ったら、全員がその方に走り出してしまう。スケールは小さいけれど、やはり同じ事が言えますね。自制しなければいけないという責任感が生まれてきます。私はよくアグレッシブだと言われるのですが、気をつけなければいけない。(笑)
 それと情報が薄〈なるという気がしますね。裾野は広がりますが、中味は薄くなる。それで判断しなければならないわけです。まあ、薄くなるのは当然で、課長は自分の課の情報を一日中聞いている。取締役はその下にあるいくつもの課から上がってくる情報だけを聞くわけですからね。そこで聞き方が難しくなってくる。長年の勘は働きますが、それで判断するのは危いし、昔流のキメツケでは結果的に誤ることが多いと思います。
 結局は、情報を持ってきた本人がいちばん詳しいわけですから「君はどう考えているんだ」と聞き返すのがいちばん判り易い。ところが、このごろの若い人は、上の考えかたを先に知りたがる。そして、上の考え方に合わせて資料を作って来たりする。その方が楽なのですね。しかし、それで判断するのはまずいわけですから、そこでもやはり「君はどう思うんだ」と聞き返すわけです。情報と判断ということから考えると、取締役というのは、一種の節目でしょうかね。
 取締役になったのは、運が八分だと思います。

金井 そうですね。実力だけでなったという自信はありませんね。やはり運としか言いようがない。

内村 運というのかめぐりあわせというのかわかりませんが、企業には企業のうねりのようなものがあり、節目もある。

 西武百貨店では、いま80年代の小売業は変革の時代に突入したと考えているのです。西武百貨店が40代前半の役員を今年たくさん作ったのは、その変革の時代に企業が対応しようとしているわけで、そういう企業の行動にわれわれの仲間がフィットしたということで、やはり運というんじやないですか。戦国の武将を考えても、時の流れにフィットする人、しない人があるわけで、やはり運がある。運も実力の内という方もいらっしゃるけれど。西武にとっては、今年が節目の年だったということですね。
  もし、私が買いかぶっていただけだとすれば、それは柔軟性みたいなものじゃないかなあと思います。つまり、流通業はいま物を店で売るというだけではなくなってきていますでしょ。通信販売のようなものとか、クレジットとか、また物でないものを売る。西武オールステートのような保険とかいろいろなニーズが出てくる。いまや消費者ではなく生活者のニーズに答えるという仕事になりつつあるわけです。だから古い小売業という概念では捉えきれなくなっているんです。新しい方向線はタテ軸のこれまでの小売業的なものと、ヨコ軸のグローバルな知識とがクロスしたところに見出されると思うのです。そのタテとヨコをミックスする柔軟性なのかなぁと。

岡部 取締役になってどこが変わったかという質問はよく出ますが、銀行の場合ですと、部長、支店長になれば、もうその段階で経営者としての考え方を持って仕事をすることを要請されています。ですから、さらに取締役になったからといって部長とたいして変わらないとも言えます。しかし、私どもは完全に事業本部制になっていますから、私の上は事業本部長の専務しかいないわけです。したがって細かいディテールまでみてチェックするのは実質的には私のところが最終段階になりますから、私が間違えば上も間違うということになる。これはこわいですね。それに、さっきも申し上げたように、上に行けば行くだけ情報が薄くなるんですからね。

金井 私どもでは、与えられた範囲内のこと、つまり事業部の事業責任は全部私のところに来るわけで、権限をオーバーしたことは常務会に上がってゆく。ですから、事業部内の組織、金、人のことは、全部ということになります。もちろんスタッフがいますから、外国のように唯我独尊的なことはできませんが、ここは日本的経営の良いところでしょうね。

内村 私などは取締役になって、ちがったところがあるといえばあるけれど、ないといえばないんですね。ただ、岡部さんの言われたことと似ていますが、後がないという感じで決定を迫られるわけですね。いつも「お前が最後だぞ」って言われているような。
 それから、プロセスに参加できないで決定を迫られる。これまでだったら、一つのプロジェクトのプロセスに何度かは参加できて、考えかたを知ることができた。しかし、取締役になってみるとスタッフが、何十時間も使って考え、まとめたことを、2時間ぐらいで決裁しなければならない。なにか時間の方は、こまぎれになって、どんどん追いこまれでいくような感じはしますね。
 平取と社長の違いなんて考えますと、社長はほんとうに後がないドンヅマリということですから、これはきついでしょうね。

挑戦し、革新しつづける意志

岡部 お話をお聞きしていますと、その会社それぞれの個性があるような気がしますね。どこでもそうかもしれませんが、住友というところは若さを大切にするというところが昔からあった。この雑誌「WILL」の第2号に、当行の磯田頭取が述べていますが、「向こう傷は問わない」ということが第一ですね。たとえ失敗があっても、必ず第二のチャンスが与えられております。これは仕事をする上では大きな支えになりますね。
 銀行というところは本質的には保守的なところですから、磯田頭取のようなはっきりした明言がないとどちらかというとリスクを避けて通ることになりやすい。

内村 しかし、あまり革新的になって倒れられても困りますよ。(笑)

岡部 そういう点は、私などはメーカーさんが羨ましい。たとえば、技術開発をやって、良いものができれば、それで伸びていくことができるわけですが、銀行の場合、徐々に金利の自由化はあるにしても、その差はたいしたことないし、その小さなところで勝負する、効率を上げなければいけないわけです。

内村 そういう意味では、百貨店というものも本来は保守的なもので、これまではお客様といえば、オーバーフォーティのオバサマ・オジサマでちゃんと一家を構えている人たちだったわけです。つまりその店の政策や品揃えなどで、お客様が店を選択していたわけです。そこに三越さんは三越さんの、伊勢丹さんは伊勢丹さんの個性、客筋というのが生まれてきた。
 さきほど、お二人とも企業のトップの個性に触れられていましたが、西武百貨店の場合も、リーダーである堤清二の個性が社員のすみずみまで浸透し、それが企業の個性になっているのです。前に80年代の流通は変革の時代だと言いましたが、西武百貨店は、別の意味で、つまり40年の歴史のものが、300年の歴史に対して挑戦し、変えていくには、立ち止まってはいられないということがあるのです。
 絶えず挑戦しつづけ、革新しつづけ、新しいものを提案しつづけていかなければ変えることはできない。自転車操業的に挑戦し、革新しつづけなければいけない。80年代の西武百貨店が革新しつづけ、挑戦しつづけなければいけないのは、この二つの意味があるわけです。そういう点では、同じ業種のなかでも、意味はだいぶちがう。

われら40代、貴重なジョイント

金井 お話を聞いていて感じたのですが、ここにいる40代3人でも、ずいぶん考えかたがちがっていますね。これは多分編集部が意図したことでもあるのでしょうが、岡部さんは昭和ヒトケタの大先輩です。

岡部 まだ47歳ですよ(笑)。終戦のとき、まだ小学校の5年生です。

金井 しかし、戦争のことはよく覚えておられるだろうし、たぶん勤労動員のようなことを知っておられる。内村さんは40代になったばかりですから。

内村 ぜんぜん覚えていません。昭和16年生まれですから、3歳半ぐらいですかね。

金井 そして、私はちょうどお二人の中間の44歳です。広島出身ですから、国民学校2年生だったけれど、戦争のひどさや混乱は鮮明に記憶しています。原爆のあと、配られた握り飯が腐っていたこと、しかし、それを食べなければ死んでしまう。われわれの世代は与えられた環境に耐えてがんばることを教わった。先輩たちはもっと厳しく経験しているのだと思うのです。だから、われわれ四十代にとって戦争は生きかたに影響を与えている。
 しかし、われわれの先輩は与えられた条件のなかで、道を開いてきた。われわれは開かれた道を歩いてきたわけで、その差はだいぶちがう。しかし、われわれ40代はここにいる3人のように体験の差はあっても、与えられた条件のなかで、さまざまな障害を超えチャンスを生かす活力を持っている。そういう点では、同じ方向を指向していると思うのです。昭和20年以降に生まれた人たちとは一線を画していると思うのです。先輩たちで大を成した人たちは、だいたい40代でその基礎を作られた方が多いんですが、われわれの40代は、いろいろの要素が輻輳している世代じゃないかという気がする。だから、却って、われわれの世代からは、刺激の与え方によっては、もっと偉い人が出てくるような気がします。

内村 商売している目でみると価値観のちがいがジェネレーションのちがいにあると思うんです。物の観察のしかた、陳列や広告まで、すべてにあらわれてくるのです。
 戦後第一世代というのは、昭和九9から11年までの、ちょうど岡部さんの世代で、青春は飢えの時代におくり、働くことに反省を持ちながらモーレツに働き、多少不器用で、仕事には少しイライラしながらロイヤリティは持っている。
 第二世代は、ちょっと飛んで昭和21年から24年のいわゆる団塊の世代です。戦争を知らない世代で、西武のリフレッシュ、丸井のともだち夫婦を支え、ジーンズ、ミニスカートを支えたファッション世代です。物心ついたころには高度成長のまっただ中と言う世代です。
 第三世代は昭和33年から34年に生まれた、高橋洋子さんやクリスタル族の世代、エレクトロニクスの発達のただ中で育った。そして第四世代は団塊の世代の子供たち、恐るべき子供たちというわけです。どのように育つかわからないが、エレクトロニクスはもはや生活の一部になっている世代というわけです。立石電機さんなども、この世代にどう対処されるのか興味のあるところですね。

金井 なるほど、しかし、われわれの世代は、戦前世代と戦後世代の両方と話が通じる、その中間にいるんですね。そういう意味では貴重な世代だと思うのですが、こういう世代は今後はあらわれないと思うんですよ。

内村 明治から第一世代までのストイックでロマンチストの時代と、第二世代以降のリアリスティクな時代との中間にいて、ジョイントみたいな世代ですよね。

金井 ですから、昭和ヒトケタ、昭和フタケタでよく分けますが、この分けかたに私は抵抗があるんです。

80年代ビジネスマンの条件

岡部 世代論というのは難しいものですね。そこで見方を変えて、私たちが仕事をしていく上での条件というか、ビジネスマンの条件いとうと大袈裟ですが、自分でやってきたことを考えてみますと、二つあると思うのです。
 一つは好奇心を掘り下げろということです。好奇心といっても、物好きではだめなので、とことんまでぐいぐい押していかなくてはいけない。普通の人は、どこかで諦めてしまうのですが、それではダメなんですね。ダメモト精神で詮索するところから、商売の糧も、新しい発想も出て来ます。
 もう一つは柔軟性です。これがないと精神衛生によくない。世の中、昨日は良かったものが今日は悪くなるということはよくあることで、それにすぐ順応できる柔軟性ということですが。右むけと言ったら、左むけと言われるまで右むいているようなのは取り残されるのですね。しかし、フレキシビリティを涵養するのは、なかなかむずかしいことです。
 そのためには気分を転換することですよ。私は一つのことを考えていて、ニッチもサッチもいかなくなった時は、まったく別のことを考えるようにしています。そういう転換のしかたもあるわけで、すると、意外に良いアイデアが浮かぶものです。

金井 私の方の商売ですと、そのフレキシビリティというか、柔軟性というものは、お客様によって、ずいぶんと育てられますね。行きつくところはお客様です。私どもだと現場にいさえすれば、フレキシビリティは育てられます。このフレキシビリティがあれば、どんな環境でも、ポジションにでも耐えられるのは確かですね。硬直化してしまってはいけない。このことは、銀行でも、流通でも、メーカーでも同じことですね。
 それに健康。

内村 私は、これからのビジネスマンの条件には国際性を挙げたいですね。これまでの英語が話せるとか、ロゴスがわかるとか、何回外国に行ったとかではなく、価値観のちがいを超えて、ほんとうの意味で国際人であるということです。
 それは、これからは世界の中での日本の位置づけが変わり、いままでは小売は関係ないと思われていたけれど、やはり、そういう国際性が求められるようになってきた。
 もう一つはオン・デューティとオフ・デューティのウェルバランス、あるいは専門バカとジェネラリストのウェルバランスがないと良いビジネスマンにはなれないんじゃないかと思いますよ。いまや企業というものは、単一の企業ではなくて、関係ないと思われた他の企業といつ手を組むかわからない時代に入ってきている。いつ何が起こるかわからない。それに対応できるのがウェルバランスじゃないかと...。それに企業ロイヤリティより仕事ロイヤリティですね。

岡部 う-ん。私なんかは企業ロイヤリティですね。実感としては仕事がおもしろいからやっているわけですが、ベースには住友銀行がありますね。周囲をみても企業ロイヤリティの方が高いですよ。

金井 私もそう思いますね。

岡部 この点ではヨーロッパは日本的ですし、アメリカでも必ずしも仕事ロイヤリティとばかりも言えないですよ。シカゴの大銀行は大卒を採用して20年も30年も育てていますからね。ただ、何に対するロイヤリティであるかということは、あまり問題ではなく、国家・社会・会社、何であっても、つまるところは仕事が面白いからというところに帰するのではないですか。

内村 業種によってちがうかもしれないけれど、私は仕事ロイヤリティの時代に入ってきたと思っているんです。流通では特にそうなのでしょうが、新しい分野に乗り出すときに、それに合う人を教育していたのでは間に合わない。企業の中に育っていないということになれば、仕事ロイヤリティ人間を導入してくるということになる。そのほうが攻めやすい。しかも、そういう分野はどんどん拡がっていきますからね。
  シアーズなんかは終身雇用的企業ですが金融や不動産に、テイクオーバーによって進出する。そういう場合でも仕事ロイヤリティのある人間を導入しています。

岡部 国際性の問題ですが、私はビジネス・ランチョンはいいのですが、ディナーは苦手ですね、いまだに。オフビジネスの話題を探すのが難しくて、楽しくないのですが、それが楽しくならないと、その土地の文化に溶けこむことにはならない。溶けこむためには、まず日本のことを知って説明できなくてはいけないし、相手の文化や風習を理解しなくてはいけない。私はいまだにオフビジネスは苦手です。しかし、それに馴れないといけないとは思いますがね。

内村 10年後の日本を考えてみますと、日本の経済地位は、世界の中ではいやでも高くなる。そうなればどんな仕事でも国際的な仕事をしないわけにはいかない。そういう時代にビジネスマンとして生きていくためには、ほんとうの意味での国際人である必要があるのですね。
 価値観とか人種とか、いろいろな国際間の垣根と関係なく、人間対人間としてつき合うことのできるビジネスマン、これが、これからのビジネスマン像だと思います。
 オンビジネスでも、オフビジネスでも対等につき合えるということです。

岡部 それから、一日のうちに少しでもいいから自分を考える時間を持つことを心掛けなければいけませんね。会社に入ってしまったら、一人で自分のことを考える時間はまったくない。そういうなかで、一日に一度だけは自分を考える時間を持つのは必要なことです。

内村 しかし、こう忙がしく毎日を過ごし、家庭での時間がいっそう少なくなると、その代りに家庭を大切にしようという気持ちは強くなりますね。家庭と仕事の二つの面を大切にしなくちゃいけないと。家庭はかけがえのない世界だからオフビジネスとオンビジネスをマインドとしては50対50にしたいという気持ちになってくる。しかし、実際の時間としては95対5だったりして(笑)。女房にそんなこと言ったら「ウソばっかし」ということになるけれど(笑)、マインドは強〈なりますね。

岡部 私なんかはもともと少ない方だから、少ないのが当たり前になっています。

金井 私はどうも内村さんのようには言うえないのですね。気持ちの上では原点はそこにあるのだけれど、なんとなくはずかしくてよう言えない。

内村 そうなのでしょうね。そのあたりが戦後第一世代と、私たちの年代とのちがいということになるんでしょうね。明治人となんとなくつながりを持っている感じで。(笑)

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(1982年9月、中央公論社発行「中央公論経営問題"WILL"~男40代、チャンスを掴め」1982年9月号p36~41所収)

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